はじめに: 古城と緑の谷間に抱かれた町
ケアフィリは、ウェールズ南部の静かな町である。カーディフから北へ約15キロ、なだらかな丘陵地帯に囲まれたこの土地は、13世紀に築かれた威風堂々たる城と、その周りに広がる美しい湖で知られている。ケアフィリ城は中世の軍事建築の傑作として名高く、同心円状の防御システムと人工の湖によって守られた姿は、今なお訪れる人々を圧倒する。
この地域は古くからウェールズ語が話される土地であり、街角ではウェールズ語と英語の二言語表記が当たり前のように並んでいる。石炭産業で栄えた歴史を持ちながら、現在は緑豊かな自然と歴史遺産を活かした観光地として、静かで穏やかな時間が流れている。
朝霧に包まれた城の姿、夕暮れ時に湖面に映り込む古い石造りの建物、そして温かなウェールズの人々との出会い。この2泊3日の旅は、現代の喧騒から離れ、ゆったりとした時の流れに身を委ねる貴重な体験となった。
1日目: 石の城と湖に迎えられて
カーディフ・セントラル駅から電車に揺られること約30分、ケアフィリ駅に到着したのは午前10時過ぎだった。小さな駅舎から外に出ると、すぐに目に飛び込んできたのは遠くに見える城の堂々たる姿である。駅前の道路は決して広くはないが、どこか落ち着いた雰囲気が漂っていて、慌ただしい都市部とは明らかに空気が違う。
宿泊先のB&Bは駅から徒歩10分ほどの住宅街にあった。Victorian時代の建物を改装した小さな宿で、オーナーのグウェンさんが温かく迎えてくれた。「ケアフィリは初めて？」と聞かれ、そうだと答えると、「それなら城から始めるのが一番よ」と笑顔でアドバイスをくれる。部屋は2階にあり、窓からは遠くに城の一部が見えた。荷物を置いて、さっそく町の中心部へ向かう。
午前中の散策では、まずケアフィリ城を目指した。町の中心部を歩いていると、石造りの建物が多く、どれも丁寧に手入れされているのがわかる。住民たちが庭先で花を育てている様子や、カフェの前でゆっくりと新聞を読む老紳士の姿が印象的だった。
城に近づくにつれ、その巨大さに圧倒される。水に囲まれた城の全貌が見えてくると、まるで中世の絵本から抜け出してきたような光景に心が踊る。入場券を購入し、まずは外周を歩いてみる。人工の湖に映る城の姿は、何度見ても飽きることがない。水面に映る石の塔と、その周りを泳ぐ水鳥たちが、静かな午前のひとときを演出していた。
昼食は城の近くにある小さなカフェ「The Moat Café」で取った。ウェールズの郷土料理として有名なケアフィリチーズを使ったサンドイッチを注文する。この地域特産の白いチーズは、クリーミーでありながらどこか酸味があり、素朴なパンとの相性が抜群だった。カフェの女性スタッフが「地元の農家から直接仕入れているのよ」と誇らしげに話してくれる。
午後は城の内部見学に時間をかけた。大広間、居住区域、そして防御のための複雑な通路を歩きながら、700年以上前の人々の生活に思いを馳せる。特に印象深かったのは、城壁の上から見下ろす景色だった。緑の丘陵地帯が広がり、その中に点在する小さな農場や村落が、まるで箱庭のように美しく配置されている。
夕方になると、城の周りの湖畔を散歩した。夕日が水面を金色に染め、城のシルエットがより一層荘厳に見える。釣りをしている地元の男性と軽く挨拶を交わすと、「今日は良い天気で釣り日和だ」と話しかけてくれた。ウェールズ訛りの英語が心地よく、のんびりとした時間の流れを感じる。
夜は町の中心部にあるパブ「The Castle Inn」で夕食を取った。地元の人々で賑わう温かな雰囲気の中、ウェールズのラム肉料理「Cawl」を注文する。羊肉と野菜をじっくり煮込んだスープのような料理で、体の芯から温まる優しい味だった。隣の席にいた地元の夫婦が、ケアフィリの歴史について色々と教えてくれる。石炭産業で栄えた時代の話、そして現在の静かな観光地としての魅力について、愛情を込めて語る姿が印象的だった。
宿に戻る道すがら、街灯に照らされた静かな住宅街を歩きながら、今日一日の出来事を振り返る。城の威容、美しい湖、そして温かな人々との出会い。この土地の持つ特別な魅力を、少しずつ理解し始めているような気がした。
2日目: 緑の丘陵と手仕事の世界
朝は早めに起きて、B&Bの庭で迎えた。グウェンさんが用意してくれた朝食は、地元産の卵とベーコン、そして手作りのマーマレードが美味しかった。「今日はどちらへ？」と尋ねられ、自然散策を考えていると伝えると、「Caerphilly Mountainがおすすめよ。景色が素晴らしいの」と教えてくれる。
午前中は、町の南側にあるケアフィリ・マウンテンへのハイキングに出かけた。といっても標高271メートルの丘陵で、気軽に登ることができる。登山道は整備されており、途中で出会った地元の散歩者たちが気さくに挨拶してくれる。犬を連れた初老の男性は「頂上からの眺めは格別だよ」と励ましてくれた。
登り始めて40分ほどで頂上に到着した。眼下に広がる景色は確かに格別だった。ケアフィリの町全体が見渡せ、中央にそびえる城がまるで町の守り神のように威厳を保っている。遠くにはカーディフの方向まで見渡すことができ、ウェールズ南部の豊かな緑の大地が一望できる。風が心地よく、しばらくベンチに座って景色を眺めていた。
下山後は、町の北部にある小さな工芸品店「Valleys Crafts」を訪れた。ここではケアフィリチーズ作りの工程を見学できるほか、地元の職人が作る陶器や木工品も販売している。店主のデイヴィッドさんが、チーズの伝統的な製法について詳しく説明してくれる。「この地域の気候と水質が、独特の味わいを生み出すんです」と語る表情からは、地元の産業への深い愛情が感じられた。
昼食は同じ店に併設されたカフェで、出来立てのケアフィリチーズを使ったウェルシュ・ラビット (チーズトースト) を味わった。濃厚なチーズがパンに染み込み、地元産のエールビールとの相性も抜群だった。地元の人々が普段から親しんでいる素朴な料理だが、その土地ならではの美味しさがあった。
午後は町の歴史博物館「Caerphilly Museum」を訪れた。小規模ながら内容の濃い展示で、この地域の石炭産業の歴史から、城の建設過程、そして現代に至るまでの町の変遷が丁寧に展示されている。特に興味深かったのは、19世紀から20世紀初頭にかけての炭鉱労働者たちの生活を再現したコーナーだった。厳しい労働環境の中でも、人々が家族や共同体を大切にしながら生活していた様子が伝わってくる。
博物館の学芸員の女性が、「この町は産業の変化を経験しながらも、そのたびに新しい魅力を見つけてきた」と語っていたのが印象的だった。現在の静かで美しい観光地としての姿も、そうした歴史の積み重ねの上に成り立っているのだと感じる。
夕方は再び城の周辺を散策した。昨日とは違う角度から城を眺めると、また新たな発見がある。湖の向こう側から見る城の姿は、より神秘的で威厳に満ちて見えた。湖畔のベンチに座って読書をしている地元の女性がいて、なんとなく声をかけてみると、彼女もまた観光客だった。マンチェスターから来たという彼女は、「ここの静けさに魅かれて毎年訪れている」と話してくれる。確かに、この場所には人の心を落ち着かせる何かがある。
夜は前日とは違うパブ「The Courthouse」で夕食を取った。19世紀の裁判所を改装したパブで、重厚な木製の内装が歴史を感じさせる。ここでは地元産の牛肉を使ったパイを注文した。パイ生地はサクサクと軽やかで、中の牛肉は柔らかく煮込まれており、マッシュポテトとの組み合わせが絶妙だった。
パブのバーテンダーは地元出身の若い男性で、ケアフィリの四季の魅力について熱心に語ってくれた。「春は城の周りに花が咲き、夏は湖での釣りが楽しく、秋は紅葉が美しく、冬は霧に包まれた城が幻想的なんです」と話す彼の表情からは、故郷への純粋な愛情が伝わってきた。
宿への帰り道、満天の星空が広がっていた。都市部では見ることのできない美しい星空を見上げながら、今日一日の体験を心に刻む。山からの眺望、職人の手仕事、そして地元の人々の温かさ。この土地の持つ多面的な魅力を、より深く理解できた一日だった。
3日目: 別れの朝と心に残る記憶
最後の朝は、いつもより少し早く目が覚めた。窓の外を見ると、薄い霧が町全体を包んでいて、城の姿がぼんやりと幻想的に見える。この神秘的な光景を見逃すまいと、急いで身支度を整えて外に出た。
朝の散歩では、霧に包まれた城の周りを静かに歩いた。昨日までとはまったく違う表情を見せる城と湖の風景に、改めてこの土地の美しさを実感する。霧の中から少しずつ現れる城の輪郭は、まるで時間を超えて現代に現れた中世の幻影のようだった。早朝のため人影もまばらで、水鳥の鳴き声と自分の足音だけが静寂を破っている。
朝食はB&Bで最後の食事を楽しんだ。グウェンさんが「どうだった？」と旅の感想を尋ねてくれる。正直な気持ちを話すと、「ケアフィリは人の心を穏やかにする力があるのよ」と微笑んでくれた。「また来てくださいね」という言葉に、この町の人々の温かさを改めて感じる。
午前中は、町の中心部で最後の散策をした。まだ訪れていなかった小さな教会St. Martin’s Churchを見学する。12世紀に建てられた古い教会で、内部は質素だが荘厳な雰囲気に満ちていた。ステンドグラスから差し込む柔らかな光が、静謐な空間をさらに神聖なものにしている。教会の墓地を歩いていると、何世紀にもわたってこの土地に根ざして生きた人々の存在を感じることができた。
その後、町の小さな書店で旅の記念品を探した。地元の歴史について書かれた本や、ウェールズの詩集などが並んでいる。店主の老婦人が「何かお探しですか？」と声をかけてくれたので、この旅の思い出になるものを探していると伝える。すると彼女は、地元の写真家が撮影したケアフィリ城の写真集を勧めてくれた。四季を通じた城の美しい姿が収められており、まさに求めていたものだった。
昼食は初日に訪れたThe Moat Caféで、もう一度ケアフィリチーズのサンドイッチを味わった。最初に食べた時とは違い、今度はその味の奥深さをより理解できるような気がする。3日間でこの土地の文化や歴史を少しずつ理解してきたからかもしれない。カフェの女性スタッフも覚えていてくれて、「楽しい滞在だった？」と声をかけてくれる。
午後は出発まで、もう一度城の周りをゆっくりと歩いた。3日間毎日訪れた場所だが、見るたびに新しい発見がある。石の色合い、水面の反射、周囲の緑の濃さ。すべてが少しずつ違って見える。ベンチに座って、この3日間のことを振り返る。城の威容に圧倒された初日、自然と文化に触れた2日目、そしてこの静かな最終日。短い期間だったが、とても濃密な時間だった。
駅に向かう道すがら、商店の人々や道で出会った人々が「また来てくださいね」と声をかけてくれる。小さな町だからこそ、訪問者のことを覚えていてくれるのだろう。そんな温かさが、この町の魅力の一つでもある。
ケアフィリ駅のホームで電車を待ちながら、改めてこの町を振り返る。大きな観光地ではないけれど、古い城と美しい自然、そして何より温かな人々との出会いがあった。急がない時間の流れの中で、日常の喧騒を忘れて心を休めることができた。電車がホームに滑り込んできて、車窓から見える城の姿が徐々に小さくなっていく。でも心の中には、この3日間の記憶がしっかりと刻まれている。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この旅は架空のものである。実際にケアフィリを訪れたわけではなく、グウェンさんのB&Bも、出会った人々も、味わった料理の記憶も、すべて想像上の体験に過ぎない。
しかし、不思議なことに、これらの記憶は確かに心の中に存在している感覚がある。霧に包まれた朝の城の幻想的な姿、ケアフィリチーズの素朴な味わい、山頂から見下ろした緑の大地の美しさ、そして何より地元の人々の温かな笑顔。これらはすべて、想像力によって生み出された架空の記憶でありながら、まるで実際に体験したかのような鮮明さを持っている。
旅とは、新しい場所に身を置き、その土地の文化や自然、人々との出会いを通じて、自分自身を見つめ直す行為でもある。この空想の旅を通じて、静かで穏やかな時間の価値、歴史ある場所の持つ力、そして人と人とのふれあいの大切さを改めて感じることができた。
現実の制約を超えて、心の中で自由に旅をすることの豊かさを実感する。実際にその土地を訪れることができなくても、想像力を通じて体験できる旅の喜びがある。そしてそれは、いつか本当にその場所を訪れた時の楽しみを、より一層深いものにしてくれるだろう。
ケアフィリという美しい町で過ごした、架空でありながら確かな3日間の記憶が、心の中にいつまでも残り続けるような気がしている。
