天空の聖地へ
ラサ―チベット語で「神々の住む場所」を意味するこの古都は、標高3,650メートルの高原に静かに佇んでいる。ヒマラヤ山脈の北麓に位置し、澄み切った青空と雪を頂いた山々に囲まれたこの聖地は、千年以上にわたってチベット仏教の中心として栄えてきた。
ポタラ宮の威容がラサ川の谷間に聳え立ち、その周りには伝統的な白い壁の家々が軒を連ねる。朝には寺院から響く読経の声が風に乗って街全体を包み込み、夕刻には五体投地で巡礼路を歩く人々の姿が街角のあちこちで見られる。空気は薄いが、それがかえって心を軽やかにし、この土地特有の静寂と荘厳さを際立たせている。
高原の厳しい自然環境の中で育まれたチベット文化は、仏教の教えと古来からのボン教の伝統が融合した独特な世界観を持つ。色鮮やかな経幡 (タルチョ) が風にはためき、マニ車の回る音が街の BGM となって響く。ヤクバターで灯される酥油燈の温かな光が、夜のラサに神秘的な雰囲気を醸し出している。
この天空の聖地で過ごす3日間は、きっと心の奥底にある何かを呼び覚ましてくれるだろう。

1日目: 聖地への第一歩
朝の光がゴンガル空港の滑走路を照らしている。飛行機の窓から見下ろすラサの街は、まるで地図のように小さく、しかし確かにそこに存在していた。標高の高さを実感するのは、タラップを降りた瞬間だった。深呼吸をしようとして、空気の薄さに軽いめまいを覚える。これがラサとの最初の出会いだった。
空港からラサ市内へ向かうバスの車窓からは、広大な高原の風景が続いている。遠くにはニェンチェンタンラ山脈の雪峰が白く輝き、手前には黄土色の大地に点々と草を食むヤクの群れが見える。バスが進むにつれて、徐々にポタラ宮の姿が見えてきた。最初は小さな点のようだったそれが、次第に威厳のある宮殿の全容を現す瞬間は、まさに感動的だった。
昼前にホテルにチェックインを済ませ、まずは高山病対策として部屋でしばらく休息を取る。窓からはバルコル (八廓街) の賑わいが聞こえてくる。太鼓の音、鈴の音、そして巡礼者たちの足音が混じり合った、この街特有のリズムだった。
午後、いよいよ街歩きを始めた。まずはジョカン寺 (大昭寺) を目指す。バルコルの石畳を歩いていると、五体投地をしながら聖地を巡る巡礼者たちとすれ違う。木製の手板を着けた手が石畳を叩く音が、規則正しく響いている。その信仰の深さに、思わず足を止めて見入ってしまった。
ジョカン寺の前の広場は、まさに信仰の中心地だった。金色の屋根が午後の陽光を受けて輝き、寺院の前では絶えることなく巡礼者たちが五体投地を繰り返している。寺院内部に入ると、薄暗い回廊にヤクバターの酥油燈が無数に灯され、仏像の前で祈りを捧げる人々の姿があった。ここには1300年以上前から続く祈りの時間が、今もなお流れ続けている。
夕方、バルコルを一周してみることにした。巡礼路を時計回りに歩く人々の流れに身を任せる。土産物屋、茶館、食堂が軒を連ね、そこここからバター茶の香りが漂ってくる。ターコイズ色のアクセサリーや色とりどりの経幡、真鍮のマニ車などが店先に並び、見ているだけで時間を忘れてしまう。
老婆が経文を唱えながら大きなマニ車を回している姿に出会った。皺に刻まれた優しい笑顔で軽く会釈をしてくれる。言葉は通じないけれど、その温かさは確かに伝わってきた。
夜は伝統的なチベット料理の店で夕食を取った。モモ (餃子) は皮がもちもちしていて、中には香辛料の効いたヤクの肉がたっぷり詰まっている。そして何よりバター茶の味が印象的だった。最初は塩辛いお茶に戸惑ったが、高原の乾燥した空気の中では、この塩分と脂肪分が体に染み渡るように感じられる。
ホテルに戻る道すがら、夜のポタラ宮を見上げた。ライトアップされた宮殿は昼間とはまた違った荘厳さを漂わせ、星空を背景にそびえ立っている。ラサでの最初の夜は、この幻想的な風景とともに静かに更けていった。

2日目: 宮殿と湖に抱かれて
朝の空気は澄み切っていて、深呼吸をすると肺の奥まで清々しさが届く。昨日よりも高度に慣れたのか、体調も良好だった。今日はいよいよポタラ宮を訪れる日だ。
朝食はホテルで簡単に済ませ、早めにポタラ宮へ向かった。宮殿の麓から見上げる建物は、想像以上に巨大で威圧的だった。白と赤の外壁が朝日を受けて美しく映え、頂上の金色の屋根が青空に映えている。117メートルの高さに建つこの宮殿は、まさに天空の宮殿という名にふさわしい。
入場券を受け取り、いよいよ宮殿内部へ。石段を一歩一歩登りながら、ダライ・ラマが住まわれていた当時に思いを馳せる。各部屋には金銀で装飾された仏像や仏画が並び、特に歴代ダライ・ラマの霊塔が安置された部屋は、その荘厳さに息を呑んだ。窓からはラサの街が一望でき、遠くには先日通った空港への道筋も見える。
宮殿の見学を終えると、もう昼過ぎになっていた。近くの茶館で一息つくことにした。地元の人々に混じってバター茶を飲みながら、窓の外を行き交う人々を眺める。学校帰りの子どもたちが民族衣装を着て歩いている姿や、買い物かごを下げた女性たちの姿が、この街の日常を物語っていた。
午後はナムツォ湖への日帰りツアーに参加した。ラサから車で約4時間、標高4,718メートルに位置するこの湖は、チベット三大聖湖の一つとして知られている。道中、高原の風景は次第に変化し、草原地帯から岩山、そして雪山へと移り変わっていく。
ナムツォ湖に到着した瞬間、その美しさに言葉を失った。真っ青な湖面が地平線まで続き、まるで空がそのまま地上に降りてきたかのようだった。湖畔にはカラフルな経幡がはためき、風の音以外には何も聞こえない完全な静寂が広がっている。この静けさの中で、自分の心音がやけに大きく聞こえた。
湖畔を歩いていると、遊牧民の家族に出会った。ヤクを放牧している若い男性が、片言の中国語で湖の美しさについて語ってくれる。彼の目は湖と同じように澄んでいて、この土地への深い愛情が感じられた。
夕方、ラサへの帰路につく。車窓から見る夕焼けは、高原特有の鮮やかなオレンジ色で空全体を染めていた。ナムツォ湖の青い記憶と夕焼けの暖色が心の中で混じり合い、この一日の体験をより深いものにしてくれた。
ラサに戻ると、夜のバルコルを再び歩いてみた。昨夜とは違って、今度は巡礼者の気持ちになって一歩一歩を大切に歩く。マニ車を回し、経文を唱える人々の列に自然と加わっていた。宗教や文化の違いを超えて、何か共通するものを感じている自分がいた。
夕食は昨日とは違う食堂で、トゥクパ (うどんのような麺料理) とヤクの焼肉を注文した。トゥクパの澄んだスープは体を温めてくれ、ヤクの肉は想像していたよりもあっさりとしていて食べやすかった。一緒に出されたツァンパ (大麦粉) は、バター茶と混ぜて食べるのが正しい作法だと隣席の地元客が教えてくれた。
今夜は昨夜よりもぐっすりと眠れそうだった。ナムツォ湖の青い静寂と、ポタラ宮の荘厳さが、心の奥で静かに響いている。
3日目: 別れの朝に抱く想い
最後の朝は、いつもより早く目が覚めた。窓の外はまだ薄暗いが、遠くの山々の稜線がうっすらと見え始めている。今日でラサともお別れだと思うと、なんとも言えない寂しさがこみ上げてきた。
朝食前に、もう一度バルコルを歩いてみることにした。早朝のバルコルは昼間とは全く違う表情を見せていた。店はまだ開いていないが、すでに五体投地をしながら巡礼路を歩く人々の姿がある。朝の読経が寺院から聞こえ、その声に混じって早起きの鳥たちのさえずりも聞こえてくる。
ジョカン寺の前では、酥油燈に火を灯す僧侶の姿があった。薄暗い中で揺らめく炎の光が、寺院の金色の装飾を美しく照らしている。このような朝の光景を見ることができたのは、早起きした甲斐があったと思った。
ホテルに戻って朝食を取り、チェックアウトの準備を始める。荷物をまとめながら、この3日間で心に刻まれた数々の場面を思い返していた。ポタラ宮の威容、ナムツォ湖の静寂、巡礼者たちの祈り、そして地元の人々の温かい眼差し。
午前中は最後の街歩きに出かけた。まだ行っていなかった小さな寺院、ラモチェ寺を訪れてみる。ここはジョカン寺ほど大きくはないが、地元の人々に愛され続けている静かな寺院だった。境内では老人たちがマニ車を回しながら談笑している光景があり、この街の日常的な信仰の姿を垣間見ることができた。
最後の昼食は、3日間で一番おいしく感じられた。シャパレ (チベット風の肉まん) とスージャ (甘いミルクティー) の組み合わせは、高原の旅の疲れを癒してくれる優しい味だった。食堂の女主人が「また来てね」と片言の日本語で声をかけてくれたときは、胸が熱くなった。
午後は空港へ向かう時間だった。ラサの街を後にするバスの中から、最後にもう一度ポタラ宮を眺める。その姿は来たときと変わらず堂々としているが、3日前とは全く違って見えた。もはや単なる観光地の建物ではなく、この土地の魂そのもののような存在として心に刻まれていた。
空港への道中、車窓から見える風景の一つ一つが愛おしく感じられた。放牧されているヤクの群れ、風にはためく経幡、遠くの雪山―すべてがこの3日間の記憶と結びついて、特別な意味を持って迫ってきた。
ゴンガル空港に到着し、搭乗手続きを済ませる。待合室から滑走路を眺めていると、高原の強い日差しが地面を照らしている光景が目に入った。この光、この空気、この静寂を、果たして忘れることができるだろうか。
飛行機が離陸し、ラサの街が次第に小さくなっていく。窓の下にはヒマラヤの峰々が連なり、その向こうには広大な高原が続いている。この雄大な風景を眺めながら、ラサで過ごした3日間は決して長くはなかったが、自分の中で確実に何かが変わったことを実感していた。それは信仰心というよりも、もっと根源的な、人間として大切な何かを思い出させてくれたような感覚だった。
空想でありながら確かに感じられたこと
この旅は空想の産物でありながら、まるで実際に歩いた道のように心に残っている。ラサの石畳の感触、バター茶の塩辛い味、高原の薄い空気、そしてポタラ宮から見下ろした街の風景―すべてが今でも鮮明に思い出すことができる。
空想の旅だからこそ感じられたのかもしれないが、この3日間は単なる観光以上の意味があったように思う。それは、異文化との出会いを通じて自分自身と向き合う時間でもあった。巡礼者たちの信仰心に触れ、ナムツォ湖の静寂に包まれ、地元の人々の温かさに触れることで、日常では忘れがちな大切なことを思い出させてもらった。
チベットという聖地が持つ力は、物理的にそこを訪れることだけでなく、心でその場所を感じることでも体験できるのかもしれない。空想の旅であっても、その土地への敬意と好奇心を持って想像を巡らせることで、確かな体験として心に刻まれる。
ラサで出会った人々の笑顔、響き続ける読経の声、風にはためく経幡―これらすべてが、空想でありながら確かにあったように感じられる旅の記憶として、今も心の中で生き続けている。

