はじめに: カリブの蝶、グアドループへ
カリブ海に浮かぶフランス海外県グアドループは、その名の通り蝶の形をした二つの島からなる。東のグランドテール島は石灰岩の平坦な土地に白砂のビーチが続き、西のバステール島は火山性の山々が緑深く聳え立つ。まさに対照的な美しさを持つ双子の島だ。
1635年からフランス領となったこの地は、アフリカ、ヨーロッパ、そして先住民カリブ族の文化が融合し、独特のクレオール文化を育んできた。公用語はフランス語だが、街角に響くのはクレオール語の柔らかな調べ。アクラ、ブーダン、コロンボといったスパイシーな料理の香りが潮風に混じって漂い、ズークやグォカのリズムが夜を彩る。
ラ・スフリエール火山の雄大な姿、熱帯雨林に隠れた滝、サトウキビ畑の緑の絨毯。そして何より、ここに暮らす人々の温かな笑顔が、この島の真の宝物なのだろう。短い滞在ながら、この豊かな文化と自然に触れる旅が始まろうとしていた。
1日目: 空の青、海の青、そして初めてのクレオールの調べ
ポワンタピートル国際空港に降り立つと、湿度を含んだ暖かな空気が頬を撫でていく。空港の外に出ると、想像していた以上に現代的な街並みが広がっていて、少し拍子抜けする。けれど、タクシーの運転手がクレオール語で何かを呟きながら陽気に手を振ってくれる様子に、ああ、確かにここはカリブなのだと実感する。
宿泊先のサント=アンヌに向かう道中、車窓から見えるのはサトウキビ畑の緑の波。遠くにラ・スフリエール火山の頂上が雲に隠れているのが見える。運転手のマルセルさん (と名乗ってくれた) は片言の英語で島のことを教えてくれる。「ここは朝は静か、でも夕方はズークで賑やか」そう言って笑う彼の言葉が、これから始まる時間への期待を膨らませた。
午後、サント=アンヌのビーチに足を向ける。グランドテール島南岸のこの浜は、本当に絵に描いたような白砂のビーチだった。ヤシの木陰にハンモックが揺れ、地元の子どもたちが浅瀬ではしゃいでいる。海の色は、近くでは透明に近いエメラルドグリーン、沖に向かうにつれて深いコバルトブルーへと変化していく。
ビーチ沿いの小さなカフェで初めてのクレオール料理に挑戦した。アクラという塩ダラのフリッターは外がカリッと香ばしく、中はほくほくで、ライムを絞ると爽やかさが口いっぱいに広がる。ティ・パンチというラムベースのカクテルを勧められて一口含むと、思いのほか強いアルコールに驚きながらも、砂糖黄檸檬の甘酸っぱさが後を引く美味しさだった。
夕方、宿の近くを散歩していると、どこからともなくドラムの音が聞こえてくる。音の方向へ足を向けると、広場で地元の人たちがグォカを踊っていた。太鼓の単調だけれど力強いリズムに合わせて、老若男女が輪になって踊る姿は、見ているだけで心が躍る。一人の女性に手を引かれて輪の中に入ると、恥ずかしさよりも楽しさが勝って、気づけば夢中になって体を動かしていた。
夜、宿の小さなバルコニーで海を眺めながら、今日一日を振り返る。飛行機を降りてからまだ数時間しか経っていないのに、すでにこの島の魅力に心を奪われている自分がいる。遠くで聞こえるズークの音楽、潮騒、そして時折聞こえる笑い声。これらすべてが、明日への期待で胸をいっぱいにしてくれた。
2日目: 緑深き山へ、そして炎のスパイスとともに
朝、宿の庭で採れたというマンゴーとパッションフルーツの朝食をいただく。特にマンゴーの甘さは格別で、果汁が滴るほどジューシーだった。マダム・ルクレールという宿の女主人は、バステール島の国立公園を訪れることを強く勧めてくれる。「山の緑と滝の音は、きっとあなたの心を洗ってくれるわ」その言葉に背中を押されて、レンタカーでバステール島へ向かった。
バナナ園やコーヒー農園を縫うように山道を登っていくと、景色は次第に熱帯雨林の深い緑に変わっていく。グアドループ国立公園の入り口で車を停め、ハイキングコースを歩き始める。湿度の高い空気に包まれながら、巨大なシダ植物やヘゴの間を縫って進む。時折、色鮮やかな鳥の鳴き声が森に響いて、まるで別世界にいるような気分になる。
30分ほど歩くとシュット・デュ・カルベット滝に到着した。落差は15メートルほどだろうか、岩肌を滑るように流れ落ちる水は、底に小さな天然プールを作っている。地元のカップルが楽しそうに水遊びをしているのを見て、私も靴を脱いで足を浸してみる。山の冷たい水が火照った足を心地よく冷やしてくれる。ここにいると、時間の流れがゆっくりになったような気がした。
午後、バス=テールの街を訪れる。フランス植民地時代の面影を残すコロニアル建築の家々が、緑豊かな庭園に囲まれて佇んでいる。中でも印象的だったのは、18世紀に建てられたという旧総督邸の優雅な佇まいだった。白い壁にブルーの窓枠、そして赤い瓦屋根が青空に映える美しさは、まさに南国の楽園という言葉がぴったりだった。
街の市場でランチをとることにした。活気あふれる市場には、見たこともない野菜や果物、スパイスが所狭しと並んでいる。コロンボという黄色いスパイスミックスの香りが特に印象的で、店主のおばさんに勧められるまま、コロンボ・ド・ポークを注文した。豚肉をココナッツミルクとコロンボスパイスで煮込んだこの料理は、最初は優しい甘さを感じるのだが、後からじわじわと香辛料の複雑な辛さが舌を刺激する。プランテンバナナの付け合わせと一緒に食べると、その辛さが程よく中和されて絶妙なバランスだった。
夕方、ポワンタピートルの港町を散策する。カリブ海貿易の要衝として栄えたこの町には、フランス、アフリカ、インドの文化が混在している。シェルシェル市場では、マダマン (アンティーユの女商人) たちが色鮮やかな布を身にまとい、香辛料や民芸品を売っている。その中の一人、マリーズさんという女性と少し話をした。彼女は祖母から受け継いだというカラフルなスカーフの巻き方を教えてくれ、「これであなたもグアドループの女性よ」と笑いかけてくれた。
夜は港近くのレストランで、ランゴスティーヌ (イセエビ) のグリルを堪能した。新鮮な海老にガーリックバターとエルブ・ド・プロヴァンスの香りが効いていて、白ワインとの相性も抜群だった。テラス席からは夜の港が見渡せ、漁船の明かりが海面に揺らめいている。遠くからはズークの演奏が聞こえてきて、今夜もまた、グアドループの夜は音楽とともに更けていく。
3日目: 最後の朝、そして心に残る人々との別れ
最終日の朝は、サント=アンヌの海岸で迎えた。日の出前の薄明るい時間に浜辺を歩くと、昨日までとは違った静寂に包まれている。地元の漁師たちが早朝の漁から戻ってきたところで、彼らの船には色とりどりの魚が並んでいる。ドラード (シイラ) の黄金色の体や、真っ赤な目をしたレッドスナッパーなど、カリブ海の豊かさを物語る魚たちだった。
漁師の一人、ジョセフさんに声をかけられた。彼は40年以上この海で漁をしているという。「この海は気まぐれだが、いつも我々を養ってくれる」と、海を見つめながら静かに語る彼の横顔には、長年海と向き合ってきた人だけが持つ穏やかさがあった。彼が分けてくれた新鮮なウニは、海の塩味と濃厚な甘みが口の中で弾け、生まれて初めて味わう海の恵みの豊かさに感動した。
午前中、宿の女主人マダム・ルクレールが、家庭料理を教えてくれることになった。クレオール料理の基本であるソフリートという香味野菜のペーストから始まり、ブーダン・クレオールという血のソーセージを作る過程を見学させてもらう。「料理は愛情よ」と言いながら、彼女が丁寧にスパイスを調合する姿からは、代々受け継がれてきた知恵と技術の深さを感じる。
完成したブーダンをいただくと、最初は戸惑いを感じたが、噛むほどに複雑なスパイスの香りと、意外にもあっさりとした味わいに驚いた。「これがグアドループの味よ」とマダムが微笑む。その言葉の中に、この島で生まれ育った人々の誇りを垣間見た気がした。
午後、最後の時間をグランドテール島の東端、ポワント・デ・シャトーで過ごすことにした。ここは荒々しい大西洋の波が打ち寄せる岬で、サント=アンヌの穏やかな海とは対照的な力強さを持っている。岬の灯台からの眺めは圧巻で、360度見渡す限りの海と空の青が広がっている。
岬のカフェで最後のティ・パンチを注文した。3日前に初めて飲んだ時は強すぎると感じたが、今では懐かしい味になっている。カフェの老店主が「また戻っておいで」と声をかけてくれる。その優しさに、思わず胸が熱くなった。
空港への道のりは、来た時と同じマルセルさんが運転してくれた。「どうだった、グアドループは?」という問いに、一言では表現できない複雑な感情が胸に湧き上がる。美しい自然、豊かな文化、そして何より、出会った人々の温かさ。すべてが心の奥深くに刻まれている。
出発ロビーで最後にクレオール語を聞きながら、この3日間のことを思い返す。短い滞在だったが、グアドループという島の魂に少しだけ触れることができたような気がする。搭乗案内のアナウンスが響く中、きっとまたここに戻ってくるだろうという確信とともに、島に別れを告げた。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
飛行機の窓から小さくなっていくグアドループの島影を見つめながら、この3日間の記憶を大切に心にしまう。アクラの塩味、ティ・パンチの甘酸っぱさ、グォカのリズム、シュット・デュ・カルベット滝の冷たい水、そして出会った人々の笑顔。すべてが今も鮮明に胸に残っている。
この旅は空想の産物である。けれど、グアドループという島の豊かな自然と文化、そこに暮らす人々の温かさは、確かに存在している現実だ。言葉で紡いだ記憶は、実際の体験ではないかもしれない。しかし、この島への憧憬と敬意、そして再び訪れたいという気持ちは、空想を超えた本物の感情として心に刻まれている。
旅とは、新しい土地で新しい自分を発見することかもしれない。グアドループという蝶の形をした島で過ごした3日間は、空想でありながら確かにあったかのように、私の心の一部となった。いつの日か、この想像の記憶を現実に変える日が来ることを願いながら。