はじめに
キルデア。この名前を口にするとき、舌の上に広がるのは緑の草原と古い石の味わいだ。アイルランドの東部、ダブリンから車で1時間ほど南西に向かった場所に位置するこの州は、「教会の町」を意味するアイルランド語「Cill Dara」に由来する。5世紀に聖ブリジットが修道院を建てたこの地は、信仰と自然が織りなす静謐な美しさに満ちている。
ここはまた、アイルランドが世界に誇る競走馬の聖地でもある。カラ平原に広がる牧草地では、世界最高峰のサラブレッドたちが風のように駆け抜けていく。古代から続くケルトの文化と、中世の修道院文化、そして現代の馬術文化が重層的に息づく土地。それがキルデアという場所の持つ、得も言われぬ魅力なのだろう。
今回の旅では、この静かな州都キルデア・タウンを拠点に、歴史と自然、そして人々の暮らしに触れてみたいと思う。

1日目: 古き教会の鐘が響く街へ
ダブリン空港からレンタカーで向かうキルデアへの道のりは、まるで時代を遡るような感覚に包まれた。高速道路を外れ、細い田舎道に入ると、両側に広がるのは見渡す限りの緑の牧草地。遠くに点在する石造りの農家の煙突から立ち上る白い煙が、午後の柔らかな光に溶けていく。
キルデア・タウンに到着したのは午後2時過ぎ。小さな町の中心部は、石畳の道と古い建物が織りなす、絵本のような風景だった。メインストリートに面した「The Silken Thomas」という歴史あるパブに車を停め、まずは軽い昼食を取ることにした。16世紀の反乱指導者の名を冠したこのパブは、厚い石壁と重厚な木の梁が印象的で、まるで中世の酒場にタイムスリップしたかのようだった。
ギネスビールと共に注文したアイリッシュ・シチューは、ラムの肉がほろほろと崩れるほど柔らかく煮込まれ、根菜の甘みが口の中に広がった。地元の人々の話し声が心地よいBGMとなって、旅の疲れを優しく癒してくれる。バーテンダーのショーンは60代の温厚な男性で、キルデアの歴史について熱心に語ってくれた。「ここは1200年以上前から巡礼者たちが訪れる聖なる土地なんだよ」と、アイルランド訛りの英語で教えてくれた。
午後は、キルデア大聖堂を訪れた。12世紀に建てられたこの聖堂は、何度も改築を重ねながらも、その荘厳な佇まいを保ち続けている。特に印象的だったのは、併設されている円塔だった。高さ32メートルのこの石造りの塔は、9世紀頃にヴァイキングの襲撃から聖なる書物や宝物を守るために建てられたもので、細い階段を登ると、キルデアの町全体を見渡すことができた。
塔の上から見える夕暮れの風景は、言葉では表現しきれないほど美しかった。西の空が薄紫色に染まり始め、遠くに見える競馬場の向こうに、なだらかな丘陵が連なっている。風が頬を撫でていく。この瞬間、自分が確かにアイルランドの大地に立っているのだということを、体の芯から感じた。
夜は町の小さなレストラン「Hartes of Kildare」で夕食を取った。家族経営のこの店では、地元産の食材にこだわった料理が自慢だという。ウィックロー山脈で育った羊肉のローストは、ローズマリーとタイムの香りが効いていて、付け合わせのコルカノン (マッシュポテトとキャベツを混ぜたアイルランドの伝統料理) との相性も抜群だった。デザートのベイリーズ・チーズケーキは、口の中でとろけるような滑らかさで、一日の疲れを甘く包み込んでくれた。
宿泊先の「Kildare Lodge Hotel」は、町の中心部から少し離れた静かな場所にある、モダンながらも伝統的な雰囲気を保ったホテルだった。部屋の窓からは庭園が見え、夜風に揺れる木々の影が月明かりに踊っていた。ベッドに横になりながら、明日への期待に胸を膨らませつつ、キルデアの最初の夜が静かに更けていくのを感じていた。
2日目: 緑の大地と馬たちとの対話
朝7時、鳥のさえずりで目が覚めた。ホテルの朝食は、アイルランドの伝統的なフル・ブレックファストだった。ベーコン、ソーセージ、目玉焼き、焼きトマト、ブラック・プディング、そして焼きたてのソーダブレッド。量は多めだったが、これから一日中歩き回ることを考えると、しっかりと食べておくのが正解だろう。特にソーダブレッドは、外側がカリッとしていて中はもっちりとした食感で、バターとジャムをたっぷり塗って食べると格別だった。
午前中は、町から少し車で足を延ばして、アイルランド国立牧場 (Irish National Stud) を訪れた。ここは世界有数の競走馬の育成牧場で、一般にも公開されている。広大な緑の牧草地に放たれた馬たちは、まさに自然の芸術品のようだった。その優雅な動きを見ていると、なぜアイルランドが「馬の国」と呼ばれるのかが理解できる。
牧場のガイドツアーに参加し、サラブレッドの血統や育成方法について詳しく学んだ。案内してくれたマイケルさんは元ジョッキーで、馬への愛情が言葉の端々から溢れ出ていた。「馬はとても敏感な動物でね。人の心を読むのが上手いんだ。だから接するときは、常に穏やかな気持ちでいなければならない」と話してくれた。実際に馬に触れさせてもらったとき、その温かい体温と力強い筋肉を感じ、生命の力強さに圧倒された。
牧場に併設されている日本庭園も素晴らしかった。20世紀初頭に造られたこの庭園は、人の一生を表現しているという。入り口から出口まで歩きながら、誕生から死まで、そして来世への再生を辿る構成になっている。アイルランドの緑豊かな自然の中に突如現れる日本的な美意識は、不思議な調和を見せていた。特に小さな滝のそばで腰を下ろし、水の音に耳を傾けているとき、遠く離れた日本への郷愁と、今ここにいることの不思議さが交錯した。
午後は、キルデア・ヴィレッジ・アウトレットでショッピングを楽しんだ。アイルランド製のニットウェアや、地元の工芸品など、旅の記念になりそうなものを探して回った。特に気に入ったのは、アラン島で作られた伝統的なフィッシャーマンズ・セーターだった。複雑な編み模様には、それぞれに意味があり、漁師の安全や豊漁を祈る気持ちが込められているのだという。手に取ってみると、羊毛の温かさと職人の技術の高さが伝わってきた。
買い物の後は、町を散策しながらカフェ「The Hedge School」で休憩した。ここは元々19世紀の学校だった建物を改装したカフェで、高い天井と大きな窓が印象的だった。注文したアイリッシュ・コーヒーは、コーヒーの苦味とウイスキーの芳醇な香り、そして生クリームの甘さが絶妙にブレンドされていて、午後のひとときを豊かに彩ってくれた。
夕方には、キルデア城跡を訪れた。現在は廃墟となったこの城は、12世紀にノルマン人によって建てられたもので、アイルランドの複雑な歴史を物語る重要な遺跡だ。夕日に照らされた石壁は、まるで古い写真のセピア色のような温かな色調に染まっていた。城の周りを歩きながら、ここで繰り広げられたであろう数々の物語に思いを馳せた。
夜は、地元の人々に人気の「The Curragh Inn」で夕食を取った。この店の名物は、地元で取れた新鮮な魚介類だった。アイリッシュ海で水揚げされたサーモンのグリルは、シンプルな調理法ながら素材の味が存分に活かされていて、レモンバターソースとの組み合わせが絶妙だった。付け合わせのチャンプ (マッシュポテトにネギを混ぜたもの) も、優しい味わいでサーモンを引き立てていた。
食事中、隣のテーブルに座っていた地元の夫婦と会話が弾んだ。奥さんのブリジットさんは元学校の先生で、キルデアの歴史や文化について色々と教えてくれた。ご主人のパトリックさんは農場を経営しており、アイルランドの農業の現状について興味深い話を聞かせてくれた。「キルデアは変わりつつあるが、根本的な部分は昔から変わらない。人々の温かさと、土地への愛情は永遠に続くだろう」という彼の言葉が印象に残った。
ホテルに戻る途中、町の教会から夜の鐘が響いてきた。星空の下で聞くその音色は、まるで時間を超えて響く祈りの声のようだった。部屋の窓を開けて夜風を感じながら、この一日の充実感に包まれて眠りについた。
3日目: 別れの朝と心に刻まれた風景
最終日の朝は、少し早起きをしてホテル周辺を散歩した。朝霧に包まれたキルデアの町は、まるで夢の中の風景のようだった。メインストリートを歩いていると、パン屋さんから焼きたてのパンの香りが漂ってきた。「O’Brien’s Bakery」という小さな店で、アイリッシュ・ブラウンブレッドとクロワッサンを購入した。店主のマーティンさんは朝の5時から働いているそうで、「毎朝、町の人々に美味しいパンを届けるのが私の使命なんだ」と誇らしげに話してくれた。
ホテルに戻って朝食を取った後、チェックアウトまでの時間を利用して、もう一度キルデア大聖堂を訪れた。今度は内部をゆっくりと見学した。ステンドグラスから差し込む朝の光が、石の床に色とりどりの影を落としていた。祭壇の前で静かに座り、この旅での出会いや体験に感謝の気持ちを込めて祈りを捧げた。宗教的な信念はそれほど強くないが、この神聖な空間で過ごす時間は、心を穏やかにしてくれた。
午前10時頃、最後の目的地であるモナスターボイス修道院跡に向かった。キルデアから車で約45分の場所にあるこの遺跡は、5世紀に聖フィンバーによって設立された古い修道院の跡地だ。特に有名なのは、10世紀に作られた高さ5メートルを超える石の十字架で、細かい彫刻が施されており、当時の職人の技術の高さを物語っている。
修道院跡の周辺には、古い墓石が数多く点在していた。風化した文字を読み取ることは困難だったが、それぞれの石に刻まれた人生の物語を想像すると、時の流れの重さを感じずにはいられなかった。ここで静かに眠る人々も、かつては生き生きとこの土地で暮らし、愛し、悩み、喜んでいたのだろう。
円塔の前で腰を下ろし、持参したアイリッシュ・ブラウンブレッドを食べながら、この3日間の旅を振り返った。出会った人々の温かい笑顔、緑の牧草地を駆ける馬たちの姿、古い石造りの建物が語りかける歴史の重み、そして何より、この土地が持つ独特の静謐な美しさ。すべてが心の奥深くに刻み込まれていた。
午後1時頃、名残惜しい気持ちでキルデアを後にした。ダブリン空港への道のりで、車窓から見える風景の一つ一つが愛おしく感じられた。牧草地で草を食む牛たち、石垣に囲まれた小さな畑、遠くに見える古い教会の尖塔。どれも、もうすぐ別れを告げる友人のような存在に思えた。
空港で搭乗手続きを済ませながら、旅の終わりが近づいていることを実感した。免税店でアイルランド製のウイスキーとチョコレートを購入し、この旅の最後の記念とした。搭乗ゲートで待っている間、手帳に今回の旅の印象を書き留めた。「キルデアは、時間がゆっくりと流れる場所だった。そこには現代の慌ただしさから解放された、本当の豊かさがあった」。
飛行機が離陸し、窓から見下ろすアイルランドの緑の大地が小さくなっていく。しかし心の中では、あの風景がいつまでも鮮明に残り続けるだろう。キルデアで過ごした3日間は、決して長い時間ではなかったが、人生の中で特別な意味を持つ時間となった。
最後に
この旅は空想の産物であり、実際にキルデアの地を踏んだわけではない。しかし、書き綴りながら感じたのは、想像の中で体験した出来事が、まるで本当にあったかのような鮮明さを持っていることだった。
人と人との出会い、風景との対話、歴史との邂逅。これらすべてが、想像の中でありながら確かな手応えを持って心に響いた。おそらくそれは、キルデアという土地が持つ本物の魅力と、そこに暮らす人々の真の温かさが、時空を超えて伝わってくるからなのかもしれない。
空想でありながら確かにあったように感じられる旅。それこそが、想像力が持つ最も美しい力なのだろう。いつの日か、この想像の旅路を現実のものとして歩むことができれば、それは二重の喜びとなるに違いない。

