はじめに: 白い島の呼び声
地中海に浮かぶイビザ島は、スペインのバレアレス諸島に属する小さな島だ。「Isla Blanca (白い島) 」という愛称で親しまれるこの島は、石灰岩の白い崖と砂浜、そして真っ白な家々が織りなす美しい景観で知られている。
イビザと聞くと、多くの人が夏の狂騒的なクラブシーンを思い浮かべるだろう。確かに7月から8月にかけて、世界中からDJやパーティー愛好家たちが集まり、島は眠らぬ音楽の聖地と化す。しかし、その華やかな一面の陰に隠れているのは、フェニキア人の時代から続く古い歴史と、カタルーニャ語の方言であるイビセンコ語を話す島民たちの静かな生活だ。
島の内陸部には、オリーブやアーモンドの木が点在する赤い土の丘陵地帯が広がり、海岸線には小さな入り江 (カラ) が無数に刻まれている。ユネスコ世界遺産に登録された旧市街ダルト・ビラは、16世紀の城壁に囲まれ、迷路のような石畳の路地が中世の面影を色濃く残している。
私がこの島を訪れたのは、10月の穏やかな午後だった。夏の喧騒が去り、島本来の静寂と美しさが戻る季節。地中海性気候特有の柔らかな陽光と、どこまでも透明な海の色に魅せられた3日間の記録を、ここに綴りたいと思う。
1日目: 石の記憶と海の歌声
バルセロナから約1時間のフライトを経て、イビザ空港に降り立ったのは午後2時頃だった。機内から見下ろした島の姿は、まさに地中海に浮かぶ宝石のように美しく、白い建物が点在する風景は絵画のようだった。
空港からイビザ・タウンまでは、レンタカーで約15分の道のり。窓の外に流れる風景は、低い石垣に区切られた畑と、どこか懐かしい田舎の香りを運んでくる風だった。道路脇には野生のローズマリーが香り、時折現れる古い農家の白い壁に絡まるブーゲンビリアの紫色が印象的だった。
宿泊先は、旧市街に程近い小さなホテル。チェックインを済ませ、荷物を置いて外に出ると、もう夕方の光が石畳の路地を温かく照らしていた。まずはダルト・ビラの城壁を目指して歩き始める。
港から続く緩やかな坂道を上がっていくと、次第に中世の世界へと足を踏み入れていく感覚になった。石灰岩で作られた分厚い城壁は、16世紀にオスマン帝国の海賊から島を守るために築かれたもので、その重厚さに圧倒される。城壁に設けられた門をくぐると、そこは時が止まったような静寂の世界だった。
狭い石畳の路地は、白い壁の家々に挟まれて迷路のように続いている。家の扉は鮮やかな青や緑に塗られ、小さな窓辺にはゼラニウムの花が咲いていた。歩いているうち、地元の老人が家の前で椅子に座り、夕方の涼しい風を楽しんでいる姿に出会った。「Bona tarda (こんにちは) 」と声をかけてくれる優しい笑顔に、島の人々の温かさを感じた。
大聖堂の前の小さな広場で一息つく。13世紀に建てられたこの聖堂は、ゴシック様式とカタルーニャ地方特有の建築が混在した独特の美しさを持っている。夕日が正面の薔薇窓を通して差し込み、内部を金色に染めていた。
城壁の上からの眺めは息を呑むほど美しかった。眼下に広がるイビザ港と、その向こうに見えるフォルメンテーラ島。海の色は深い青から明るいターコイズブルーまで、微妙なグラデーションを描いている。遠くで漁船が帰港する様子を眺めながら、地中海の夕暮れの静寂に包まれていた。
夜は旧市街の小さなレストランで夕食をとった。「Sa Capella」という、古い教会を改装したレストランで、石の壁とアーチ型の天井が印象的だった。イビザ島の郷土料理である「Bullit de peix」という魚の煮込みを注文する。新鮮な魚介類とサフラン、トマトで煮込んだこの料理は、島の漁師たちが長い間愛してきた素朴で力強い味だった。一緒に出されたライスは魚のスープで炊かれており、一粒一粒に海の旨みが染み込んでいる。
食事の後、港沿いの遊歩道を歩いた。10月の夜は涼しく、海風が頬を優しく撫でていく。港に停泊するヨットの明かりが水面に揺れ、どこからか聞こえてくるギターの音色が夜の静寂に溶けていった。ホテルに戻る前、もう一度城壁の上から夜景を見上げる。ライトアップされた城壁と、星空の下に静かに眠る白い街並み。この美しい光景が、イビザでの最初の夜を彩った。
2日目: 隠された楽園と島の記憶
朝は地中海の穏やかな陽光で目を覚ました。ホテルの小さなテラスで朝食をとりながら、今日の計画を立てる。島の北部にあるCala d’Hort (カラ・ドルト) という小さな入り江と、その向かいに浮かぶ神秘的な岩山Es Vedrà (エス・ベドラ) を訪れることにした。
車で島の内陸部を横断していく道は、イビザの別の表情を見せてくれた。赤茶けた土と白い石灰岩が織りなす丘陵地帯には、古いアーモンドの木やオリーブの木が点在している。10月のこの時期、アーモンドの葉は黄色く色づき始め、地中海の強い日差しの中で金色に輝いていた。道端には野生のハーブが茂り、タイムやローズマリーの香りが車窓から流れ込んでくる。
途中、Sant Josep (サン・ジョゼップ) という小さな村で休憩した。教会を中心とした質素な街並みは、観光地としてのイビザとは全く違う、島民たちの日常の暮らしを垣間見せてくれる。小さなカフェで地元のおばあさんが焼いたエンサイマーダという渦巻き型のパンとカフェ・コン・レーチェを注文した。甘いパンの素朴な味と、濃いエスプレッソにたっぷりの温かいミルク。この組み合わせが、スペインの朝の味だった。
カラ・ドルトに到着したのは午前11時頃。小さな駐車場から松林の中の細い小道を5分ほど歩くと、突然目の前に絵画のような光景が広がった。コバルトブルーの海に囲まれた小さな砂浜と、その向こうに威風堂々とそびえるEs Vedràの岩山。高さ約400メートルのこの岩山は、古くから島の人々に神聖な場所として崇められてきた。
砂浜に座り、Es Vedràを眺めながら時間を過ごした。この岩山には数々の伝説がある。フェニキア人は航海の神として崇め、中世の時代には魔女や妖精が住むと信じられていた。現代でも、UFOの目撃情報が多く、神秘的なエネルギーを放つパワースポットとして知られている。実際に座っていると、何か特別な力を感じるような不思議な静寂があった。
海の透明度は驚くほど高く、水深3メートルほどの海底まではっきりと見える。小さな魚の群れが岩の間を泳ぎ回り、時折大きな魚が悠々と通り過ぎていく。泳いでいる人はほとんどおらず、10月の海は地元の人でも少し冷たく感じるようだった。
昼食は、カラ・ドルトの崖の上にある「Es Boldado」というレストランで。Es Vedràを正面に見渡せる絶景のテラス席で、新鮮な魚介類のパエリアを注文した。サフランの香りと魚介の旨みが混ざり合った黄金色のライスは、まさに地中海の味の集大成だった。ムール貝、エビ、イカ、そして地元で獲れた白身魚。それぞれの素材の味が調和し、Es Vedràの雄大な景色と共に、忘れられない食事となった。
午後は島の西側を南下し、Cala Comte (カラ・コンテ) というビーチを訪れた。ここは島内でも特に美しい夕日で有名な場所だ。真っ白な砂浜と、エメラルドグリーンからコバルトブルーへと変化する海の色。遠浅の海は歩いて沖まで行くことができ、膝の深さでも熱帯魚のような小さな魚たちが泳いでいる。
ビーチチェアに座りながら、島の西側に沈んでいく太陽を待った。時間と共に空の色が変化し、オレンジから赤、そして紫へと移ろっていく。太陽が水平線に触れる瞬間、空と海が一体となって燃えるような美しさを見せた。周りにいた数人の観光客も、皆静かにこの瞬間を見つめていた。自然の前では、言葉は必要ないのだと感じた。
夜はイビザ・タウンに戻り、港の近くの「La Brasa」という小さなタパス・バーで夕食。地元の人々で賑わう店内では、イビセンコ語とスペイン語、そして観光客の様々な言語が混じり合っていた。パン・コン・トマテ (トマトパン) 、ハモン・セラーノ、そして地元産のケソ・デ・カブラ (山羊のチーズ) を注文。どれもシンプルだが、素材の良さが際立つ味だった。特に山羊のチーズは、島の乾燥した気候と海風の影響で独特の風味があり、地元の白ワインとの相性が抜群だった。
帰り道、再び旧市街を歩いた。夜の石畳は昼間とは違った表情を見せ、街灯の柔らかい光が白い壁を温かく照らしている。小さな広場では地元の若者たちがギターを囲んで歌っており、その声が石壁に反響して美しいハーモニーを奏でていた。イビザの夜は、決して眠らない音楽の島という一面だけでなく、こうした静かで穏やかな時間も流れているのだと感じた。
3日目: 別れの朝と永遠の記憶
最終日の朝は、いつもより早く目を覚ました。まだ薄暗い午前6時頃、ホテルを出て港の方向へ歩く。朝の静寂の中、漁師たちが船の準備をしている様子を眺めながら、防波堤の先端まで歩いた。
東の空が少しずつ明るくなり、やがて地平線から太陽が顔を出す。海面がキラキラと光り、城壁の白い石が朝日に照らされて温かい色に染まっていく。この美しい日の出を一人で眺めながら、2日間で体験したすべての記憶が心の中で蘇ってきた。Es Vedràの神秘的な存在感、カラ・コンテの夕日、旧市街の石畳を歩いた夜。どれも確かに自分の中に刻まれている。
朝食後、最後に訪れたかった場所へ向かった。島の北東部にあるEs Canar (エス・カナール) という小さな村だ。ここは観光地化されていない、島民たちの日常の暮らしが色濃く残る場所として知られている。
村の中心にある小さな市場では、地元の農家が作った野菜や果物、手作りのジャムやハチミツが売られていた。おばあさんが手編みしたレースのドイリーや、島の粘土で作った素朴な陶器。どれも大量生産品にはない温かみがあった。特に印象的だったのは、島で採れたハーブで作られたリキュール「Hierbas Ibicencas」。アニスをベースに様々なハーブを漬け込んだこの酒は、食後酒として島の人々に愛されている。小さなボトルを購入し、日本に帰ってからもイビザの香りを楽しむことにした。
村の外れにある小さな教会を訪れた。18世紀に建てられたこの教会は、観光ガイドにも載らない静かな場所だった。白い壁と素朴な木の扉、小さな鐘楼。中に入ると、ろうそくの香りと古い木の匂いが混じった、どこか懐かしい空気に包まれた。祭壇の前に座り、この3日間への感謝の気持ちを込めて静かに祈った。
昼食は、Es Canarの海沿いにある「Restaurante Es Canar」で。地元の人々が普段使う食堂のような場所で、メニューはスペイン語とイビセンコ語で書かれていた。「Sofrit Pagès」という島の伝統的な煮込み料理を注文。羊肉、ソーセージ、野菜を香辛料と共にゆっくりと煮込んだこの料理は、まさに島の人々の魂の食べ物だった。素朴だが深い味わいは、島の歴史と人々の暮らしが込められているようだった。
食事の後、近くの小さな入り江で最後の海を眺めた。透明な水に足を浸し、3日間を振り返る。イビザという島は、確かにクラブとパーティーで有名だが、その陰に隠れた静寂と美しさ、そして長い歴史と文化を持つ豊かな土地だった。フェニキア人の時代から続く地中海交易の歴史、アラブ支配時代の影響、カタルーニャ文化の息づく現在。すべてが重なり合って、この島独特の魅力を作り出している。
空港へ向かう車の中で、窓外に流れる風景をもう一度目に焼き付けた。オリーブの木、白い農家、赤い土。どれも確かに見て、感じて、体験した風景だった。飛行機が離陸し、眼下にイビザ島が小さくなっていく。白い島は地中海の青に囲まれて、まるで夢の中の風景のように美しかった。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
窓側の席から見下ろすイビザ島は、まるで宝石のように輝いていた。3日間という短い時間だったが、この島で体験したすべてが今も鮮明に心に残っている。石畳を歩く足音、海風の匂い、Es Vedràの神秘的な存在感、地元の人々の温かい笑顔、そして地中海の夕日の美しさ。
旅の記憶というものは不思議だ。写真や映像では捉えきれない感覚や感情が、時として最も鮮明に心に刻まれる。イビサコン・レーチェの温かさ、ローズマリーの香り、夜の石畳の冷たさ、波の音。それらすべてが今も五感の中に生きている。
イビザ島は、多くの人にとってパーティーアイランドというイメージが強いかもしれない。しかし実際に島を歩き、地元の人々と触れ合い、静かな入り江で海を眺めていると、この島の本当の美しさは喧騒の陰に隠された静寂の中にあることがわかる。フェニキア人の時代から続く長い歴史、地中海の自然が育んだ豊かな文化、そして現代を生きる島民たちの穏やかな暮らし。
空想の旅でありながら、これらの体験は確かに心の中に存在している。地図で見た地名、写真で見た風景、本で読んだ歴史。それらの断片が旅という物語の中で一つに結ばれ、実際の記憶のように鮮明になる。時として想像の中の体験は、現実の体験以上に深く心に刻まれることがある。
イビザ島での3日間は、そんな特別な時間だった。白い島の記憶は、これからも心の中で静かに輝き続けるだろう。いつかまた、今度は本当にこの島を訪れる日が来ることを願いながら。