はじめに
オランダ北東部のオーファーアイセル州に位置するヒートホールン。「オランダのベニス」や「北のベニス」と呼ばれるその小さな村は、18世紀から19世紀にかけて泥炭採掘によって生まれた運河の網の目が、今なお静かに村を貫いている。人口わずか2600人ほどのこの村には、車道がない地区があり、運河と遊歩道、そして自転車道だけが人々の移動手段となっている。
茅葺き屋根の農家が運河沿いに点在し、庭先には色とりどりの花々が咲き誇る。春から夏にかけては観光客で賑わうが、それでも都市部の喧騒とは無縁の、時が止まったような静寂が支配している。ここでは人々が「ウィスパーリング・ボート」と呼ばれる電動ボートで静かに運河を行き交い、鳥のさえずりと水音だけが聞こえる世界が広がっている。
オランダの伝統的な農村文化と自然が融合したこの場所で、私は3日間という短い時間を過ごすことにした。現代の忙しさを忘れ、ゆっくりと流れる時間の中で、自分自身と向き合う旅になることを願いながら。
1日目: 静寂の村への扉
アムステルダム中央駅から電車でズヴォレまで約1時間、そこからバスに揺られること40分。窓の外に広がるオランダの典型的な田園風景を眺めているうち、いつの間にか心が穏やかになっていくのを感じた。牧草地に点在する牛たち、風車の影、そして地平線まで続く緑の絨毯。
ヒートホールンのバス停に降り立つと、まず感じたのは音の少なさだった。車のエンジン音がほとんど聞こえない。代わりに鳥のさえずりと、どこからともなく聞こえてくる水の音が耳に届く。宿泊先のベッド&ブレックファスト「De Rietstulp」へ向かう道すがら、早速この村の特別さを実感した。
茅葺き屋根の家々が運河沿いに佇む光景は、まるで絵本の中に迷い込んだような錯覚を起こさせる。屋根の厚い茅は黄金色に輝き、白い壁との対比が美しい。庭先にはラベンダーやバラ、ダリアなどが咲き乱れ、それぞれの家が個性的な庭づくりをしているのが印象的だった。
宿のオーナーであるマルタさんは、60代の穏やかな女性だった。流暢な英語で迎えてくれた彼女は、この村で生まれ育ったという。「ここは世界で一番静かな場所の一つよ」と微笑みながら、部屋への案内をしてくれた。2階の部屋からは運河が見え、小さなベランダからは隣家の庭に咲く白いバラが間近に見えた。
午後は村の散策に出かけた。まず向かったのは「Museum Giethoorn ’t Olde Maat Uus」。19世紀の農家を再現したこの博物館では、当時の人々の暮らしぶりを知ることができる。泥炭採掘で生計を立てていた人々の生活は質素ながらも豊かで、家具や調度品には手作りの温かみがあった。特に印象的だったのは、巨大な暖炉を中心とした居間で、冬の長い夜をここで家族が語り合ったのだろうと想像すると、なんとも言えない郷愁を感じた。
夕方になると、村はさらに静寂に包まれた。運河沿いの遊歩道を歩いていると、向こうからウィスパーリング・ボートがゆっくりと近づいてきた。乗っているのは老夫婦で、私に向かって手を振ってくれた。こうした何気ないふれあいが、この村の人々の温かさを物語っている。
夕食は宿の近くにあるレストラン「De Lindenhof」で。ここは地元で評判の家族経営のレストランで、オランダ伝統料理を味わうことができる。私が注文したのは「Stamppot met rookworst」 (マッシュポテトとソーセージの煮込み) 。シンプルだがじっくりと煮込まれた料理は、体の芯から温まる優しい味だった。隣のテーブルの地元の老紳士が、料理について英語で説明してくれたのも嬉しい出来事だった。
夜、宿の部屋に戻ると、窓の外の運河が月明かりに照らされて銀色に光っていた。都市部では決して見ることのできない星空が、頭上に広がっている。ベッドに横になりながら、明日はボートで村を巡ろうと計画を立てた。このまま時間が止まってしまえばいいのに、と思いながら眠りについた。
2日目: 運河に浮かぶ一日
朝、鳥のさえずりで目を覚ました。時計を見ると午前7時。普段の生活では考えられないほど早い時間だが、不思議と体が軽い。窓を開けると、ひんやりとした朝の空気が頬を撫でていく。運河の水面には薄っすらと霧がかかり、幻想的な光景が広がっていた。
マルタさんの手作りの朝食は、焼きたてのパンにオランダ産のチーズ、ハム、そして庭で採れたトマトとキュウリ。シンプルながらも素材の味がしっかりと感じられる、心のこもった食事だった。「今日はボートに乗るのね」と聞かれ、頷くと「午後の方が風が穏やかよ」とアドバイスをくれた。
午前中は徒歩で村の北部を探索することにした。メインの観光エリアから少し離れると、より日常的な村の風景に出会える。洗濯物を干している家、庭仕事をしているお年寄り、犬の散歩をしている女性。みんなが「Goedemorgen」 (おはよう) と声をかけてくれる。
特に印象深かったのは、80歳を超えているであろうおじいさんとの出会いだった。彼は庭先でパイプを燻らせながら、流暢な英語で村の歴史を語ってくれた。「私の祖父は泥炭採掘をしていました。この運河は全て、人の手で掘られたものなのです」。彼の話を聞きながら、今の美しい風景の背景にある先人たちの労苦を思った。
午後はいよいよボートクルージング。「Giethoorn Boat Rental」で「ウィスパーリング・ボート」を借りた。電動のこのボートは本当に静かで、エンジン音がほとんどしない。運河を進むと、陸上からは見えない角度で茅葺き屋根の家々を眺めることができる。
ボートから見る風景は、まさに絵画のようだった。運河の両岸には柳の木が枝を垂らし、その間に点在する家々はそれぞれが異なる表情を持っている。あるお宅では庭で読書をしている女性がいて、手を振り返してくれた。またある家では、桟橋で釣りをしている少年がいた。こうした日常の光景が、観光地でありながらも生活感のあるヒートホールンの魅力なのだろう。
運河は村を縦横に走り、時には湖のように広がる場所もある。「Botermarkt」と呼ばれるエリアでは、かつてバター市場があったという。今では静かな水面に鴨が泳いでいるだけだが、かつてここで商売の声が響いていたのかと思うと、時の流れを感じずにはいられない。
ボートツアーの途中、小さな島のようになった場所で休憩した。ここにはベンチが置かれていて、持参したオランダのストロープワッフルとコーヒーで簡単な昼食をとった。周りは水と緑だけの世界。時折、他の観光客のボートが静かに通り過ぎていくが、基本的には自分だけの時間と空間がある。
夕方、ボートを返却した後は、村で一番有名な「Café Restaurant Fanfare」へ。運河沿いのテラス席で、オランダビールの「ハイネケン」を飲みながら夕日を眺めた。金色に染まった空が運河の水面に映り、茅葺き屋根のシルエットが美しいコントラストを描いている。
夕食は同じレストランで「Gebakken snoekbaars」 (パーチのソテー) を注文。地元の湖で獲れた魚を使った料理で、バターとハーブの香りが食欲をそそる。添えられた野菜も新鮮で、オランダの豊かな農業を感じさせる一皿だった。
夜は宿に戻る前に、もう一度運河沿いを歩いた。日中とは違う夜の静寂があり、各家の窓から漏れる温かい光が水面に揺れている。どこかの家からは、ピアノの音色が聞こえてきた。ショパンのノクターンだった。こんな場所でクラシック音楽を聞くなんて、なんて贅沢なことだろう。
部屋に戻ると、マルタさんが置いてくれたハーブティーを飲みながら、一日を振り返った。朝から夜まで、時間がゆっくりと流れていく感覚。都市部での忙しい日常とは全く違う時間の感覚に、心身ともにリラックスしているのを感じた。
3日目: 別れの朝と心に残るもの
最終日の朝は、少し寂しい気持ちで迎えた。いつものように鳥のさえずりで目覚めたが、今日でこの静かな世界とお別れかと思うと、胸の奥がほんのり温かく、同時に切なくもある。
最後の朝食をマルタさんと一緒にとった。「どうでしたか、ヒートホールンは？」と尋ねられ、「まるでおとぎの国のようでした」と答えると、彼女は満足そうに微笑んだ。「多くの人がそう言ってくださいます。でも私たちにとっては、ただの故郷なんですよ」。その言葉に、観光地化されていてもなお、ここが人々の大切な生活の場であることを改めて感じた。
チェックアウト後、バスの時間まで2時間ほどあったので、最後の散歩に出かけた。今度は村の南側、「Zuiderpark」という小さな公園に向かった。ここは地元の人たちの憩いの場で、観光客はあまり来ない静かなスポットだ。ベンチに座って、持参した日記帳にこの3日間の思い出を書き留めた。
公園では地元の子どもたちが遊んでいた。オランダ語での会話は理解できないが、子どもたちの笑い声は万国共通だ。ブランコに乗っている女の子が私に向かって手を振ってくれたとき、言葉はなくても心が通じ合うことがあるのだと実感した。
帰る前に、もう一度村の中心部を歩いた。3日間で見慣れた風景も、別れを意識すると違って見える。茅葺き屋根の家、運河を行き交うボート、庭先の花々。すべてが心に深く刻み込まれているような気がした。
最後に立ち寄ったのは小さなお土産屋「Giethoorn Gifts」。ここでオランダ製の小さな風車の置物を購入した。手のひらに収まるほど小さなものだが、この村での思い出を象徴するような気がした。店主の女性が「また来てくださいね」と英語で言ってくれたとき、必ずまた戻ってくると心に誓った。
バス停に向かう道すがら、振り返って村を見た。茅葺き屋根の家々が運河の向こうに並んでいる。3日前に初めて見たときと同じ風景のはずなのに、今は特別な意味を持っているように感じられた。ここで出会った人々、体験した静寂、味わった料理、感じた時間の流れ。すべてが私の一部になったような気がした。
バスが来て、ヒートホールンを後にした。窓から見える風景が次第に現代的になっていくにつれ、あの静かな村での3日間が夢だったのではないかと思えてくる。でも手に持つ風車の置物が、それが確かに現実だったことを教えてくれた。
ズヴォレ駅に到着し、アムステルダム行きの電車を待っているとき、ふと気づいたことがある。この3日間、一度もスマートフォンを見なかった。SNSもチェックしなかった。それでも何の不安も感じなかった。むしろ、本当に大切なものが何かを思い出すことができた気がする。
アムステルダム中央駅に着くと、都市の喧騒が一気に押し寄せてきた。人々が急ぎ足で歩き回り、車の音が響く。3日前は当たり前だった光景が、今は少し違って見える。ヒートホールンの静寂を知ってしまった私にとって、都市の音は少し騒がしすぎるように感じられた。
最後に
ヒートホールンでの3日間は、空想の中の旅でありながら、確かに私の心の中に存在している。茅葺き屋根の家々、静かな運河、優しい人々との出会い、ゆっくりと流れる時間。これらすべてが、まるで実際に体験したかのように鮮明に記憶に残っている。
時として、想像の中の旅は現実の旅よりも純粋で美しいものになることがある。現実の制約や不便さに邪魔されることなく、その土地の最も美しい瞬間だけを集めて体験することができるからだ。ヒートホールンへの空想旅行は、まさにそんな旅だった。
しかし同時に、この空想旅行を通じて、実際のヒートホールンへの憧れはさらに強くなった。いつか本当にあの静かな村を訪れ、運河をボートで巡り、茅葺き屋根の家に泊まってみたい。その時、この空想の記憶と現実の体験が重なり合って、きっと特別な旅になることだろう。
空想でありながら確かにあったように感じられる旅。それは心の中にだけ存在する、もう一つの現実なのかもしれない。ヒートホールンは今でも私の記憶の中で、静かに時を刻み続けている。
