はじめに: 三つの国が出会う街
ライン川が静かに流れる街、バーゼル。スイス、ドイツ、フランスの三国が境を接するこの場所は、まさにヨーロッパの縮図のような都市だった。人口わずか17万人ほどの小さな街でありながら、世界有数の製薬会社が本社を構え、40を超える美術館・博物館が点在する文化都市でもある。
中世の面影を残すアルトシュタット (旧市街) の石畳を歩けば、13世紀に建てられたゴシック様式のミュンスター大聖堂の赤い砂岩が目に飛び込んでくる。一方で、現代建築の巨匠たちが手がけた美術館建築も街のあちこちに佇み、古きと新しきが自然に調和している。この街の魅力は、歴史の重層性と国際性、そして何より人々の穏やかな暮らしぶりにあるのだと、後に実感することになる。
1日目: 石畳に響く足音と、ライン川の調べ
朝8時過ぎ、チューリッヒから約1時間の列車の旅を経てバーゼルSBB駅に降り立った。駅の構内は既に通勤や通学の人々で賑わっていたが、どこか落ち着いた雰囲気が漂っている。改札を抜けると、すぐに街の中心部へと続く大通りが見えた。
宿泊先のホテル・ドライ・ケーニゲへ向かう道すがら、トラムが静かに街を行き交う様子に見とれた。緑と白のモダンなデザインの車両が、まるで街の血管のように路線を縫って走っている。乗客たちは皆、朝の新聞を読んだり、静かに窓の外を眺めたりしていて、せわしなさとは無縁の時間が流れていた。
ホテルにチェックインを済ませた後、まずは旧市街の散策に向かった。ライン川に架かるミッテレ橋を渡ると、対岸のクライン・バーゼル地区から見るグロース・バーゼルの街並みが美しかった。赤茶色の屋根瓦が連なり、その向こうにミュンスター大聖堂の双塔がそびえている。川面には朝の光が踊り、時折観光船がゆっくりと通り過ぎていく。
午前中は、まずマルクトプラッツ (市場広場) へ足を向けた。16世紀に建てられた赤い砂岩の市庁舎が広場を見下ろし、その鮮やかな色彩に目を奪われた。市庁舎の壁面には精緻な装飾が施され、時計塔の針が静かに時を刻んでいる。広場では朝市が開かれており、地元の人々が新鮮な野菜や花を買い求めていた。
市場の一角で、おばあさんが売っていた手作りのジャムを購入した。「これはアプリコットよ、バーゼル郊外で育ったの」と、流暢なドイツ語で説明してくれる。スイス・ドイツ語の訛りが心地よく、言葉の響きそのものが旅の記憶となって心に刻まれた。
昼食は旧市街のレストラン「ツム・ローテン・エンゲル」で。13世紀から続く歴史ある建物を改装したこの店は、石造りの壁と木の梁が印象的だった。メニューを見ると、バーゼル名物のメールスッペ (小麦粉のスープ) があったので迷わず注文した。運ばれてきたスープは、クリーム色の優しい色合いで、口に含むと小麦の素朴な甘みが広がった。地元のパンと一緒にいただくと、シンプルながらも深い味わいに心が温まった。
午後は、ベルイエ公園を散策した。この公園は市街地からほど近い丘の上にあり、バーゼルの街並みを一望できる絶好のスポットだった。芝生の上に寝転がり、遠くに見えるライン川と街の屋根を眺めていると、時間の流れが止まったような静寂に包まれた。公園には地元の家族連れや読書を楽しむ人々がいて、日常の延長にある穏やかな午後の時間を共有していた。
夕方、旧市街に戻ってミュンスター大聖堂を訪れた。正面から見上げる双塔は荘厳で、赤い砂岩が夕日に照らされて暖かな色に染まっていた。大聖堂の内部に入ると、ステンドグラスから差し込む光が石の床に色とりどりの影を落としている。しばらく長椅子に座り、静寂の中で一日の出来事を振り返った。旅の始まりにふさわしい、厳かで美しい時間だった。
夜は、ライン川沿いのレストラン「リバーサイド」で夕食をとった。窓際の席に座ると、川面に映る街の灯りが揺らめいて見えた。この日のメインディッシュは、ライン川で獲れた鮭のグリル。皮はパリッと香ばしく、身はふっくらとして川魚特有の上品な味わいがあった。付け合わせの季節野菜は、どれも地元の農家から仕入れたものだと給仕の男性が教えてくれた。
食事の後、ライン川沿いを散歩した。街灯に照らされた石畳が美しく、川のせせらぎが夜の静寂に溶けていく。対岸の建物群も暖かい光に包まれ、まるで絵画の中を歩いているような幻想的な気分になった。ホテルに戻る頃には、すっかりこの街に魅了されている自分に気づいていた。
2日目: 芸術と自然が織りなす調和
二日目の朝は、ホテルの朝食から始まった。スイス名物のミューズリーに地元産のヨーグルトとベリー類、そして焼きたてのクロワッサン。コーヒーは深く香ばしく、一日の始まりにふさわしい贅沢な時間だった。窓の外には既に活動を始めた街の様子が見え、トラムが規則正しく行き交っている。
午前中は、バイエラー財団美術館を訪れた。建築家レンツォ・ピアノが設計したこの美術館は、自然光を巧みに取り入れた設計で知られている。館内に足を踏み入れると、天井から差し込む柔らかな光が展示品を包み込んでいた。モネの睡蓮の連作の前で、長い間立ち尽くした。絵画から立ち上る光と影のゆらめきが、まるで実際の池を見ているかのような錯覚を起こさせる。
美術館の庭園も素晴らしかった。彫刻作品が芝生や樹木と調和して配置され、アートと自然が一体となった空間を作り出している。ベンチに座って庭園を眺めていると、地元の年配の女性が隣に座った。「この美術館は私の誇りなの」と英語で話しかけてくれた。彼女によれば、バーゼルは人口一人当たりの美術館数が世界一なのだという。芸術への愛情が市民の間に深く根付いているのを感じた。
昼食は美術館のカフェテリアで軽く済ませ、午後はライン川クルーズに参加した。船着き場で小さな遊覧船に乗り込むと、船長が気さくに手を振ってくれた。船がゆっくりと川を下り始めると、陸地から見るのとは全く違う角度でバーゼルの街並みが現れた。
川から見上げるミュンスター大聖堂は格別で、赤い砂岩の塔が青空に映えて荘厳な印象を与えた。船は旧市街の前を通り、やがてバーゼルの郊外へと向かった。両岸には緑豊かな森が広がり、時折現れる小さな村や農場が牧歌的な風景を作り出している。
約1時間のクルーズの間、ライン川がヨーロッパの大動脈として果たしてきた歴史的役割について思いを馳せた。この川は北海まで続き、古代から人々と物資を運んできた。今も大型の貨物船が行き交い、現代の物流を支えている。水面を渡る風が頬を撫で、川という存在の雄大さを肌で感じた。
船着き場に戻った後は、旧市街の石畳を歩いて探索を続けた。小さな路地に入ると、アンティークショップや手作り工芸品の店が軒を連ねている。ひとつの店で、地元の職人が作ったという木彫りの小さな熊の置物を購入した。店主の老人は「これはベルンのシンボルだけど、スイス全体の守り神でもあるんだよ」と説明してくれた。
夕方には、バーゼル大学の周辺を散策した。1460年に創立されたこの大学は、スイス最古の大学として知られている。キャンパスの建物は歴史の重みを感じさせる石造りで、学生たちが行き交う様子は現代と過去が交錯する不思議な光景だった。図書館の前の中庭では、学生たちがグループで議論している声が聞こえ、知的な雰囲気に満ちていた。
夜は、地元の人に勧められたワインバー「ツア・ハルモニー」を訪れた。地下の石造りの空間は中世の雰囲気を残し、ろうそくの灯りが壁に踊る影を作り出していた。バーテンダーは地元のワインに詳しく、スイスのファンダン (白ワイン) を勧めてくれた。グラスに注がれたワインは淡い金色で、口に含むとフルーティーな香りが広がった。
ワインを飲みながら、隣に座った地元の芸術家と話し込んだ。彼はバーゼルのアートシーンについて熱心に語り、「この街では芸術が生活の一部なんだ」と言った。彼の言葉通り、この街では美術館だけでなく、街角のギャラリーや建物の壁画まで、至る所にアートが息づいている。芸術と日常が自然に融合した、この街ならではの豊かさを実感した一日だった。
3日目: 記憶に刻まれる別れの朝
最終日の朝は、まだ薄暗いうちからライン川沿いを散歩した。朝もやに包まれた川面は鏡のように静かで、対岸の建物群がぼんやりとシルエットを浮かべている。時折、早朝のジョギングを楽しむ人とすれ違い、お互いに軽く会釈を交わした。この街の人々の穏やかな人柄が、最後まで心に残る印象を与えてくれた。
朝食後、まだ時間があったので、もう一度マルクトプラッツを訪れた。朝市の準備をする人々の活気ある姿を見ていると、この街の日常の営みに参加しているような気持ちになった。花屋のおじさんが「また来てね」とドイツ語で声をかけてくれ、旅人にも暖かい街なのだと改めて感じた。
チェックアウト前に、ホテルの屋上テラスからバーゼルの街を最後に見渡した。赤い屋根瓦が連なる街並み、その向こうに見えるライン川、そして地平線まで続く緑の丘陵。この風景は確実に記憶の奥深くに刻まれていくだろう。空には雲がゆっくりと流れ、時間の移ろいを静かに告げていた。
荷物をまとめてホテルを後にし、駅に向かう途中で小さなカフェに立ち寄った。最後にもう一度、スイスコーヒーの深い味わいを楽しみたかった。カフェの壁には地元アーティストの絵画が飾られ、コーヒーカップの向こうに見える街角の風景も、すべてが愛おしく思えた。
バーゼルSBB駅のプラットフォームに立つと、これから乗る列車が静かに入線してきた。車窓に映る街の風景が次第に遠ざかっていく中、この2泊3日で出会った人々や体験した瞬間が心の中で再生された。石畳を歩いた足音、ライン川のせせらぎ、美術館の静寂、地元の人々との暖かな交流。短い滞在でありながら、バーゼルという街の本質に触れることができたような気がした。
列車がスイスの田園地帯を駆け抜けていく中、車窓に流れる風景を眺めながら思った。旅というものは、新しい場所を訪れることだけでなく、その土地の空気や人々の暮らしに触れ、自分の中に新しい感覚を芽生えさせることなのかもしれない。バーゼルで過ごした時間は、確実に私の内面に何かを残していった。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この旅行記は完全な空想の産物である。実際にバーゼルの石畳を歩いたわけでも、ライン川の風を感じたわけでもない。しかし、この文章を書きながら、まるで本当にその場所にいたかのような感覚に包まれた。
想像力の中で体験した街の音や匂い、人々との出会い、美術館の静寂、川のせせらぎ。それらすべてが、記憶の中では確かな手触りを持って存在している。空想でありながら、確かにあったように感じられる旅。それは想像することの力と、文字を通じて世界を再構築することの魅力を教えてくれる。
バーゼルという実在の美しい街への憧憬と敬意を込めて。いつか本当にその石畳を歩き、ライン川を眺め、地元の人々と言葉を交わす日が来ることを願いながら。