はじめに
リトアニア北部の小さな町ビルジャイ。人口わずか1万人ほどのこの町は、バルト三国の中でも特に静寂と歴史の重みを感じさせる場所だ。16世紀に建設されたビルジャイ城を中心に発展したこの町は、かつてリトアニア大公国の重要な要塞都市として栄えた。今でも城の周りに広がる人工湖シュヴェントーイ湖が町を優しく包み込み、まるで時が止まったような穏やかな時間が流れている。
ラドヴィラ家が築いた城塞は現在博物館となり、町の象徴として佇んでいる。城の周辺には古い木造建築が点在し、リトアニアの伝統的な生活文化を今に伝えている。また、この地域は「セラ地方」と呼ばれ、独特の民俗文化や工芸品で知られている。特にリネン織りや木工芸は、何世代にもわたって受け継がれてきた技術だ。
秋の終わりのビルジャイを訪れることにしたのは、観光シーズンを外れた静寂の中で、この土地本来の姿に触れたかったからだった。
1日目: 湖に映る城影との出会い
ヴィリニュスから北へ向かうバスは、リトアニアの田園風景を縫うように走っていく。窓の外には黄金色に染まった白樺の林が続き、時折現れる小さな村落では煙突から白い煙がゆらゆらと立ち上っている。3時間ほどの道のりを経て、午前11時頃にビルジャイのバスターミナルに到着した。
町の中心部は徒歩圏内にすべてが収まっている。重いスーツケースを引きながら宿泊先のゲストハウス「アンタナス」へ向かう。石畳の道は少し凸凹しているが、その不揃いさがかえって歴史の重みを感じさせる。ゲストハウスの女将さんマリヤさんは、60代くらいの優しい笑顔の女性で、片言の英語で温かく迎えてくれた。
「お部屋から湖が見えますよ」と案内された2階の部屋の窓を開けると、目の前にシュヴェントーイ湖が広がっていた。湖面は秋の陽光を受けて銀色に光り、対岸にはビルジャイ城の赤い屋根が静かに佇んでいる。この瞬間、長い旅路の疲れが一気に癒されていくのを感じた。
午後、まずは町の中心地を歩いてみることにした。聖ヨハネ教会の鐘楼から町を見下ろすと、赤い瓦屋根の家々が湖を囲むように建ち並んでいる。教会の中は厳かな静寂に包まれており、色とりどりのステンドグラスから差し込む光が祭壇を柔らかく照らしている。地元の老人が一人、前列で静かに祈りを捧げていた。
昼食は教会近くの小さなカフェ「メドゥス」で取った。リトアニア名物のツェペリナイ (ジャガイモ団子) を注文すると、大きな楕円形の団子が2つ、濃厚なサワークリームと炒めたベーコンと一緒に運ばれてきた。一口食べると、外はもちもち、中の肉餡は程よく塩味が効いていて、素朴ながらも深い味わいがある。店主のおじさんが「いかがですか?」と片言の英語で声をかけてくれ、親指を立てて美味しさを表現すると、嬉しそうに笑ってくれた。
午後遅く、いよいよビルジャイ城を訪れた。16世紀にラドヴィラ家によって建設されたこの城は、現在は地域歴史博物館として使われている。城内では中世の武器や貴族の生活用品、そしてこの地域の民俗工芸品が展示されている。特に印象的だったのは、リトアニア大公国時代の地図だった。当時のリトアニアは現在よりもはるかに大きく、黒海まで領土を広げていたことを知り、この小さな町が持つ歴史の重要性を改めて感じた。
城の最上階からの眺めは圧巻だった。眼下に広がる湖、その向こうに続く森、そして夕日に染まり始めた空。この景色を何百年もの間、多くの人々が見つめてきたのだと思うと、時間の流れの中での自分の存在を意識せずにはいられなかった。
夜は再び「メドゥス」を訪れ、今度はクゲリス (ジャガイモのキャセロール) とリトアニア産のビールを注文した。クゲリスは表面がこんがりと焼かれており、中はクリーミーで優しい味わい。地元のビール「シュヴィトゥリス」は軽やかで飲みやすく、疲れた体に染み渡った。
宿に戻ると、マリヤさんが手作りのスコーンと温かいハーブティーを用意してくれていた。「ビルジャイはいかがでしたか?」と聞かれ、「とても美しい町ですね」と答えると、「明日はもっと素敵な場所をお見せしましょう」と微笑んでくれた。その夜、湖からの涼やかな風が頬を撫でながら、深い眠りについた。
2日目: 森の記憶と手仕事の温もり
朝、鳥のさえずりで目を覚ました。窓の外を見ると、湖面に薄い霧がかかり、幻想的な風景が広がっている。マリヤさんが用意してくれた朝食は、黒パンにチーズとハム、そして地元産の蜂蜜をたっぷりかけたもの。蜂蜜は深い琥珀色で、花の香りが口いっぱいに広がった。
午前中は、マリヤさんの勧めでビルジャイ地域公園を散策することにした。町から歩いて20分ほどの場所にある森は、リトアニア北部特有の針葉樹と広葉樹が混在する美しい森だった。遊歩道を歩いていると、足元には色とりどりの落ち葉が敷き詰められ、歩くたびにかさかさと音を立てる。
森の奥にある小さな湿地帯では、渡り鳥たちが羽を休めていた。双眼鏡を持参していなかったのが残念だったが、白鳥の優雅な姿や、カモの群れが水面を滑る様子をしばらく眺めていた。ベンチに腰掛けて持参したリンゴを齧りながら、森の静寂に身を委ねる。都市の喧騒から離れたこの場所では、自分の心拍音や呼吸音さえもはっきりと聞こえるような気がした。
午後は町に戻り、地元の工芸品工房を訪ねた。「アウシュロス」という名前の工房では、3代目となるお婆さんが一人でリネン製品を作っていた。年季の入った織り機の前に座る彼女の手つきは、まるで楽器を奏でるように滑らかで美しい。
「この技術は祖母から母へ、そして私へと受け継がれたものです」と、お婆さんは少し誇らしげに語ってくれた。実際に織り機を触らせてもらうと、その複雑さに驚いた。縦糸と横糸の絡み合いが、やがて美しい模様を生み出していく。お婆さんは私の不器用な手つきを見て優しく笑い、「初めてにしては上手ですよ」と励ましてくれた。
工房を後にする時、小さなリネンのハンカチを購入した。素朴な花柄が刺繍されたそのハンカチは、この土地での体験を象徴するような温かみを持っていた。
夕方、再び湖畔を散歩した。夕陽が湖面を金色に染め、城の影が水面に長く伸びている。湖岸のベンチに座り、この美しい光景をただ眺めていると、地元の老人が隣に座った。彼は流暢な英語で話しかけてくれ、自分が元教師であること、この町で生まれ育ったことを教えてくれた。
「ビルジャイは小さな町ですが、ここには本当のリトアニアがあります」と彼は言った。「大きな都市にはない、人と人との繋がり、伝統への敬意、そして自然との調和。これらすべてがここにはあるのです」。その言葉は、この2日間で感じていたことを的確に表現していた。
夜の食事は、宿の近くにある家庭料理の店「バルタ・ランカ」で取った。ここでは地元の家庭料理であるバルシチ (ボルシチのリトアニア版) とキビナイ (パイ包み焼き) を注文した。バルシチは深い赤色のスープで、ビーツの甘みとサワークリームの酸味が絶妙に調和している。キビナイは外がサクサク、中の肉餡は香辛料が効いていて、噛むたびに肉汁が溢れ出た。
店の女将さんは料理の説明を熱心にしてくれ、「この料理は私の祖母のレシピです」と教えてくれた。食事を通じて、この土地の人々の生活に少しでも触れることができたような気がした。
宿に戻ると、マリヤさんが暖炉に火を入れて待っていてくれた。オレンジ色の炎が踊る前で、温かいカモミールティーを飲みながら今日の出来事を振り返った。森の静寂、工芸品工房での体験、湖畔での老人との会話。すべてが心の奥深くに刻まれていくのを感じた。
3日目: 別れの湖面に映る想い
最終日の朝は、いつもより早く目が覚めた。おそらく心のどこかで、この美しい時間が終わることを惜しんでいたのだろう。窓の外では朝もやが湖面を覆い、城の影がぼんやりと水面に映っている。
朝食後、荷物をまとめてマリヤさんにお別れの挨拶をした。「また戻ってきてくださいね」という彼女の言葉に、「必ず戻ります」と答えた。それは社交辞令ではなく、心からの約束だった。
バスの出発まで時間があったので、最後にもう一度湖畔を歩くことにした。朝の澄んだ空気の中、湖面はまるで鏡のように静かで、時折水鳥が起こす小さな波紋だけが、その平静を破っている。
城の前の小さな公園では、地元の人々が朝の散歩を楽しんでいた。犬を連れた老夫婦、ジョギングをする若い女性、ベンチで新聞を読む中年男性。彼らの日常の中に、この2日間だけ私も溶け込んでいたのだ。
昨日訪れた工芸品工房の前を通ると、お婆さんが店先で織物を干していた。私を見つけると手を振ってくれ、「お気をつけて」と声をかけてくれた。購入したハンカチを握りしめながら、彼女に感謝の気持ちを込めて手を振り返した。
バスターミナルに向かう途中、「メドゥス」カフェに立ち寄った。最後にもう一度、あの温かい雰囲気を味わいたかったのだ。店主のおじさんは私を覚えていてくれて、「もう帰るのですか?」と残念そうに言った。コーヒーと小さなパンを注文し、窓際の席から町の風景を眺めながら、この3日間の出来事を心の中で整理した。
森での静寂、工芸品工房での温かい交流、湖畔での地元の人との会話、そして美味しい家庭料理。どれも都市では味わうことのできない、貴重な体験だった。特に印象的だったのは、人々の優しさだった。言葉の壁があったにも関わらず、皆が心を開いて接してくれた。それは、この土地が持つ包容力の現れなのかもしれない。
午前11時、ヴィリニュス行きのバスに乗り込んだ。窓際の席に座り、次第に遠ざかっていくビルジャイの風景を見つめていた。湖に囲まれた小さな町、赤い屋根の城、石畳の道、そして温かい人々の笑顔。すべてが心の中に深く刻まれている。
バスが町を離れ、田園風景の中を走り始めると、不思議な感覚に包まれた。たった3日間の滞在だったが、まるで長い間この土地で暮らしていたような、深い愛着を感じていた。それは、ビルジャイが持つ特別な魅力だったのかもしれない。時間がゆっくりと流れ、人々が互いを大切にし、伝統が生きている場所。そんな場所で過ごした時間は、心の奥深くに特別な記憶として残り続けるのだろう。
窓の外の風景を眺めながら、いつかまたこの町を訪れる日のことを考えていた。その時には、もう少し長く滞在して、この土地の魅力をより深く味わいたい。マリヤさんとの約束を果たすために、そしてあのお婆さんの織り物をもう一度見るために、必ずまた戻ってこよう。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この旅は空想の中で体験したものだが、まるで実際にその土地を歩き、その空気を吸い、その人々と触れ合ったかのような鮮明な記憶として心に残っている。リトアニア・ビルジャイという小さな町の持つ穏やかな時間、人々の温かさ、伝統工芸品に込められた想い、そして美しい自然。これらすべてが、想像の中でありながら確かな実感を持って感じられた。
旅とは、必ずしも物理的に場所を移動することだけではないのかもしれない。心の中で丁寧に風景を描き、その土地の文化や人々に思いを馳せることで、私たちは真の意味での「旅」を体験することができるのだろう。この空想の旅を通じて、リトアニアという国への興味と愛着が深まり、いつか本当にその地を訪れたいという強い願いが生まれた。
それは、想像の力が持つ素晴らしい可能性を証明している。たとえ空想であっても、心を込めて描かれた体験は、確かに私たちの人生を豊かにしてくれるのだから。