はじめに
ベトナム北東部、中国との国境に接するカオバン省。この地は、雄大な石灰岩カルストの山々が連なり、エメラルドグリーンの川が蛇行する、まさに桃源郷と呼ぶにふさわしい自然の宝庫である。
カオバンの名前は「カオバンの滝」を意味するベトナム語「Thác Bản Giốc」から来ており、中国との国境を流れる壮大な滝で知られている。この地域は、タイ族、ヌン族、モン族など多様な少数民族が暮らす文化のモザイクでもある。フランス植民地時代の影響と中国文化の香りが混じり合い、独特の文化的風景を形成している。
石灰岩の峡谷に響く水音、棚田の緑陰に揺れる竹林、そして山間の村々に漂う炊煙。カオバンは、時の流れが緩やかに感じられる場所である。ここでは自然の雄大さと人々の素朴な暮らしが調和し、訪れる者の心を静かに揺さぶる。
1日目: 国境の町への道のり
ハノイからバスで約6時間。朝の涼しい空気の中、首都の喧騒を後にしてカオバンへ向かった。バスの窓から見える景色は、次第に山がちになり、棚田が階段状に山の斜面を覆っていく。道中、小さな村を通り過ぎるたびに、水牛が田んぼでのんびりと草を食む姿や、三角帽子を被った農夫が田植えをする光景が目に飛び込んでくる。
午後2時頃、ようやくカオバンの町に到着した。山間の盆地に開けたこの町は、思ったよりも静かで、フランス植民地時代の古い建物と現代的な建物が混在している。宿泊先のホテルは、町の中心部にある家族経営の小さな宿。受付のおばさんが片言の英語と身振り手振りで温かく迎えてくれた。
部屋に荷物を置いて、まずは町の探索に出かけた。メインストリートを歩くと、バイクが行き交い、路上にはフォーの屋台や果物売りが軒を連ねている。特に印象的だったのは、ドラゴンフルーツやランブータンなど、色とりどりの南国の果物が山積みにされた露店だった。店主のおじさんが試食をすすめてくれ、甘酸っぱいドラゴンフルーツの味が口の中に広がった。
夕方、町の小さな市場を訪れた。ここでは地元の人々が日用品を買い物している。魚や野菜、香辛料などが所狭しと並び、独特の香りが立ち込めている。タイ族の民族衣装を着た女性が、手作りの織物を売っている姿も見かけた。鮮やかな青と赤の幾何学模様が美しく、思わず見とれてしまう。
夜は、地元の人におすすめされた小さなレストランで夕食をとった。「ブン・チャー・カオバン」という、この地域特有の麺料理を注文。米粉の麺に、川魚でとったスープ、そして新鮮な野菜がたっぷりと入っている。スープは淡白でありながら深い味わいがあり、疲れた体に優しく染み渡った。隣のテーブルでは、地元の家族が楽しそうに夕食を囲んでいる。その光景を見ていると、なんだか心が温かくなった。
宿に戻り、シャワーを浴びて一日を振り返る。カオバンの第一印象は、穏やかで素朴な町。人々の優しさと、山間の静寂が印象的だった。明日はいよいよ、この地域の最大の見どころであるバンゾック滝を訪れる予定だ。
2日目: バンゾック滝と自然の息吹
朝6時、鳥のさえずりで目が覚めた。窓を開けると、山々が朝霧に包まれている美しい光景が広がっていた。ホテルで簡単な朝食をとり、バンゾック滝へ向かうツアーバスに乗り込んだ。
カオバンの町から滝までは約1時間半のドライブ。道路は次第に山奥へと向かい、風景もより野性的になっていく。石灰岩の奇岩が立ち並び、その間を縫うように道が続いている。バスの中では、ガイドさんがこの地域の歴史や文化について説明してくれた。この一帯は、ベトナム戦争中には重要な拠点だったこと、多くの少数民族が暮らしていることなど、興味深い話を聞くことができた。
10時頃、ついにバンゾック滝に到着した。まず遠くから滝の全景を眺めることができる展望台へ。そこから見える景色は、まさに絶景だった。幅約300メートル、高さ約30メートルの巨大な滝が、三段に分かれて流れ落ちている。水は澄んだエメラルドグリーンで、滝壺では細かい水しぶきが舞い踊っている。中国との国境を示す境界線が滝の中央を通っており、この滝が両国にまたがる国際的な滝であることを実感した。
滝の近くまで降りていくと、水音が次第に大きくなり、最後は轟音となって響いている。マイナスイオンが豊富な空気を深く吸い込むと、体の奥まで清められるような感覚になった。滝の前には小さな竹のいかだがあり、地元の人が観光客を乗せてくれる。いかだに乗って滝に近づくと、水しぶきが顔にかかり、その冷たさが心地良い。
昼食は滝の近くのレストランで、地元の料理を楽しんだ。「チャー・カー・ラー・ボン」という、川魚を香草で焼いた料理が特に美味しかった。魚の身は柔らかく、レモングラスやコリアンダーなどの香草の香りが食欲をそそる。食事をしながら滝の音を聞いていると、自然の中にいることの喜びを深く感じた。
午後は、滝の周辺を散策した。石灰岩の洞窟がいくつもあり、その中の一つ「ノーン・ヌオック洞窟」を訪れた。洞窟の中は涼しく、鍾乳石や石筍が幻想的な光景を作り出している。ガイドさんの懐中電灯の明かりに照らされた岩壁は、まるで彫刻のように美しい。洞窟の奥からは地下水のせせらぎが聞こえ、自然の神秘を感じずにはいられなかった。
夕方、カオバンの町に戻る途中、タイ族の村を訪れた。高床式の木造家屋が点在し、庭先では鶏が自由に歩き回っている。村人の一人が、伝統的な織物の制作過程を見せてくれた。色とりどりの糸を使って、複雑な模様を織り上げていく技術は見事で、一つの作品を完成させるのに何週間もかかるという。その根気強さと技術の高さに感動した。
町に戻り、夜は別のレストランで夕食。今度は「ネム・ヌオン」という、豚肉を香草で包んで焼いた料理を試した。外はパリッと、中はジューシーで、ヌックマム (魚醤) ベースのタレとの相性が抜群だった。地元の人たちとカタコトの英語とベトナム語で会話を交わし、温かいもてなしを受けた。
宿に戻り、一日を振り返る。バンゾック滝の壮大さ、洞窟の神秘、そして村人との出会い。カオバンの自然と文化の豊かさを肌で感じることができた一日だった。
3日目: 別れの朝と心に残る風景
最終日の朝は、早起きして町の朝市を訪れた。朝6時頃の市場は活気に満ちており、農家の人たちが新鮮な野菜や果物を持ち寄っている。トマト、きゅうり、空心菜など、日本でも馴染みのある野菜から、見たことのない熱帯の野菜まで、色とりどりの産物が並んでいる。
モン族のおばあさんが作った手作りの刺繍を見つけた。鮮やかな色彩で鳥や花が描かれたその作品は、まるで絵画のように美しい。言葉は通じないが、笑顔で値段を教えてくれ、丁寧に包装してくれた。この刺繍は、きっと帰国後も私にカオバンでの思い出を思い起こさせてくれるだろう。
朝食は、市場の近くの小さな食堂で「フォー・ボー」をいただいた。朝の爽やかな空気の中で食べる温かいフォーは格別で、牛骨でとったスープの深い味わいが体の芯まで温めてくれる。香草をたっぷりと加えて食べると、その香りが鼻腔をくすぐり、ベトナムの朝の味として記憶に刻まれる。
午前中は、町の中心部にある小さな博物館を訪れた。この地域の歴史や文化、そして多様な民族の生活様式について学ぶことができた。特に興味深かったのは、この地域が古くから中国との交易の要衝であったことや、フランス植民地時代の影響、そしてベトナム戦争中の出来事についての展示だった。
昼食前、宿の近くを散歩していると、小さな寺院を見つけた。仏教寺院だが、中国系の建築様式と地元の伝統が混じり合った独特の造りになっている。境内は静かで、お線香の香りが漂っている。地元の人が熱心にお参りしている姿を見て、この土地の人々の信仰心の深さを感じた。
昼食は、これまでで最も印象的な料理に出会った。「チャー・ラー・ロット」という、牛肉をラーロットという葉で包んで焼いた料理だ。ラーロットの葉は少し苦味があり、牛肉の旨味と絶妙にマッチしている。一緒に出されたライスペーパーに包んで食べると、様々な食感と味が口の中で踊る。この料理こそ、カオバンの豊かな自然と食文化を象徴していると感じた。
午後は、ハノイ行きのバスの時間まで、町をゆっくりと歩いた。小さな雑貨店で、地元で作られたお茶を購入した。店主によると、この辺りの山で採れる野生茶の葉で作ったもので、ほのかな甘みと深い香りが特徴だという。一口飲むと、確かに上品な甘みが口に広がり、山の清らかな空気を思い起こさせる。
バスの出発時間が近づき、宿で荷物をピックアップ。フロントのおばさんが、「また来てくださいね」と片言の英語で声をかけてくれた。短い滞在だったが、まるで家族のように温かく迎えてくれたことに感謝の気持ちでいっぱいになった。
バスに乗り込み、カオバンの町を後にする。車窓から見える山々の風景、棚田の緑、そして煙を上げる農家の屋根。これらの光景一つ一つが、心の奥深くに刻み込まれていく。
ハノイへの道中、バンゾック滝の轟音、洞窟の静寂、村人の温かい笑顔、そして様々な料理の味が頭の中を駆け巡った。わずか2泊3日の短い旅だったが、カオバンという土地は私の心に深い印象を残していった。自然の雄大さと人間の営みが調和したこの場所で、私は何か大切なものを見つけたような気がした。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この旅は、実際には私の足でカオバンの土を踏み、その空気を吸い、人々と触れ合ったものではない。しかし、文字を通じてその風景を思い描き、その場にいるかのような体験をすることで、何か確かなものを得たような感覚がある。
バンゾック滝の水しぶきの冷たさ、市場での人々の温かい笑顔、地元料理の複雑で豊かな味わい、山間の静寂と鳥のさえずり。これらすべては空想の産物でありながら、心の中では確実に体験されたものとして存在している。
旅とは、必ずしも物理的な移動だけを意味するものではないのかもしれない。想像力を働かせ、その土地の文化や自然、人々の生活に思いを馳せることで、私たちは心の中で確かな旅を経験することができる。カオバンという土地への憧憬と敬意を込めて、この空想の旅路を歩むことができたことに、深い満足感を覚えている。
いつか本当にこの地を訪れる日が来るだろうか。その時、この空想の記憶と現実の体験がどのように重なり合うのか、想像するだけで胸が躍る。それまでは、この心の中の旅の記憶を大切に保ち続けていこう。