はじめに: アントリム海岸の小さな真珠
バリーガリーという名前を初めて聞いたとき、その響きには何か魔法めいたものを感じた。北アイルランドのアントリム海岸沿いに位置するこの小さな村は、人口わずか1,000人ほどの静寂な海辺の集落だ。アイリッシュ海に面した断崖絶壁と緑豊かな丘陵地帯に囲まれ、17世紀に建てられた古い城館が海を見下ろしている。
この土地の歴史は古く、ケルト人の時代から人々が暮らしてきた。村の名前「Ballygally」はアイルランド語の「Baile na nGall」に由来し、「外国人の町」を意味する。スコットランドからの入植者たちがこの地に根を下ろした証でもある。今でも村の人々の話すアルスター・スコッツの訛りには、その歴史の響きが残っている。
バリーガリー城は1625年に建てられた要塞化された邸宅で、現在はホテルとして営業している。幽霊が出ると言われる古い城で、特に「グレイ・レディ」と呼ばれる女性の霊の目撃談が絶えない。城の周りには手入れされた庭園が広がり、海風に揺れる古いバラの木々が、時の流れを静かに物語っている。
村の経済は昔から漁業と農業に支えられてきた。今でも小さな漁港では地元の漁師たちが毎朝船を出し、新鮮な魚介類を水揚げしている。また、近年は観光業も盛んになり、アントリム海岸道路を巡る旅行者たちの憩いの場となっている。ジャイアンツ・コーズウェイやカリック・ア・リード橋といった有名な観光地への中継地点でもあるが、バリーガリー自体が持つ静謐な美しさは、訪れる人々の心に深い印象を残す。
1日目: 海風に包まれた到着の日
ベルファストから車で北上すること約40分、アントリム海岸道路を走りながら、左手に広がるアイリッシュ海の青さに目を奪われた。5月の午前10時頃、バリーガリーの村に到着すると、海風が頬を撫でていく。塩の香りと青い草の匂いが混じり合った、この土地特有の空気を深く吸い込んだ。
バリーガリー城ホテルにチェックインを済ませる。17世紀の石造りの建物は、長い年月を経て深い味わいを増している。フロントの女性は温かい笑顔で迎えてくれ、「お部屋からの海の眺めを楽しんでくださいね」と声をかけてくれた。部屋は3階にあり、窓からはアイリッシュ海が一望できる。遠くスコットランドの島影がうっすらと見える。
荷物を置いて、午前中は村の散策に出かけた。メインストリートは石畳が美しく、両側には白い壁のコテージが並んでいる。煙突からは薄い煙が立ち上り、どこか懐かしい光景だった。村の中心部にある小さな教会、セント・パトリック教会は12世紀に建てられたもので、苔むした墓石が静かに時の流れを物語っている。教会の庭には古いケルト十字が立ち、その彫刻の美しさに見入ってしまった。
昼食は村の唯一のパブ「The Harbour Inn」で取った。地元の漁師や農家の人たちが昼間からパイントを傾けている。私はフィッシュ・アンド・チップスを注文した。その日の朝に水揚げされたコッドは身が締まっていて、サクサクのバッターに包まれている。チップスはじゃがいもの甘みが感じられ、モルトビネガーをかけて食べると絶品だった。隣のテーブルのおじいさんが「今日は良い天気だね」と話しかけてくれる。彼は70年間この村に住んでいるという。「昔はもっと漁師が多かったんだが、今は観光客の方が多いかもしれないな」と笑って話してくれた。
午後は海岸線を歩いた。バリーガリー・ビーチは小さな入り江にある砂浜で、潮が引いた後には小さな岩のプールがたくさんできている。子供たちがカニやヤドカリを探して遊んでいる。波音が心地よく、時折カモメの鳴き声が混じる。崖の上から見下ろすと、海の色が深い紺色から薄い緑色へと変化していく様子が美しい。
夕方、城の庭園を散歩した。5月の北アイルランドは日が長く、8時頃になってもまだ明るい。庭園のバラはまだ蕾の状態だったが、古い石垣には蔦が絡み、中世の雰囲気を醸し出している。城の一角にある小さなチャペルは現在も使われており、地元の人々の結婚式が行われることもあるという。
夜は城のレストランで夕食を取った。アルスター地方の伝統料理であるアルスター・フライを注文した。ベーコン、ソーセージ、ブラック・プディング、ホワイト・プディング、卵、トマト、ポテト・ブレッドが一皿に盛られた、ボリューム満点の料理だ。地元で作られたソーダ・ブレッドも一緒に出されて、バターをつけて食べると素朴な味わいが広がる。
食事の後、バーで地元のビールを飲みながら、窓の外を眺めた。月明かりが海面を照らし、波の音が静かに響いている。バーテンダーの青年は地元出身で、「この城には本当に幽霊が出るんですよ」と楽しそうに話してくれた。「でも怖い幽霊じゃないんです。グレイ・レディは優しい霊で、時々廊下を歩いているのを見かけるだけです」。
部屋に戻ると、窓から見える海が月光でキラキラと光っている。遠くで船の明かりが点々と見える。今日一日で感じたこの土地の温かさと静けさが、心に深く染み入っていく。枕元に置いた時計の針が11時を指す頃、波音に包まれながら眠りについた。
2日目: 自然と歴史が織りなす一日
朝6時頃、鳥のさえずりで目が覚めた。窓を開けると、朝の海風が頬を撫でていく。空は薄いピンク色に染まり、水平線の向こうから太陽がゆっくりと顔を出している。こんなに美しい朝を迎えたのは久しぶりだった。
朝食は城のダイニングルームで取った。アルスター・フライをもう一度食べるのは重すぎるので、今日はポリッジにした。オートミールに蜂蜜とクリームをかけて、温かいお茶と一緒に食べる。シンプルだが、心も体も温まる朝食だった。地元産の蜂蜜は花の香りが豊かで、5月の野原に咲く花々を思い起こさせる。
午前中は、村から少し離れた場所にあるガルゴルム・ドルメンを訪れることにした。車で15分ほどの場所にある新石器時代の巨石遺跡だ。緑の丘の中にひっそりと佇む石の構造物は、5000年以上前の人々の営みを物語っている。巨大な石が絶妙なバランスで組み合わされており、古代の人々の技術力に驚かされる。
ドルメンの周りには羊たちが草を食んでいる。白い毛に覆われた羊たちは人懐っこく、近づいても逃げようとしない。遠くには海が見え、古代の人々もこの同じ景色を見ていたのかもしれないと思うと、時間の重層性を感じる。風が吹くと、草原の匂いと羊の匂いが混じり合った、田舎特有の香りが漂ってくる。
昼前に村に戻り、今度は漁港を訪れた。小さな港には色とりどりの漁船が係留されている。漁師のジョンさんが網の手入れをしていたので、話しかけてみた。60代の彼は30年以上この海で漁をしているという。「この海はスコットランドと北アイルランドの間にあるから、潮の流れが複雑なんだ。でもその分、魚も豊富だよ」と教えてくれた。
彼の船に乗せてもらい、少し沖に出ることができた。陸から見るバリーガリーとは違った顔を見せてくれる。城は崖の上に威厳を持って立ち、白い村の建物たちが緑の丘陵に点在している。海から見る故郷の美しさに、地元の人々が誇りを持っている理由がよく分かった。
昼食は港近くの小さなカフェ「Seabreeze Cafe」で取った。地元の魚介類を使ったシーフード・チャウダーは絶品だった。大きな海老、帆立貝、鮭の切り身がゴロゴロと入っており、クリーミーなスープは海の恵みを存分に味わえる。オーナーのメアリーさんは地元出身で、「この村の魚は本当に新鮮よ。朝取れたものをその日のうちに使うから」と誇らしげに話してくれた。
午後は、バリーガリー城の歴史について詳しく学ぶため、城内の見学ツアーに参加した。ガイドのパトリックさんは地元の歴史に詳しく、城の建設から現在に至るまでの物語を情熱的に語ってくれた。城は1625年にジェームズ・ショーによって建てられ、スコットランドのプランテーション政策の一環として建設された。厚い石壁と小さな窓は、当時の不安定な情勢を物語っている。
城の中で最も印象的だったのは、グレート・ホールだった。高い天井には古い梁が張り巡らされ、大きな暖炉には紋章が刻まれている。ここで400年間、多くの人々が食事を共にし、祝祭を行ってきた。壁には歴代の城主の肖像画が飾られており、時代の移り変わりを静かに見守っている。
夕方、城の庭園で開催されている小さなコンサートに参加した。地元の音楽家たちがアイリッシュ・トラディショナル・ミュージックを演奏している。フィドル、ボードラン、アイリッシュ・フルートの音色が夕暮れの空に響く。観客席には地元の人々と観光客が混じって座り、音楽を通じて一体感を感じる。特に「Danny Boy」が演奏されたときは、多くの人が一緒に歌っていた。アイルランドの人々にとって音楽がいかに大切な文化であるかを実感した。
夜は再び The Harbour Inn で夕食を取った。今度はラム・シチューを注文した。地元で育てられた羊肉は柔らかく、じゃがいもと人参、玉ねぎと一緒に煮込まれている。付け合わせのコルカノン (じゃがいもとキャベツを混ぜたもの) も素朴で美味しい。パブの雰囲気も昨日より親しみやすく感じられ、隣の席の地元の人たちと軽い会話を交わした。
帰り道、満天の星空を見上げた。街の明かりが少ないこの村では、星がくっきりと見える。北斗七星やオリオン座がはっきりと識別でき、天の川も薄っすらと見える。海からの風が頬を撫でながら、一日の出来事を反芻する。古代の巨石遺跡から現代の音楽まで、時間の層が重なり合ったような、充実した一日だった。
3日目: 別れと心に残る記憶
最終日の朝も、鳥のさえずりで目が覚めた。昨日とは違い、少し雲が多い空だったが、それがかえって北アイルランドらしい風情を醸し出している。荷造りをしながら、窓から見える海の景色をもう一度心に焼き付けた。
朝食後、チェックアウトまでの時間を使って、もう一度村を歩くことにした。今度は昨日通らなかった小道を選んで歩いてみる。村の奥には古い水車小屋があり、今は使われていないが、石造りの美しい建物が残っている。小川が流れ、水車の周りには野生の花が咲いている。スイセンやブルーベルが咲き誇り、5月の北アイルランドの美しさを象徴している。
小川沿いを歩いていると、地元の画家らしき女性が風景画を描いていた。声をかけてみると、彼女はマーガレットさんという地元出身のアーティストだった。「私はこの村で生まれ育ったけれど、毎日新しい美しさを発見するの」と話してくれた。彼女の絵は水彩画で、淡い色調でバリーガリーの風景を表現している。特に印象的だったのは、朝霧に包まれた城の絵だった。
村の雑貨店で、お土産を買うことにした。地元で作られた羊毛のセーターや、アイリッシュ・リネンのハンカチ、そして村の風景を描いたポストカードを購入した。店主のおばあさんは80歳を超えているが、とても元気で、「この村の良さを分かってくれてありがとう」と温かい言葉をかけてくれた。
昼前にホテルをチェックアウトし、最後にもう一度城の庭園を歩いた。朝の光とは違う、昼間の陽光に照らされた庭園は、また違った表情を見せてくれる。バラの蕾が少し膨らんでいるのに気づいた。もう少し季節が進めば、きっと美しい花を咲かせることだろう。
出発前に、最後の昼食を The Harbour Inn で取った。今度はアイリッシュ・ステーキを注文した。地元で育てられた牛肉は赤身が美味しく、付け合わせの野菜も新鮮だった。デザートには伝統的なアップル・タルトを頼んだ。サクサクのパイ生地に甘酸っぱいリンゴがたっぷりと入っている。カスタードソースをかけて食べると、素朴だが心温まる味だった。
昼食後、いよいよ出発の時間となった。車に荷物を積み込みながら、この2泊3日で出会った人々の顔を思い浮かべた。フロントの女性、漁師のジョンさん、カフェのメアリーさん、画家のマーガレットさん、そして雑貨店のおばあさん。みんな温かく迎えてくれて、この小さな村に対する愛情を教えてくれた。
車を走らせながら、バックミラーに映るバリーガリー城を見つめた。海に面した崖の上に立つ城は、まるで時の守護者のように見える。400年間この地を見守り続け、これからも多くの旅人を迎え続けることだろう。
アントリム海岸道路を南下しながら、この3日間の記憶を反芻した。古代の巨石遺跡で感じた時の重み、漁師の船から見た海の美しさ、地元の人々の温かさ、そして夜の星空の美しさ。どれも心に深く刻まれている。
ベルファストが近づいてくる頃には、すでにバリーガリーが恋しくなっていた。あの静かな村、優しい人々、美しい自然。現代の忙しい生活の中で忘れがちな、人間らしい時間の流れを思い出させてくれた場所だった。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この北アイルランド・バリーガリーでの2泊3日の旅は、実際には体験していない空想の旅である。しかし、文字を追いながら、その土地の風景や人々の温かさ、食べ物の味や海風の感触が、まるで実際に体験したかのように心に響いてくる。
旅の本質は、必ずしも物理的な移動にあるのではなく、心の中で新しい世界を発見し、異なる文化や風景に触れることにあるのかもしれない。バリーガリーという小さな村での出来事は空想でありながら、読む人の心の中では確かな記憶として残る。
17世紀の古城、新石器時代の巨石遺跡、温かい地元の人々、新鮮な海の幸、そして満天の星空。これらすべてが織りなす物語は、実在する土地と文化に基づいているからこそ、リアリティを持って私たちの心に届く。
空想の旅が終わった今、バリーガリーは心の中の特別な場所として残っている。いつか本当にその土地を訪れる日が来たとき、きっとこの空想の記憶と現実の体験が重なり合い、より豊かな旅の思い出となることだろう。
旅は、私たちの想像力と現実の世界をつなぐ架け橋なのかもしれない。そして、その橋を渡ることで、私たちは新しい自分自身を発見し、世界への理解を深めていくのである。