はじめに
大西洋の潮風が運んでくる塩の香りと、アラビア語とフランス語が混じり合う街の喧騒。カサブランカは、モロッコ最大の都市でありながら、古いメディナと近代的なビル群が共存する不思議な魅力を持つ街だ。
「白い家」を意味するこの都市は、かつてベルベル人の小さな漁村アンファから始まり、ポルトガル人によってカーサ・ブランカと名付けられた。その後フランス保護領時代を経て、現在のモロッコの経済の中心地へと発展した。街を歩けば、イスラム建築の美しいモスクの隣に、アール・デコ様式の建物が立ち並び、歴史の層が重なり合っているのを感じることができる。
ハッサン2世モスクの壮大なミナレットが海に向かって伸びる姿は、この街の象徴だ。また、旧市街のメディナでは、タジン鍋の湯気とミントティーの香りが漂い、職人たちの手仕事を間近で見ることができる。カサブランカは、モロッコの伝統と現代が織りなす、特別な旅の舞台なのである。
1日目: 白い街への第一歩
午前中にムハンマド5世国際空港に降り立った瞬間から、乾いた空気と遠くから聞こえるアザーンの響きが、私をアフリカ大陸にいることを実感させた。空港から街の中心部へ向かうタクシーの窓から見える風景は、椰子の木と白い建物、そして遠くに見える大西洋の青い水平線だった。
運転手のムハンマドさんは片言の日本語で「ヨウコソ、カサブランカ」と言って笑顔を見せてくれた。街に近づくにつれて、建物の密度が増し、色とりどりの看板やバイクの音が賑やかになってくる。フランス保護領時代の面影を残すアール・デコ建築と、伝統的なモロッコ様式の建物が混在する街並みは、まさにカサブランカらしい光景だった。
ホテルにチェックインを済ませた後、まずは腹ごしらえをしようと近くのレストランへ向かった。「Restaurant Al Mounia」という地元の人で賑わう店で、初めてのモロッコ料理に挑戦する。メニューはアラビア語とフランス語で書かれていたが、ウェイターのオマールさんが親切に英語で説明してくれた。
注文したのは、モロッコの代表的な料理であるタジン。羊肉とプルーン、アーモンドが入ったものを選んだ。円錐形の蓋が特徴的なタジン鍋で運ばれてきた料理は、蓋を開けた瞬間に立ち上るスパイスの香りが食欲をそそる。シナモンやジンジャー、サフランが絶妙に調和した味わいは、甘みと塩味、スパイスの辛みが複雑に絡み合って、これまで経験したことのない美味しさだった。一緒に出されたクスクスは、粒が細かくふわふわとした食感で、タジンのソースとよく合う。
午後は、街の中心部を散策することにした。まず向かったのは、ムハンマド5世広場。フランス統治時代に作られたこの広場は、周囲を白い建物に囲まれ、中央には美しい噴水がある。鳩たちが広場を行き交い、ベンチに座る老人たちがくつろいでいる。広場の一角には、花売りの女性が色とりどりのバラを売っており、その鮮やかな色彩が白い建物とのコントラストを美しく演出していた。
そこから歩いて旧市街のメディナへ向かった。狭い路地に入ると、途端に別世界が広がる。石畳の道の両側には、スパイス、絨毯、陶器、革製品などを売る小さな店がぎっしりと並んでいる。サフラン、クミン、パプリカなどのスパイスが山盛りに積まれた店では、店主のアハメドさんが「ミテクダサイ、イイニオイデショウ」と日本語で声をかけてくれた。手に取らせてもらったサフランは、確かに深くて芳醇な香りがした。
革製品の店では、職人が手作業でバブーシュ (モロッコの伝統的な履物) を作っているところを見ることができた。色とりどりの革を巧みに縫い合わせる技術は、まさに芸術的だった。店主の息子だという若い男性が英語で説明してくれたところによると、一足を作るのに3日はかかるという。その丁寧な手仕事に感動し、記念に一足購入することにした。
夕方になると、大西洋に面したコルニッシュ通りを歩いた。海沿いの遊歩道からは、水平線に沈む夕日を眺めることができる。オレンジ色に染まった空と海の境界線が曖昧になり、まるで絵画のような美しさだった。散歩する家族連れや、釣りを楽しむ人々の姿があり、地元の人たちの日常的な風景を垣間見ることができた。
夜は、ホテル近くの「Café de France」というカフェでミントティーを飲みながら、一日を振り返った。小さなグラスに注がれた緑色のお茶は、ミントの爽やかさと砂糖の甘さが絶妙に調和している。カフェの外では、夜になっても街の喧騒は続いており、車のクラクションや人々の話し声が混じり合って、カサブランカの夜の音を奏でていた。
異国の地での最初の夜。言葉は通じなくても、人々の温かさと料理の美味しさに包まれて、明日への期待に胸を膨らませながら眠りについた。
2日目: 聖なる海と職人の技
朝、ホテルの窓から見える大西洋の水平線が、薄いピンク色に染まっているのを見て目を覚ました。今日はカサブランカで最も有名な観光地であるハッサン2世モスクを訪れる予定だ。
朝食は、ホテル近くのベーカリーで地元の人に交じって、焼きたてのホブス (モロッコの伝統的なパン) とカフェオレを楽しんだ。パンは外側がカリッと香ばしく、中はふんわりとしていて、シンプルながら滑らかなバターとよく合う。店の奥からは絶えずパンを焼く香りが漂ってきて、朝の静けさの中に温かな幸せを感じた。
午前中にハッサン2世モスクに到着すると、その壮大さに言葉を失った。200メートルの高さを誇るミナレットは、大西洋に向かって堂々と立ち、まるで天に向かって祈りを捧げているかのようだった。1993年に完成したこのモスクは、世界で3番目に大きなモスクであり、同時に海の上に建てられた世界で唯一のモスクでもある。
ガイドのファティマさんと一緒に内部を見学した。25,000人が一度に礼拝できるという礼拝堂は、息をのむほど美しかった。天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアは50トンもの重さがあり、床には大理石とオニキスを使った幾何学模様のモザイクが敷き詰められている。壁面にはアラビア書道とモロッコ伝統の装飾が施され、その細部まで計算された美しさは、まさに芸術作品そのものだった。
特に印象的だったのは、礼拝堂の床の一部がガラス張りになっていて、その下に海が見えることだった。祈りながら海を感じることができるという、他では体験できない神秘的な空間だった。ファティマさんは「海は神様からの贈り物。だからモスクも海の近くに建てたのです」と説明してくれた。
午後は、伝統工芸の体験をするために、メディナの奥にある陶器工房を訪れた。職人のユセフさんは60歳を超えているが、ろくろを回す手つきは若者のように力強い。粘土がみるみるうちに美しい器の形に変わっていく様子は、まさに魔法のようだった。
「陶器作りは忍耐です。急いではいけません」とユセフさんは言いながら、私にも体験させてくれた。最初はなかなかうまくいかなかったが、彼の指導のもと、なんとか小さなボウルのようなものを作ることができた。「上手ですね。才能があります」と褒めてくれたが、隣で見ていた職人たちの笑顔から、お世辞だということは明らかだった。それでも、土と向き合う時間は心が落ち着き、日常の慌ただしさを忘れることができた。
工房の隣にある小さなカフェで遅い昼食をとった。頼んだのはハリラスープとシャバキア (モロッコの伝統的な揚げ菓子) 。ハリラは、トマトベースのスープにひよこ豆やレンズ豆、細かく切った肉が入っていて、体の芯から温まる。レモンを絞って飲むと、酸味が加わってさらに美味しくなる。シャバキアは薄い生地を薔薇の形に揚げて、蜂蜜をかけた甘いお菓子で、ハリラのあとに食べると絶妙な口直しになった。
カフェの主人であるアブドゥルさんは、70歳を超えた老人だが、日本について驚くほど詳しく知っていた。「昔、日本人の友達がいました。とても親切で、礼儀正しい人でした」と話してくれた。彼の言葉から、長年にわたって様々な国の旅行者と交流してきた経験の豊かさが伝わってきた。
夕方は、ハバウス地区を散策した。フランス統治時代に建設されたこの新市街は、整然とした街並みと緑豊かな並木道が美しい。アール・デコ様式の建物が立ち並ぶ通りを歩いていると、まるでパリの一角にいるような錯覚を覚える。しかし、建物の装飾にはモロッコらしい幾何学模様が取り入れられており、東西の文化が融合した独特の美しさを生み出していた。
中央市場では、夕食の買い物をする地元の人々で賑わっていた。魚売り場では、その日の朝に水揚げされたばかりの新鮮な魚が並んでいる。イワシ、鯛、タコなど、日本でも馴染みのある魚から、見たことのない種類まで様々だった。野菜売り場では、色鮮やかなトマト、きゅうり、なす、オリーブなどが山積みになっている。オリーブの種類の多さには驚かされた。緑、黒、茶色など様々な色のものがあり、それぞれに異なる味わいがあるという。
夜は、海沿いのレストラン「La Sqala」で夕食をとった。18世紀の要塞を改装したこのレストランは、古い石壁に囲まれた中庭で食事ができる。注文したのは、パスティラという鶏肉と卵を使ったパイ料理と、シーフードのタジン。パスティラは薄いパイ生地の中に、スパイスで味付けした鶏肉と卵が入っていて、上には粉砂糖とシナモンがかかっている。甘いのか塩辛いのか最初は戸惑ったが、食べ進めるうちにその絶妙なバランスに魅了された。
シーフードタジンには、エビ、イカ、魚などがたっぷり入っていて、トマトベースのソースが海の幸の旨味を引き立てていた。一緒に出されたモロッコワインは、フルーティーで後味がすっきりしており、料理との相性も抜群だった。
食事の後、中庭でミントティーを飲みながら夜風に当たっていると、どこからともなくウードの音色が聞こえてきた。レストランの一角で、地元のミュージシャンが伝統音楽を演奏していたのだ。アラビア音楽特有の旋律は、心の奥深くに響いて、この夜を特別なものにしてくれた。
ホテルに戻る道すがら、ライトアップされたハッサン2世モスクを再び眺めた。昼間見た時とは全く異なる表情で、夜の海に向かって静かに祈りを捧げているようだった。この一日で、カサブランカの多様な魅力を存分に味わうことができた。伝統と現代、東洋と西洋、海と陸、すべてが調和している不思議な街だと改めて感じた。
3日目: 別れの朝と心に残る記憶
最終日の朝は、早起きしてコルニッシュ通りを散歩することから始めた。朝日が大西洋から昇る瞬間を見たかったのだ。午前6時頃、まだ薄暗い中を歩いていると、すでに何人かの地元の人が海沿いでジョギングをしていた。挨拶を交わすと、皆温かい笑顔で応えてくれる。
水平線の向こうから太陽がゆっくりと顔を出すと、海面がオレンジ色に輝いて、まるで黄金の絨毯のようだった。ハッサン2世モスクのシルエットが朝日に浮かび上がる光景は、この旅で最も美しい瞬間の一つだった。海風は少し冷たかったが、その清々しさが心地よく、新しい一日の始まりを感じさせてくれた。
散歩の途中で出会った地元の釣り人、アリさんと少し話をした。彼は毎朝この時間に釣りをしているという。「海は毎日違う顔を見せてくれる。飽きることがない」と、流暢な英語で教えてくれた。彼の手にした釣り竿の先では、小さなイワシが踊っていた。「今日は良い日だ。家族への土産ができた」と嬉しそうに笑う彼の姿から、海と共に生きる人々の暮らしの一端を垣間見ることができた。
朝食は、昨日気に入ったベーカリーで再び。今度は店の奥で焼かれているパンの種類について、店主のムスタファさんに詳しく教えてもらった。モロッコには地域によって異なる様々なパンがあり、それぞれに作り方や食べ方が違うという。カサブランカでよく食べられているホブスは、比較的シンプルな作りだが、毎日食べても飽きない味わいがあると彼は誇らしげに語った。
午前中は、お土産を買うために再びメディナを訪れた。昨日知り合ったスパイス店のアハメドさんに、日本に持ち帰れるスパイスのセットを相談した。彼は「これは絶対に必要」と言って、サフラン、ラス・エル・ハヌート (モロッコの万能スパイス) 、クミンなどを小さな袋に分けて用意してくれた。「これがあれば、家でもモロッコの味を楽しめます」と、調理法まで丁寧に教えてくれた。
隣の絨毯店では、美しいベルベル絨毯を見せてもらった。店主の父親だという老人が、絨毯に込められた意味について説明してくれた。それぞれの模様には意味があり、家族の幸せや健康、豊穣などの願いが込められているという。手織りの絨毯は一枚を完成させるのに何ヶ月もかかるそうで、その価値の高さを実感した。結局、小さなクッションカバーを購入することにした。
昼食は、これまでまだ試していなかった料理に挑戦したいと思い、地元の人で賑わう小さな食堂に入った。メニューを見ても何が何だかわからなかったが、隣のテーブルの家族が食べていた料理が美味しそうだったので、同じものを注文することにした。運ばれてきたのは、マッシュルームという羊の頭を煮込んだ料理だった。最初は少し驚いたが、食べてみると意外にも優しい味で、長時間煮込まれた肉は柔らかく、スパイスも効きすぎず、身体に染み渡るような滋味深い味わいだった。
食堂の女主人であるアイーシャさんは、私が一人で旅行していることを知ると、とても心配してくれた。「一人で大丈夫?」「何か困ったことはない?」と母親のように気にかけてくれる。言葉の壁はあったが、彼女の温かい心遣いは十分に伝わってきて、胸が温かくなった。
午後は、フライトの時間まで街の最後の散策を楽しんだ。ムハンマド5世広場で鳩に餌をやる子どもたちを眺めたり、街角のカフェでもう一度ミントティーを味わったり、特別なことをするわけではないが、カサブランカの日常的な風景をじっくりと心に刻もうとした。
街を歩いていると、昨日陶器工房で出会ったユセフさんにばったり遭遇した。「もう帰るのですか?早いですね」と残念そうに言ってくれた。彼は私が作った小さなボウルを窯で焼いてくれていて、「記念に持って帰ってください」と手渡してくれた。不格好ながらも、自分の手で作った作品は特別な思い出になった。
夕方、空港に向かう前に最後にハッサン2世モスクをもう一度見に行った。3日間でこの場所を何度も訪れたが、見るたびに新しい発見があった。今度は、夕日に照らされたミナレットが、大西洋の向こうまで続く光の道を作り出していた。この美しい光景を目に焼き付けて、カサブランカとの別れの時間を惜しんだ。
空港への道中、運転手は初日と同じムハンマドさんだった。「どうでしたか、カサブランカは?」と聞かれて、「とても素晴らしかった。また必ず戻ってきます」と答えると、「それは良かった。次回はもっと長く滞在してくださいね」と笑顔で答えてくれた。
搭乗ゲートで待っている間、この3日間のことを振り返った。美味しい料理、美しい建築、温かい人々との出会い、そして大西洋の雄大な景色。短い滞在だったが、カサブランカの魅力を十分に堪能することができた。特に印象に残っているのは、出会った人々の優しさだった。言葉が通じなくても、心は通じ合えることを改めて実感した。
離陸の瞬間、窓から見えるカサブランカの街並みが小さくなっていく。白い建物が立ち並ぶ美しい街、そこに住む温かい人々、そして心に残る数々の思い出。この旅で得たものは、きっと一生忘れることはないだろう。
最後に
この3日間のカサブランカ旅行は、空想の中の出来事である。しかし、文章を書きながら、まるで本当にその場所を訪れ、その匂いを嗅ぎ、その味を味わい、その人々と出会ったかのような錯覚を覚えた。
ハッサン2世モスクの荘厳さ、メディナの活気、タジン料理の香り、ミントティーの甘さ、大西洋の潮風、そして何より出会った人々の温かい笑顔。これらすべてが、頭の中で鮮明に映像となって浮かび上がってくる。
旅とは、必ずしも物理的に移動することだけではないのかもしれない。想像力を働かせ、その土地の文化や歴史に思いを馳せ、そこに住む人々の暮らしに想いを寄せることも、また一つの旅の形なのではないだろうか。
この空想旅行記が、いつか本当にカサブランカを訪れる日の前奏曲となることを願いながら、「白い街」への憧憬を胸に、日常に戻ることにしよう。空想でありながら、確かに心の中に刻まれたカサブランカの記憶を大切に。