はじめに
ホーンストランディアは、アイスランドの最北西部に位置する、まさに世界の果てとも呼べる場所だ。ウェストフィヨルド地方の中心都市でありながら、人口わずか2,600人余りの小さな町。三方を海に囲まれ、背後には荒涼とした山々が連なる。
この地に人が住み着いたのは9世紀のこと。ヴァイキングたちが荒波を越えてやってきて、厳しい自然の中で漁業と牧畜で生計を立てた。現在でも、ホーンストランディアは漁業の町として知られ、港には色とりどりの漁船が並ぶ。夏の白夜と冬の極夜という極端な環境の中で、人々は自然と共生する術を身につけてきた。
町の名前「ホーンストランディア」は「角の海岸」を意味する。実際に、町から見える海岸線は角のように突き出た岬が特徴的で、その向こうには北極海が広がっている。ここは、アイスランドでも最も人里離れた場所のひとつ。だからこそ、都市の喧騒から離れ、自分自身と向き合える場所でもある。

1日目: 角の海岸への旅路
レイキャビクからホーンストランディアまでは、国内線で約1時間半の空の旅。小さなプロペラ機の窓から見下ろすアイスランドの大地は、まるで別の惑星のようだった。溶岩台地が延々と続き、その間を縫うように青い湖が点在している。機体が西に向かうにつれ、景色は徐々に荒々しさを増していく。
ホーンストランディア空港に降り立った瞬間、頬を撫でる風の冷たさに身が引き締まった。6月の午前中だというのに、気温は10度を下回っている。空港から町の中心部までは車で約10分。タクシーの運転手は地元の人らしく、片言の英語で町の歴史を教えてくれた。
「ここは昔から漁師の町だ。祖父も父も、そして私も漁師をしていた。最近は観光客も増えているが、やはり海が我々の生活の中心だよ」
宿泊先のゲストハウス「ホーンビーク」は、港を見下ろす丘の上にある。19世紀に建てられた木造の建物を改装したもので、温かみのある黄色い外壁が印象的だ。部屋の窓からは、ホーンストランディアフィヨルドの美しい景色が一望できる。
午後は町の散策に出かけた。メインストリートのハーフナルストラエティには、カフェや雑貨店、小さなスーパーマーケットが軒を連ねている。建物はどれも2、3階建てで、赤や青、緑といった鮮やかな色で塗られている。これは、長い冬の間の鬱屈とした気分を晴らすためだと聞いたことがある。
港の近くにある「ホーンストランディア海洋博物館」を訪れた。小さな博物館だが、この地の漁業の歴史が詳しく展示されている。特に印象的だったのは、19世紀の漁師たちが使っていた小さな木造船の模型。この厳しい海で、こんな小さな船で漁をしていたのかと思うと、先人たちの勇気に敬服する。
夕食は港近くのレストラン「ヴィーキング」で。店内は船の内部をイメージした作りで、壁には古い漁具や船の部品が飾られている。注文したのは、この地の名物であるラム肉のグリル。アイスランドのラム肉は、ハーブが豊富な牧草を食べて育つため、独特の風味がある。付け合わせのじゃがいもは、この地で栽培されたもので、ほくほくとした甘さが口に広がる。
食事を終えて外に出ると、夜の8時を過ぎているというのに、空はまだ薄明るい。これが白夜の始まりだ。港では漁師たちが翌日の準備をしており、船のエンジン音が静かな夜に響いている。
ゲストハウスに戻る途中、丘の上から町を見下ろした。小さな明かりが点々と灯る町並みは、まるで絵本の中の世界のようだった。遠く水平線の向こうには、薄っすらと雲がかかっているが、その隙間から夕日が差し込んでいる。
部屋のベッドに横になりながら、今日一日を振り返った。まだ旅の始まりだというのに、既に日常から遠く離れた場所にいることを実感する。窓の外からは、波の音と時折聞こえる海鳥の鳴き声が、この地の静寂を際立たせている。
2日目: 自然の聖域を歩く
朝、6時頃に目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む光で、外がもう明るいことがわかった。白夜の季節、日の出と日の入りの境界は曖昧になる。
朝食はゲストハウスのダイニングルームで。アイスランドの伝統的な朝食は、黒パンにバター、チーズ、そしてこの地で捕れた魚の燻製。コーヒーと一緒に頂くと、身体の芯から温まる感じがした。
午前中は、町から車で30分ほどの場所にある「ホーンストランディア自然保護区」への小旅行。レンタカーを借りて、一人で出かけることにした。道中、羊の群れが道路を横切る光景に何度も出会った。アイスランドの羊は、夏の間は放牧され、自由に草原や山間を歩き回る。その姿は、この地の自然の豊かさを物語っている。
自然保護区に到着すると、広大な草原が目の前に広がった。6月のこの時期、草原は様々な野花で彩られている。アイスランドポピーの黄色い花、ルピナスの紫色の花穂、そして小さな白い花をつけるアイスランド綿花。風に揺れるその姿は、まるで自然が奏でる無声の音楽のようだった。
草原の奥へと続くトレイルを歩いていると、遠くに山脈が見えてきた。ドラングヤイェクトル山塊の一部で、標高は1,000メートルを超える。山頂には万年雪が残り、その白さが青い空に映えている。
2時間ほど歩いたところで、小さな湖に出会った。水面は鏡のように静かで、周囲の山々を完璧に映し出している。湖畔にある大きな岩に腰を下ろし、持参したサンドイッチで昼食。パンに挟んだのは、昨夜のレストランでお土産に買った燻製のマス。その塩気と湖の清らかな空気が、不思議な調和を生み出している。
午後は町に戻り、地元の人々との交流を楽しんだ。まず訪れたのは、メインストリートにある小さな毛糸店「ウール・ワールド」。店主のシグリッドさんは70歳を超えるおばあさんで、アイスランドの伝統的な編み物技術を今も続けている。
「この模様は、我が家に代々伝わるものです」と、彼女は手編みのセーターを見せてくれた。複雑な幾何学模様は、まるで雪の結晶のようで、一目見ただけでアイスランドの冬の厳しさと美しさが伝わってくる。
「昔は、各家庭でこのような模様を考案し、それが家族の印でもありました。今では、そのような伝統を知る人も少なくなりましたが、私は可能な限り続けていきたいと思っています」
シグリッドさんの話を聞きながら、文化の継承ということについて考えた。この小さな町で、一人のおばあさんが静かに伝統を守り続けている。それは、決して大きな声で語られることはないが、確実に次の世代へと受け継がれていくのだろう。
夕方は、町の外れにある小さな温泉「ポットルソン」を訪れた。アイスランド各地にある温泉の中でも、ここは特に小さく、地元の人々の憩いの場となっている。42度ほどの温かい湯に浸かりながら、フィヨルドの景色を眺める贅沢。
温泉には、地元の漁師らしい男性が一人いた。彼は英語を話すことができ、少し会話を交わした。
「この温泉は、私の祖父の代から利用している。漁から帰ると、ここで疲れを癒すのが習慣なんだ。観光客も来るようになったが、まだまだ地元の人の方が多いよ」
その後、彼は今日の漁の話をしてくれた。タラやサケ、そして時にはロブスターも捕れるという。「海は厳しいが、我々にとっては生命の源でもある」という彼の言葉が印象的だった。
夕食は、町の中心部にある「カフェ・ホーン」で。ここは昼間はカフェ、夜はレストランとして営業している。注文したのは、アイスランドの郷土料理「ハンギキョット」。ラム肉を特殊な方法で燻製にしたもので、独特の風味がある。最初は少し戸惑ったが、食べ進めるうちにその深い味わいに魅了された。
デザートには、アイスランドの伝統的なヨーグルト「スキール」を。濃厚でありながらさっぱりとした味わいで、ブルーベリーソースが添えられている。
食後、再び町を散歩した。夜の10時を過ぎても空は明るく、港では釣り人が糸を垂らしている。彼らに話しかけてみると、観光客ではなく地元の人々だった。
「夜釣りは我々の楽しみの一つです。昼間は仕事があるので、夜にのんびりと釣りを楽しむのです。白夜の時期は、時間の感覚が変わりますから」
確かに、この明るい夜の中では、時間の流れが違って感じられる。日常の時間軸から解放されて、自然のリズムに身を任せる心地よさがある。
3日目: 別れの朝と心に残るもの
最終日の朝は、少し早めに起きて港を散歩した。朝の5時頃だというのに、既に漁師たちが仕事を始めている。船の準備をする音、エンジンの音、そして海鳥の鳴き声が、この地の朝を彩っている。
港の先端にある小さな灯台に向かって歩いた。白い円筒形の灯台は、1902年に建設されたもので、今も現役で船の安全を守っている。灯台の周りには、海からの風を受けて育った低い草が生えており、その間に小さな花が咲いている。
灯台の近くのベンチに座り、海を眺めながら今回の旅を振り返った。わずか2泊3日の短い滞在だったが、この地の自然の美しさ、人々の温かさ、そして静寂の中にある豊かな時間を存分に味わうことができた。
午前中は、昨日訪れた毛糸店「ウール・ワールド」に再び足を向けた。シグリッドさんに、旅の感想を伝えたいと思ったからだ。店に入ると、彼女は昨日と同じように編み物をしていた。
「また来てくれてありがとう。どうでしたか、我が町の滞在は?」
「とても素晴らしい時間を過ごすことができました。特に、昨日の温泉では地元の方と話すことができて、この地の生活を少し理解できたような気がします」
「それは良かった。我々は決して多くを語らない民族ですが、心の中にはたくさんの思いを抱えています。あなたのような旅人がそれを感じ取ってくれると、とても嬉しいです」
シグリッドさんの言葉に感動し、記念に小さな手編みの帽子を購入した。アイスランドの伝統的な模様が織り込まれた帽子は、この旅の大切な記念品となった。
昼食は、ゲストハウスのオーナーであるマグヌスさんの奥様、アストリッドさんが作ってくれた特別なランチ。アイスランドの家庭料理である「フィスカブッラ」という魚のスープで、タラやサケ、野菜を煮込んだ優しい味わい。
「この料理は、私の母から教わったレシピです。長い冬の間、身体を温めるために作られてきました。アイスランドの女性は皆、このスープを作ることができます」
アストリッドさんの話を聞きながら、食事を通じて文化を伝えることの大切さを感じた。料理は、その土地の歴史や人々の知恵を凝縮したものなのだ。
午後は、最後の散歩として町の周辺を歩いた。2日前に到着したときには気づかなかった細かな風景が、今では愛おしく感じられる。石造りの古い教会、港に停泊する色とりどりの船、そして遠くに見える山々。
町の外れにある小さな墓地も訪れた。古い墓石には、19世紀から20世紀初頭の日付が刻まれている。この厳しい環境で生きた人々が、静かに眠っている場所。墓石の多くには、海に関連する彫刻が施されており、この地の人々と海との深い関わりを物語っている。
夕方、空港に向かう前に、最後にもう一度港を訪れた。今日の漁を終えた船が戻ってきており、漁師たちが網を片付けている。その日常的な光景が、今の私には特別なものに見えた。
「また来てくれよ」
昨日温泉で会った漁師の男性が、偶然通りかかって声をかけてくれた。
「必ず戻ってきます。今度はもっと長く滞在したいと思います」
「我々はいつでもここにいる。海がある限り、この町は続いていくからね」
彼の言葉に深い安心感を覚えた。この町、この人々、この風景は、時の流れに左右されずに存在し続けるのだろう。
タクシーで空港に向かう途中、振り返って町を見た。小さな町の明かりが、夕暮れの中で温かく輝いている。その光景は、まるで心の中に刻まれた一枚の絵のようだった。
空港で搭乗を待ちながら、この3日間で出会った人々のことを思い出していた。シグリッドさんの優しい笑顔、アストリッドさんの温かい料理、漁師の男性の力強い言葉。それぞれが、この地の豊かな人間性を表していた。
飛行機が離陸し、窓から下を見ると、ホーンストランディアの町が小さく見えた。そして、その周りを囲む広大な自然の中に、人間の営みがいかに小さく、そして同時にいかに貴重なものであるかを感じた。
機体がレイキャビクに向かって飛び立つ中、私の心の中にはホーンストランディアの風景が鮮明に残っていた。港の風の音、温泉の温かさ、そして人々の笑顔。それらは、この短い旅の中で得た、かけがえのない宝物だった。
最後に
ホーンストランディアでの2泊3日は、空想の旅でありながら、確かに心の中に存在する記憶となった。この地の冷たい風、静かな湖、温かい人々の笑顔、そして素朴な料理の味わい。それらは、実際に体験したかのように鮮明に思い出すことができる。
旅とは、必ずしも物理的な移動だけではないのかもしれない。心の中で思い描く風景、想像の中で交わす人々との会話、そして感じる風や匂い。それらも、確かに旅の一部なのだ。
ホーンストランディアの夜明けの光、港で働く人々の姿、そして遠くに見える山々の稜線。これらの風景は、今も心の中で生き続けている。そして、いつかきっと、この想像の中の旅が現実となる日が来ることを願っている。
空想でありながら、確かにあったように感じられる旅。それは、人間の想像力の素晴らしさを物語っている。私たちは、心の中で世界中のどこへでも旅することができるのだ。

