はじめに: 七つの丘の白い街
リスボンは、七つの丘に築かれた美しい街だ。テージョ川の河口に位置し、大西洋への玄関口として栄えてきた。白い壁とオレンジ色の屋根瓦が織りなす風景は、地中海の光に包まれて輝いている。
この街には、大航海時代の栄光と哀愁が静かに息づいている。ヴァスコ・ダ・ガマが旅立ち、無数の冒険家たちが夢を託した港町。アフリカやアジア、南米との交易によって繁栄を極めたが、1755年の大地震によって多くが失われた。しかし、そこから復興した街並みは、かえって独特の美しさを獲得したのだった。
ファド (Fado) という哀愁に満ちた音楽が生まれたのも、この街の複雑な歴史と関係している。ポルトガル語の「運命」を意味するファドは、郷愁や別れの痛みを歌い、聴く者の心に深く響く。アズレージョと呼ばれる青い装飾タイルは、街角や建物の壁面を美しく彩り、イスラム文化の影響を今に伝えている。
そして何より、リスボンの人々の穏やかで人懐っこい性格が、この街の魅力を一層深めている。急ぐ必要などどこにもない、そんな時間の流れの中で、私は2泊3日の旅を始めることにした。
1日目: 黄色い路面電車と石畳の調べ
成田からの長いフライトを終え、リスボン・ウンベルト・デルガード空港に降り立ったのは現地時間の午前9時頃だった。6月下旬の朝の空気は爽やかで、日本の梅雨時とは対照的な乾いた風が頬を撫でていく。地下鉄レッドラインでアラメダ駅まで向かい、そこからグリーンラインに乗り換えてバイシャ・シアード駅へ。荷物を預けるためにホテルに向かった。
バイシャ地区の石畳を歩きながら、この街の独特な雰囲気に包まれていく。建物の多くは18世紀の大地震後に再建されたもので、統一感のある美しい街並みを形成している。ロシオ広場に面したホテルにチェックインを済ませ、いよいよリスボン散策の始まりだ。
午前中は、まずシアード地区を歩いてみることにした。石畳の坂道を上がりながら、黄色い路面電車28番が軋みながら通り過ぎていく音を聞いている。この音は、リスボンという街の心臓の鼓動のようだった。途中で見つけた小さなパステラリア (パン屋兼カフェ) に立ち寄り、ポルトガル名物のパステル・デ・ナタ (エッグタルト) とビカ (エスプレッソ) を注文した。
パステル・デ・ナタは表面がこんがりと焼けて、中はとろりとしたカスタードクリームが絶妙だった。シナモンパウダーを少し振りかけて一口頬張ると、素朴でありながら深い味わいが口の中に広がる。店主のおじいさんは片言の英語で「美味しいか?」と声をかけてくれ、私が「ムイト・ボン (とても美味しい) 」と答えると、嬉しそうに微笑んだ。
午後は、サン・ジョルジェ城へ向かった。28番の路面電車に揺られながら、窓外に流れる街並みを眺めていると、リスボンの日常風景が次々と現れる。洗濯物を干すベランダ、路地で井戸端会議をするおばあさんたち、サッカーボールを蹴る少年たち。観光地というより、人々が普通に暮らしている街なのだと実感する。
サン・ジョルジェ城からの眺めは圧巻だった。オレンジ色の屋根瓦が幾重にも重なり、遠くにテージョ川の青い水面が光っている。4月25日橋が霞の向こうに見え、対岸のアルマダの街並みも美しかった。城壁に腰掛けて、しばらくその風景に見とれていた。風が吹くたびに、遠くから教会の鐘の音が聞こえてくる。
夕方からは、アルファマ地区を歩いた。迷路のような細い路地が続き、まるで中世にタイムスリップしたような感覚になる。白い壁にアズレージョが美しく映え、小さな窓からは夕食の支度をする家庭の香りが漂ってくる。オリーブオイルとニンニクの香り、焼き魚の匂い。生活の息づかいが感じられる瞬間だった。
夜は、ファドを聴きに小さなファド・ハウスに足を向けた。薄暗い店内で、黒い服を着た女性歌手が哀愁に満ちた歌声を響かせる。ポルトガル語は分からないが、メロディーと表情から、故郷への想いや失恋の痛みが伝わってくる。観客は皆、静かに聴き入っていた。
伴奏のギターラ・ポルトゲーザ (ポルトガル・ギター) の繊細な音色が、歌声に寄り添うように響く。一曲終わるごとに、観客から静かな拍手が起こった。隣のテーブルの初老の男性が目を潤ませているのを見て、ファドがいかにポルトガル人の心に深く根ざした音楽なのかを理解した。
ファド・ハウスで飲んだヴィーニョ・ヴェルデ (微発泡ワイン) は、軽やかで喉越しが良く、この街の夜にぴったりだった。バカリャウ (干し鱈) のコロッケも絶品で、外はカリッと中はホクホクとした食感が楽しめた。
ホテルに戻る頃には夜も更けていたが、石畳に響く自分の足音を聞きながら、リスボンという街の懐の深さを感じていた。初日にして、すでにこの街の虜になりつつあった。
2日目: 海風と修道院の静寂に包まれて
朝は、ホテル近くのカフェで簡単な朝食を取った。トスタ・ミスタ (ハムとチーズのホットサンド) とガラォン (カフェオレ) で一日を始める。ポルトガルの朝食は質素だが、素材の味がしっかりしていて満足感がある。
この日は少し足を伸ばして、ベレン地区を訪れることにした。路面電車15番に乗り、テージョ川沿いを西へ向かう。車窓からは川の向こう岸の景色が美しく、朝の光が水面をキラキラと照らしていた。
最初に訪れたのは、ジェロニモス修道院だった。16世紀初頭に建てられたこの修道院は、マヌエル様式の最高傑作と呼ばれている。海洋をモチーフにした装飾が随所に施され、大航海時代のポルトガルの栄華を物語っている。回廊を歩きながら、500年前の修道士たちも同じ石畳を踏んでいたのだと思うと、時の流れの不思議を感じずにはいられなかった。
修道院の中庭は静寂に包まれていて、噴水の水音だけが響いている。アーチ型の回廊に囲まれた中庭で、しばらく石のベンチに座って瞑想のような時間を過ごした。観光客の話し声が遠くから聞こえるが、この空間だけは別世界のような静けさが保たれていた。
午前中の終わりには、すぐ近くのベレンの塔を見学した。テージョ川に突き出すように建つこの塔は、大航海時代に船舶の出入りを監視する要塞として機能していた。塔の上からは川の向こう岸まで一望でき、ヴァスコ・ダ・ガマもここから出航したのかと思うと、感慨深いものがあった。
昼食は、ベレン地区にある有名なパステイス・デ・ベレンで本場のパステル・デ・ナタを味わった。1837年創業のこの店は、修道院で作られていたレシピを受け継いでいるという。焼き立てのパステル・デ・ナタは、昨日食べたものとはまた違った深い味わいがあった。カスタードクリームがより滑らかで、パイ生地も軽やか。地元の人々も列を作って買い求める人気ぶりで、ポルトガル人にとってこの菓子がいかに大切な存在かがよく分かった。
午後は、少し冒険をしてカスカイスまで足を伸ばすことにした。ベレン駅から近郊電車に乗り、大西洋沿いを走る約40分の電車旅。車窓から見える景色は、内陸のリスボンとは全く違った開放感に満ちていた。
カスカイスに到着すると、潮風が心地よく頬を撫でていく。この小さな海辺の町は、19世紀末から王室の避暑地として栄えた歴史を持つ。メインストリートを歩きながら、おしゃれなカフェやブティックを眺めていると、リゾート地らしい洗練された雰囲気を感じることができた。
海岸沿いの遊歩道を歩きながら、大西洋の雄大な景色を眺めた。波が岩場に打ち寄せる音を聞いていると、この先には何もない大海原が広がっているのだという事実に改めて圧倒される。地元の漁師たちが釣りをしている姿や、犬を散歩させる人々の姿が、日常的な海辺の風景を演出していた。
カスカイス滞在中に立ち寄ったマリスケイラ (シーフードレストラン) では、アロス・デ・マリスコ (海鮮リゾット) を注文した。エビ、ムール貝、アサリなどがたっぷりと入ったリゾットは、海の恵みを存分に味わえる一品だった。パプリカで色付けされた黄色いご飯が美しく、レモンを絞って食べると、さらに爽やかな味わいになった。
夕方の電車でリスボンに戻る頃には、一日の疲れが心地よく体に残っていた。車窓から夕陽に染まるテージョ川を眺めながら、ポルトガルという国の多様性を改めて実感していた。歴史ある修道院と現代的なリゾート地、内陸の丘陵地帯と大西洋の海岸線。短い距離の中に、これほど多彩な表情を持つ国は珍しいだろう。
夜は、バイロ・アルト地区でディナーを楽しんだ。石畳の坂道に小さなレストランやバーが軒を連ねるこの地区は、リスボンの夜の顔と言える場所だ。選んだタスカ (大衆酒場) では、ビフィーナ (ポルトガル風ステーキサンド) とヴィーニョ・ティント (赤ワイン) を注文した。
店主のおじさんは陽気な人で、片言の英語を交えながら料理の説明をしてくれた。「このワインはアレンテージョ地方で作られた」「ビフィーナには特製のソースを使っている」など、料理への愛情が伝わってくる説明だった。近くのテーブルでは地元の若者たちが楽しそうに談笑しており、彼らの会話からもポルトガル語の響きの美しさを感じることができた。
ホテルに向かう夜道で、今日一日を振り返ってみた。修道院の静寂、海辺の開放感、そして夜の街の賑わい。リスボンという街は、一つの顔だけでは語れない複雑さと豊かさを持っていた。
3日目: 別れの朝に響く市場の喧騒
最終日の朝は、リベイラ市場 (メルカード・ダ・リベイラ) を訪れることにした。テージョ川沿いにあるこの市場は、最近改装されてタイムアウト・マーケットという名前でも知られている。様々な食材や料理が集まる、リスボンの台所とも言える場所だ。
市場の中は活気に満ちていた。新鮮な魚介類、色とりどりの野菜や果物、手作りのパンやチーズなど、ポルトガルの食文化の豊かさを一度に体験できる空間だった。魚屋の親父さんが大きな声で客を呼び込み、野菜売りのおばさんが常連客と世間話をしている。そんな日常的な風景の中に、旅人として混じっていることの心地よさを感じていた。
朝食には、市場で買った焼きたてのパォン・デ・アスーカル (砂糖パン) とフレッシュなオレンジジュースを選んだ。パンは外側がカリッとしていて中は柔らかく、ほんのりとした甘さが朝の胃に優しかった。オレンジジュースは搾りたてで、南欧の太陽をたっぷりと浴びた果実の味がした。
市場の一角で、アズレージョの小さな工房を見つけた。職人のおじいさんが一枚一枚丁寧に絵付けをしている姿を見ながら、この伝統工芸の奥深さを感じた。青い絵の具で描かれた船や花の模様は、どれも手作りの温かみがあった。記念に小さなタイルを一枚購入すると、おじいさんは新聞紙で丁寧に包んでくれた。
午前中の最後には、国立アズレージョ美術館を訪れた。16世紀から現代までのアズレージョの変遷を見ることができるこの美術館は、ポルトガル文化の一面を深く理解するのに最適な場所だった。壁一面を覆う巨大なアズレージョパネルには、リスボンの歴史や宗教的な場面が美しく描かれている。
特に印象的だったのは、1755年の大地震以前のリスボンの街並みを描いたパネルだった。現在とは全く異なる建物の配置や、テージョ川の船舶の様子など、失われた街の記憶が青いタイルの中に永遠に保存されている。歴史の重みと美術の力を同時に感じることができる、貴重な体験だった。
昼食は、アルファマ地区の小さなレストランで最後のポルトガル料理を味わった。カルデイラーダ (魚介の煮込み) を注文すると、大きな土鍋に入った豪快な料理が運ばれてきた。魚、エビ、ジャガイモ、玉ねぎなどがトマトベースのスープで煮込まれ、海の幸と大地の恵みが一つになった温かい料理だった。
パンを浸しながら食べるスープは、家庭的な優しさに満ちていた。隣のテーブルでは三世代の家族が楽しそうに食事をしており、おばあさんが孫に何かを教えている光景が微笑ましかった。ポルトガルの人々の家族を大切にする文化が、こんな何気ない場面から伝わってくる瞬間だった。
午後は、ホテルに戻って荷造りをした後、最後の散歩に出かけた。ロシオ広場からコメルシオ広場まで、この3日間で何度も歩いた道を、今度は別れを惜しむような気持ちで歩いた。街角で見かけた顔なじみの人々、いつものように響く路面電車の音、石畳に反射する午後の光。全てが記憶の中に深く刻まれていく。
コメルシオ広場のカフェで最後のビカを飲みながら、テージョ川を眺めていた。川面を渡る風が頬を撫でていくたびに、この街での3日間の記憶が蘇ってくる。初日の緊張と期待、2日目の発見と驚き、そして今日の充実感と名残惜しさ。短い時間だったが、リスボンという街の一部になったような気持ちだった。
夕方の便で日本に向けて出発する時間が近づいてきた。空港への電車の中で、窓外に流れる風景を最後まで目に焼き付けようとした。オレンジ色の屋根瓦、白い壁、そして遠くに見えるテージョ川の青い水面。これらの色彩は、きっと一生忘れることはないだろう。
搭乗口で振り返ると、リスボンの街明かりが薄暮の中に輝いているのが見えた。ファドの哀愁に満ちたメロディーが心の中で響き、この街で出会った人々の笑顔が記憶の中に蘇る。わずか2泊3日の旅だったが、ポルトガルという国の温かさと美しさを、確実に心に刻むことができた旅だった。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この旅は、私の想像の中で繰り広げられた空想の旅である。しかし、リスボンの石畳を歩く足音も、ファドの歌声も、パステル・デ・ナタの甘い香りも、全てが確かに存在したかのように心に残っている。
旅の記憶とは不思議なものだ。実際に体験したことと、想像の中で思い描いたことが、時間が経つにつれて曖昧になっていく。そして最後に残るのは、その場所で感じた感情や印象の断片だ。温かい人々との出会い、美しい風景への感動、異文化への理解と尊敬。これらの感情は、実体験であろうと空想であろうと、等しく価値のあるものだと思う。
リスボンという街の魅力は、その歴史の重層性と現代性の絶妙なバランス、そして何より住む人々の人間的な温かさにあった。大航海時代の栄光と挫折、地震からの復興、そして現代へと続く文化の継承。これらすべてが調和して、独特の美しさを生み出している。
ファドの歌声に込められた郷愁、アズレージョの青い美しさ、海の幸と大地の恵みが織りなす豊かな食文化。ポルトガルという国の魅力を、この短い空想の旅を通じて少しでも感じ取ることができたなら、それは幸いなことだ。
いつか本当にリスボンの街を歩く日が来たとき、この空想の記憶がきっと旅をより豊かなものにしてくれるだろう。石畳に響く足音、路面電車の軋む音、テージョ川を渡る風の感触。これらすべてが、空想でありながら確かにあったように感じられる旅の記憶として、心の奥深くに刻まれている。