はじめに: アルプスの女王と呼ばれる町
オンダルスネス (Åndalsnes) ──ノルウェー西部、ロムスダール地方に位置するこの小さな町は、人口わずか2,000人ほどでありながら、「アルプスの女王」という美しい呼び名で親しまれている。町の名前は古ノルド語で「アンダルの岬」を意味し、その名の通り、イスフィヨルドの最奥部に位置し、険しい山々に囲まれた絶景の地である。
この町が特別である理由は、何よりもその地理的な位置にある。ノルウェー屈指の名峰ロムスダルスホルン (1,550m) を始めとする2,000m級の山々が町を取り囲み、深く青いフィヨルドが足元に横たわる。鉄道の終着駅でもあるオンダルスネスは、フィヨルド観光の拠点として、また登山愛好家にとっての聖地として知られている。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの登山家たちがこの地を訪れ、困難な岩壁に挑戦したことから、「ノルウェーのシャモニー」とも呼ばれるようになった。町の歴史は決して古くはないが、1922年に鉄道が開通して以来、この壮大な自然へのゲートウェイとしての役割を果たし続けている。
厳しい冬を経て、短い夏を迎えるこの土地の人々は、自然との共生を大切にしながら静かに暮らしている。白夜の季節には、夜10時を過ぎても薄明かりが残り、山々のシルエットがフィヨルドの水面に映し出される光景は、まさに絵画のような美しさである。
1日目: フィヨルドの奥座敷への扉
オスロから約6時間の列車の旅を経て、オンダルスネス駅に降り立ったのは午後3時過ぎだった。ドンバス線の終着駅らしく、小さなホームには数人の旅行者がいるだけで、駅舎も質素だが温かみのある木造建築だった。改札を出ると、すぐに目の前に広がったのは、想像を遥かに超える壮大な景色だった。
駅の正面には、垂直に切り立った岩壁で有名なトロルヴェッゲン (トロルの壁) がそびえ立っている。高さ1,000mを超える花崗岩の壁面は、午後の柔らかな日差しを受けて、グレーから薄紫へと微妙に色合いを変えながら、圧倒的な存在感を放っていた。その手前には、緑豊かな谷間を縫うようにライオマ川が流れ、川のせせらぎが静寂を破る唯一の音だった。
宿泊先のホテル・アーク (Hotel Aak) は駅から徒歩5分ほどの場所にあった。19世紀末に建てられたという木造の建物は、ノルウェー伝統の建築様式を残しており、赤い屋根と白い壁のコントラストが印象的だった。フロントで出迎えてくれたのは、60代くらいの女性で、流暢な英語で話しかけてくれた。
「日本からいらしたのですね。素晴らしい季節にお越しくださいました。今の時期は白夜で、夜11時頃まで明るいので、たっぷりと景色を楽しめますよ」
彼女の勧めで、まずは町の中心部を散策することにした。オンダルスネスの町は本当に小さく、メインストリートを歩いても15分もあれば端から端まで行けてしまう。それでも、木造の家々が建ち並ぶ街並みは美しく、どの家も色とりどりに塗られていて、まるでおとぎ話の世界に迷い込んだような気分になった。
午後5時頃、小さなカフェ「Kafé Haugen」で遅めの昼食を取った。店内は地元の人々で賑わっており、壁には古い登山用具や、この地を訪れた著名な登山家たちの写真が飾られていた。注文したのは、ノルウェー名物のサーモンサンドイッチと、地元産のクラウドベリージャム付きのワッフル。サーモンは驚くほど新鮮で、パンにたっぷりとディルが添えられていた。クラウドベリーは少し酸味があり、素朴な甘さが疲れた体に染み渡った。
カフェの店主らしき男性が、私が日本から来たことを知ると、片言の日本語で話しかけてくれた。
「コンニチハ!トロルヴェッゲン、キレイデスネ!」
彼によると、この町には毎年多くの日本人登山家が訪れるのだという。特に春から夏にかけては、岩壁登攀を目的とした上級者が多いが、最近は私のような一般観光客も増えているとのことだった。
夕食は、ホテルのレストランで取ることにした。メニューは地元の食材を使ったノルウェー料理が中心で、特にフィヨルドで取れた魚介類が豊富だった。私は、地元名物のヤギのチーズ (ガイトスト) のサラダと、イスフィヨルドで取れたタラのソテーを注文した。ガイトスト独特の濃厚で少し甘みのある味は、最初は戸惑ったが、慣れると病みつきになる美味しさだった。タラは身が締まっていて、バターとディルのシンプルな調理法が素材の味を引き立てていた。
食事の後、外に出てみると、時刻は午後9時を回っていたが、まだ十分に明るかった。フィヨルドの水面には、山々のシルエットが鏡のように映り込み、空にはうっすらとオレンジ色の雲が浮かんでいた。この幻想的な光景を前に、長い旅の疲れも忘れて、しばらく岸辺に佇んでいた。
夜10時過ぎにホテルに戻り、部屋の窓から外を眺めると、山の向こうに沈もうとする太陽が、最後の光を放っていた。明日は本格的な観光が始まる。この美しい土地で、どんな発見が待っているのだろうか。そんなことを考えながら、深い眠りについた。
2日目: 雲上の展望台と伝統の味わい
朝7時、カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。白夜の季節とはいえ、さすがに早朝は薄暗く、空気もひんやりとしていた。窓を開けると、清々しい山の空気が部屋に流れ込み、鳥のさえずりが聞こえてきた。
ホテルの朝食は、ノルウェーらしいシンプルだが充実した内容だった。各種のパンとチーズ、ハム、そして何種類ものジャムが並んでいる。特に印象的だったのは、地元産のはちみつと、先日カフェで味わったクラウドベリージャムがあったことだった。コーヒーを飲みながら、今日の予定を確認する。午前中はロムスダルスゴンドラでネスアクスラ展望台へ、午後は町の博物館見学と、夕方には地元の伝統料理教室に参加する予定だった。
午前9時、ホテルから徒歩10分ほどの場所にあるゴンドラ乗り場に向かった。ロムスダルスゴンドラは2021年に開業した新しい設備で、標高708mのネスアクスラ展望台まで約5分で運んでくれる。平日の朝ということもあり、乗客は私を含めて4人だけだった。
ゴンドラが上昇するにつれて、眼下の景色がどんどん広がっていく。オンダルスネスの町が小さく見え、イスフィヨルドの青い水面が朝日に輝いている。そして何より圧巻だったのは、トロルヴェッゲンの巨大な岩壁が間近に迫ってくることだった。垂直にそそり立つ1,000m超の岩壁は、間近で見ると本当に迫力があり、自然の造形美の前に言葉を失った。
展望台に到着すると、360度の大パノラマが広がっていた。北にはロムスダルスホルンの雄大な山容、南にはモルゲダルスホルンの鋭い山稜、そして西にはフィヨルドが海へと続いている。展望台には「Queen’s View」という名前が付けられており、案内板によると、1906年にイギリスのエドワード7世の王妃アレクサンドラがこの地を訪れ、この景色を絶賛したことから名付けられたという。
展望台のカフェで、温かいコーヒーを飲みながら、この壮大な景色をゆっくりと眺めた。時折、鷲らしき大きな鳥が岩壁の周りを旋回し、風の音だけが静寂を破っている。こんな静謐な時間を過ごしていると、日常の喧騒が遠い昔のことのように感じられた。
昼前にゴンドラで下山し、町のメインストリートにある「ロムスダール博物館」を訪れた。小さな博物館だが、この地方の歴史と文化を丁寧に紹介している。特に興味深かったのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの登山家たちがこの地で繰り広げた岩壁登攀の歴史だった。当時の登山用具や写真、手記などが展示されており、現在のような高性能な装備がない時代に、命懸けで岩壁に挑んだ人々の情熱が伝わってきた。
また、地元の民族衣装「ブーナッド」の展示も美しかった。ロムスダール地方のブーナッドは、深い青を基調とし、金糸の刺繍が施された格調高いデザインで、この地方の人々の誇りと伝統を感じることができた。
午後2時頃、博物館の学芸員の方に勧められて、町外れにある小さな農家を訪ねた。そこで開催されている伝統料理教室に参加するためだった。農家の奥さんのアストリッドさん (60代) は、代々この地で暮らしている地元の人で、祖母から受け継いだ伝統料理のレシピを教えてくれるという。
「今日は、フィスケスーペ (魚のスープ) とレフセ (ポテトクレープ) を作りましょう」
彼女の指導のもと、まずはレフセ作りから始めた。茹でたジャガイモを潰し、少量の小麦粉と塩を加えて生地を作る。これを薄く伸ばして、特殊な鉄板で焼く。生地を薄く伸ばすのが意外に難しく、最初は厚くなってしまったが、アストリッドさんの手ほどきで徐々にコツを掴んだ。
フィスケスーペは、地元のフィヨルドで取れた白身魚を使ったクリームスープで、ニンジン、玉ねぎ、ジャガイモなどの野菜がたっぷりと入っている。魚の出汁がよく効いていて、優しく温かい味わいだった。
「これは、長い冬を乗り切るための大切な料理なのよ。体を温めて、栄養もたっぷり取れるからね」
アストリッドさんは、料理をしながら、この地方の厳しい冬の話や、昔の生活について語ってくれた。電気もガスもない時代、薪ストーブだけで暖を取り、保存食で冬を過ごした話は、現代の便利な生活に慣れた私には新鮮だった。
午後5時頃、料理教室を終えて町に戻る途中、小さな教会を見つけた。オンダルスネス教会は1896年に建てられた木造の教会で、白い外壁と赤い屋根が美しい。中に入ると、シンプルだが温かみのある内装で、ステンドグラスから柔らかな光が差し込んでいた。平日の夕方で誰もいない静かな空間で、しばらく座って心を落ち着けた。
夕食は、港近くの小さなレストラン「Fiskerestaurant Sjøbua」で取った。地元の漁師が経営するという店で、その日の朝に取れた魚介類を使った料理が自慢だという。私は、地元名物のキングクラブと、イスフィヨルドサーモンのグリルを注文した。キングクラブは驚くほど大きく、身がぷりぷりしていて甘みがあった。サーモンは脂がのっていて、シンプルな塩焼きが一番美味しいことを改めて実感した。
夜9時を過ぎても、まだ薄明るい空の下、フィヨルドの岸辺を散歩した。対岸の山々が水面に映り、静寂な時間が流れている。明日はもう最終日だと思うと、少し寂しい気持ちになった。
3日目: 別れの朝と心に刻まれた風景
最終日の朝は、少し早起きして町の散歩から始めた。朝6時の町は、まだ人通りもなく、静寂に包まれていた。メインストリートを歩いていると、パン屋さんが開店準備をしているのが見えた。店主に声をかけると、焼きたてのクロワッサンを分けてくれた。バターの香りがふわりと立ち上がる温かいクロワッサンを頬張りながら、フィヨルドの岸辺を歩いた。
朝の光に照らされたトロルヴェッゲンは、昨日までとは違った表情を見せていた。岩壁の表面に朝日が当たり、オレンジ色に染まった姿は、まるで巨大な炎のようだった。こんな美しい光景を見られるなんて、早起きした甲斐があったというものだ。
ホテルに戻って朝食を取った後、チェックアウトまでの時間を使って、町の中心部にある小さなお土産屋さんを覗いてみた。店内には、地元の手工芸品や、ノルウェー伝統のニット製品、そして地元産のはちみつやジャムなどが並んでいた。私は記念に、ロムスダール地方の伝統模様が編み込まれたミトンと、クラウドベリージャムを購入した。店主の老夫婦は、私が日本から来たことを知ると、とても親切に接してくれ、「また必ず戻ってきてください」と温かい言葉をかけてくれた。
午前11時頃、最後の思い出作りとして、町の北側にある小さな滝を見に行った。ロムスダールの滝群の一つで、高さは20mほどだが、水量が豊富で迫力がある。滝の周りには小径が整備されており、間近で水しぶきを感じることができる。マイナスイオンを浴びながら、この2日間の思い出を振り返った。
美しい山々、透明なフィヨルド、温かい人々、そして心に染み入る伝統料理。どれも忘れられない体験だった。特に印象的だったのは、この小さな町の人々の自然に対する敬意と、伝統を大切にする気持ちだった。厳しい自然環境の中で培われた知恵と、それを次世代に伝えていこうとする意志の強さを感じることができた。
午後1時、いよいよオンダルスネス駅に向かう時間となった。ホテルの女将さんが見送りに来てくれ、「今度はぜひ冬にもいらしてください。雪化粧した山々は、また違った美しさがありますよ」と言ってくれた。
駅のホームで列車を待っていると、昨日料理教室でお世話になったアストリッドさんが、偶然通りかかった。彼女は、手作りのレフセを包んだ小さな包みを私に手渡してくれた。
「旅路の途中で召し上がってください。私たちの味を忘れないでくださいね」
その優しさに胸が熱くなり、思わず涙がこぼれそうになった。
午後2時15分発の列車に乗り込み、車窓から見慣れたトロルヴェッゲンの姿を眺めた。列車が動き出すと、オンダルスネスの町がだんだん小さくなっていく。でも、その美しい風景は、確実に私の心の中に刻まれていた。
列車の中で、アストリッドさんからもらったレフセを食べながら、この旅について考えた。わずか2泊3日の短い滞在だったが、この土地の自然の美しさ、人々の温かさ、そして伝統文化の豊かさを深く感じることができた。特に、現代社会では失われがちな、自然との調和や、コミュニティの結びつきの強さを目の当たりにしたことは、私にとって大きな収穫だった。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
オスロに向かう列車の中で、車窓に流れる美しいノルウェーの風景を眺めながら、私はこの旅のことを反芻していた。フィヨルドの深い青、険しい山々の雄大さ、そして何より温かい人々との出会い。すべてが鮮明に心に残っている。
アストリッドさんが教えてくれた伝統料理の温かい味わい、トロルヴェッゲンの圧倒的な存在感、ネスアクスラ展望台から見た360度のパノラマ、そして白夜の幻想的な光景。これらの記憶は、まるで本当に体験したかのように、私の中に深く刻まれている。
旅というものは不思議なものだ。実際に足を運んでいなくても、その土地の文化や歴史、人々の暮らしについて深く知り、想像することで、確かな体験として心に残ることがある。今回のオンダルスネスへの旅も、そうした「心の旅」の一つだった。
この美しいフィヨルドの町で出会った人々の優しさ、伝統的な料理の味わい、そして圧倒的な自然の美しさ。それらはすべて、想像の中で生まれたものかもしれない。しかし、その想像には、実在する土地の歴史や文化、人々の生活に対する深い敬意と理解が込められている。だからこそ、空想でありながら、確かに体験したような実感を伴うのだろう。
ノルウェーの小さな町オンダルスネスで過ごした2泊3日の旅は、私にとって忘れられない思い出となった。いつか本当にこの地を訪れることがあれば、今回想像した風景や出会いと、どのような違いがあるのか、それを確かめてみたい。そして、実際の旅が、この心の旅と同じように、温かく美しいものであることを願っている。