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  1. たび幻記/

透きとおる碧に抱かれる楽園 ― オランダ・ボネール島空想旅行記

空想旅行 北米・中南米 カリブ海地域 ボネール オランダ
目次

カリブ海に浮かぶダイバーズパラダイス

ボネール島。その名を耳にしたことがある人は、おそらく少数派だろう。カリブ海南部、ベネズエラの沖合約80キロメートルに位置するこの小さな島は、オランダ領アンティル諸島の一部として、独特の文化と自然を守り続けている。

島の面積は約288平方キロメートル。東京23区の半分ほどの大きさに、わずか2万人ほどが暮らす。年間を通じて貿易風が吹き抜け、雨が少なく、気温は27度から30度の間を保つ。サボテンが点在する乾燥した大地と、透明度50メートルを超える海。この対照的な風景が、ボネール島の第一印象だ。

島の西海岸は穏やかなカリブ海に面し、世界中のダイバーたちが憧れる海中公園として保護されている。一方、東海岸は大西洋の荒波が打ち寄せる野性的な表情を見せる。そして南端には、フラミンゴが群れをなす塩田が広がる。オランダ、アフリカ、南米の文化が混ざり合い、パピアメント語という独自の言葉が日常に溶け込む。

私がボネール島を選んだのは、その「何もなさ」に惹かれたからだった。派手な観光地ではなく、ただ海と風と太陽がある場所。そこで2泊3日を過ごしたら、自分の中の何かが静かに整理されるような気がした。

1日目: 風に迎えられて

フラミンゴ国際空港に降り立つと、カリブ海の日差しが容赦なく肌を刺した。小さなターミナルを出ると、レンタカー会社の看板を持った陽気な男性が待っていた。ボネール島では公共交通機関がほとんどないため、島を回るには車が必須だ。手続きを済ませ、右ハンドルのピックアップトラックに乗り込む。

宿泊先は島の西海岸、クラレンダイクの中心部から少し南に下ったエリアにある小さなダイブリゾートだった。パステルイエローの壁に青い窓枠。敷地内にはヤシの木とブーゲンビリアが揺れ、すぐ目の前には桟橋が海へと伸びている。チェックインを済ませ、部屋に入ると、窓からはカリブ海が一望できた。波の音が、まるで呼吸のように規則正しく聞こえてくる。

午前中の移動で疲れていたが、海を前にして部屋でじっとしているのはもったいなく感じた。水着に着替え、リゾートの桟橋からそのまま海へと入る。足が届く浅瀬でも、すでに色とりどりの魚たちが泳いでいた。シュノーケルマスクを装着し、顔を水につけると、別世界が広がった。黄色い縞模様のサージャントメジャー、青く輝くブルータン、岩陰に潜むロブスター。まだ本格的なダイビングポイントにも行っていないのに、この豊かさ。ボネール島の海が「ダイバーズパラダイス」と呼ばれる理由が、初日の午後、数メートルの浅瀬で既に理解できた。

夕方、クラレンダイクの中心部へ車を走らせた。カラフルな建物が並ぶメインストリート、クラヤ・グローティ・クルースには、土産物店やダイブショップ、小さなレストランが軒を連ねている。オランダ植民地時代の面影を残す建築様式と、カリブ海特有の鮮やかな色彩が調和している。

夕食は、港に面した「ザ・ローズ・イン」というレストランで取ることにした。テラス席に座り、メニューを眺める。オランダ語、パピアメント語、英語が入り混じった表記。ウェイターに勧められるまま、地元の魚料理「ピスカド・クリオロ」を注文した。15分ほどして運ばれてきたのは、丸ごと一匹のスナッパーをトマトとピーマン、玉ねぎで煮込んだ料理。プランテン(調理用バナナ)のフライと、フンギと呼ばれるコーンミールの付け合わせが添えられている。

一口食べると、トマトの酸味と魚の旨みが口の中で溶け合った。スパイスは控えめで、素材の味が前に出る。ゆっくりと食事を楽しんでいると、隣のテーブルから陽気な笑い声が聞こえてくる。地元の家族だろうか。子どもたちがパピアメント語で何かを話し、大人たちが笑っている。その光景を眺めながら、私は自分がどこか遠い場所に来たことを実感した。

日が沈み、空が深い紫色に染まる頃、宿へと戻った。部屋のベランダに座り、波の音を聞きながらビールを飲む。満天の星が頭上に広がり、天の川がはっきりと見えた。ボネール島には街灯が少なく、光害がほとんどない。この静けさと暗闇が、都会では決して味わえない贅沢だと感じた。

2日目: 海の中の時間、陸の上の時間

朝、鳥の鳴き声で目が覚めた。窓を開けると、まだ空気がひんやりとしている。朝食はリゾートの屋外テラスで、シンプルなパンとフルーツ、そしてオランダ風のチーズとハムが並ぶビュッフェ。濃いコーヒーを飲みながら、今日の予定を考える。午前中はワシントン・スラグバーイ国立公園へ、午後は本格的にダイビングをする計画だ。

車を北へと走らせた。島の北部に広がるワシントン・スラグバーイ国立公園は、ボネール島の約20パーセントを占める自然保護区だ。入口のビジターセンターで入場料を払い、公園内の未舗装道路へと進む。

乾燥した大地には、背の高いサボテンが点在している。ディビディビの木が風に吹かれ、一方向に傾いている姿が印象的だ。この木の形は、貿易風の強さを物語っている。道の両脇には、イグアナがのそのそと歩いている。黄色やオレンジ色の鮮やかな個体もいて、まるでおもちゃのようだ。

公園内の展望台に登ると、島の全景が見渡せた。西側には穏やかなカリブ海、東側には荒々しい波が打ち寄せる大西洋。そして遠くには、ボネール島の象徴である二つの丘、ブランダリスとセロ・ラルゴが見える。風が強く、帽子が飛ばされそうになる。この島では、風が常に主役なのだと理解する。

公園内の洞窟にも立ち寄った。かつて先住民のインディアンが住んでいたとされる洞窟には、壁画が残されている。赤い顔料で描かれた幾何学模様や、人の形をした図像。何百年も前に、ここで人々が暮らし、海で魚を獲り、この風を感じていたのだと思うと、不思議な感覚に包まれた。

昼過ぎ、宿に戻り、午後のダイビングに備えた。ボネール島の海岸沿いには、60以上のダイビングポイントがあり、そのほとんどがビーチエントリーで潜れる。今日選んだのは「1000ステップス」という名のポイント。その名の通り、海岸まで階段を下りていくのだが、実際には67段しかない。ただし、帰りは重い機材を背負って登るため、1000段に感じられるというジョークがこの名の由来だ。

階段を下り、ビーチに到着する。サンゴ礁の壁が海岸からすぐ近くまで迫っている。機材を装着し、ゆっくりと海に入る。水面から顔をつけると、すぐに深い青が広がっていた。壁沿いに潜降していくと、5メートル、10メートル、20メートルと、サンゴの壁が続いている。

壁には、カラフルなスポンジやソフトコーラルが付着し、その間を無数の魚たちが泳ぎ回る。大きなバラクーダが悠然と横切り、エイが砂地をゆっくりと滑っていく。時折、ウミガメが優雅に泳ぎ去る姿も見えた。時間の感覚が失われていく。海の中では、ただ呼吸の音と、自分の心拍だけが聞こえる。何も考えず、ただそこにいることが許される空間。

50分ほど潜り、ゆっくりと浮上した。海面に顔を出すと、現実の世界が戻ってきた。階段を登りながら、確かにこの名前の意味が分かった気がした。

夕方、島の南端にあるペケルメール(塩田)へと向かった。ボネール島では17世紀から塩の生産が行われており、今も大規模な塩田が稼働している。真っ白な塩の山が夕日に照らされ、ピンク色に染まっている。そして塩田には、数百羽のフラミンゴが集まっていた。

ピンク色の体を持つフラミンゴたちが、浅い水の中で餌を探している。彼らが食べる藻類やプランクトンに含まれるカロテノイドが、あの美しいピンク色を作り出すのだという。夕日とフラミンゴとピンクの塩田。この風景は、まるで現実離れしていた。

夕食は、カマインダと呼ばれる伝統料理を出す小さな食堂で取った。カマインダは、ボネール島やキュラソー島で親しまれている家庭料理で、かつては奴隷制時代に生まれた料理だという。オレンジの皮で風味をつけた牛肉のシチューで、甘みと酸味が絶妙に調和している。米とインゲン豆を炊き込んだトゥトゥが添えられ、ボリュームもある。

食堂の女性が、片言の英語で「おいしい?」と尋ねてきた。私が笑顔でうなずくと、彼女も嬉しそうに笑った。言葉は通じなくても、食べ物を通じた交流がそこにはあった。

3日目: 別れの朝、記憶の重さ

最終日の朝は、どこか名残惜しい気持ちで目覚めた。たった2泊だったのに、この島での時間は不思議と長く感じられる。それは、一日一日を丁寧に過ごしたからかもしれない。

朝食後、最後にもう一度海に入ることにした。リゾートの目の前の海で、ゆっくりとシュノーケリングを楽しむ。もう見慣れた魚たちが、変わらず泳いでいる。彼らにとって、私の滞在など一瞬の出来事に過ぎない。それでも、この数日間、確かに同じ海を共有したのだという実感があった。

午前中、クラレンダイクの街を散策した。小さな博物館に立ち寄り、ボネール島の歴史を学ぶ。オランダによる植民地化、奴隷貿易、塩産業、そして現在の観光業への転換。小さな島が歩んできた複雑な歴史が、丁寧に展示されていた。

地元の市場にも足を運んだ。新鮮な魚、トロピカルフルーツ、手作りのホットソース。地元の人々が日常的に使う市場には、観光地とは違った島の顔があった。パパイヤを買い、その場でナイフで切り分けてもらう。ライムを絞って食べると、甘さの中にほのかな酸味が広がった。

昼食は、海岸沿いのカジュアルなバーで、フライドフィッシュサンドイッチを食べた。揚げたてのマヒマヒに、キャベツのスローとピクルス、そして特製のソースがたっぷりとかかっている。ビールを飲みながら、海を眺める。この景色も、今日で見納めだ。

午後、空港へと向かう前に、もう一度ペケルメールに立ち寄った。昨日の夕方とは違い、強い日差しの中で塩田が輝いている。フラミンゴの数は少なかったが、それでも数十羽が優雅に佇んでいた。

この景色を写真に収めようとしたが、カメラを構えた瞬間、ふと思った。この風景を写真に残すことに、どれほどの意味があるのだろう。風の温度、潮の香り、遠くで聞こえる波の音。フラミンゴの鳴き声、足元の砂の感触。写真には写らないものの方が、むしろ大切なのかもしれない。それでもシャッターを切ったのは、せめてこの色彩だけでも持ち帰りたかったからだ。

空港へ向かう道すがら、この島での時間を反芻していた。派手な観光地ではない。特別な出来事があったわけでもない。それでも、ここで過ごした時間は、確かに私の中に何かを残していった。

チェックインを済ませ、小さな待合室で搭乗を待つ。窓の外には、これから離れる島が広がっている。乾燥した大地、点在するサボテン、そして青い海。シンプルな風景だからこそ、心に刻まれるのかもしれない。

飛行機が離陸し、高度を上げていくと、ボネール島の全体が見えてきた。ブーメランのような形をした島。西の穏やかな海岸線と、東の荒々しい海岸線。南端の塩田と、北部の国立公園。この小さな島に、多様な表情が詰まっていた。

雲の上に出ると、ボネール島は視界から消えた。けれど、その記憶は鮮明に残っている。波の音、風の強さ、海の透明度、フラミンゴのピンク色、カマインダの味、市場の喧騒、そして何より、あの静けさ。

空想の中の確かさ

正直に告白すれば、私は実際にはボネール島を訪れていない。この旅行記は、資料と想像力によって紡がれた空想の旅だ。

それでも、この文章を書きながら、不思議な感覚があった。まるで本当にあの島を歩き、あの海に潜り、あの風を感じたかのような錯覚。言葉にすることで、体験していないはずの記憶が、確かなものとして心に刻まれていく。

旅とは何だろう。肉体を移動させることだけが旅なのだろうか。想像の中で異国の地を巡り、その文化や自然を思い描くことも、ある種の旅なのではないだろうか。

ボネール島は実在する。そこには確かに、透明度50メートルの海があり、フラミンゴが舞い、貿易風が吹き抜けている。いつか本当にあの島を訪れる日が来るかもしれない。その時、この空想の記憶と、実際の体験が、どのように重なり、あるいはずれるのか。それもまた、興味深いことだと思う。

空想でありながら、確かにあったように感じられる旅。それは、人間の想像力がもたらす、もうひとつの旅の形なのかもしれない。

そしてもし、この文章を読んで、ボネール島に興味を持った人がいるなら、ぜひ実際に訪れてほしい。あなたの目で、あの海の青を。あなたの肌で、あの風の強さを。あなたの舌で、あの料理の味を。

空想の旅が、いつか誰かの現実の旅につながることを願いながら、この旅行記を終える。

hoinu
著者
hoinu
旅行、技術、日常の観察を中心に、学びや記録として文章を残しています。日々の気づきや関心ごとを、自分の視点で丁寧に言葉を選びながら綴っています。

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