はじめに
フォイル川のほとりに広がるロンドンデリー、地元の人々が愛を込めて「デリー」と呼ぶこの街は、北アイルランドで二番目に大きな都市でありながら、どこか親しみやすい温かさを湛えている。17世紀初頭に築かれた城壁が今なお完全な形で残る、ヨーロッパでも稀有な城塞都市だ。
この街の魅力は、単なる歴史的建造物の美しさにとどまらない。アイルランド島の最北西部に位置し、大西洋の荒々しい風を受けながらも、フォイル川の穏やかな流れに守られるように佇んでいる。ケルト文化とスコットランド系プランター文化が混じり合い、複雑な歴史を刻みながらも、今は平和と希望に満ちた街として生まれ変わっている。
街の中心部を囲む城壁の上を歩けば、そこから見渡せるのは緑豊かな丘陵地帯と、どこまでも続く青い空。そして何より印象的なのは、街角で出会う人々の人懐っこい笑顔と、訛りの強い英語に混じって聞こえてくるゲール語の響きだ。
1日目: 城壁に包まれた街への扉
ベルファストから列車で2時間ほど、車窓から見える風景が次第に牧歌的になっていくのを眺めながら、私はロンドンデリー駅へと向かった。駅に降り立つと、すぐに感じたのは空気の清々しさだった。海からの風が運んでくる塩の香りと、遠くの丘陵から漂ってくる草の匂いが混じり合って、都市とは思えないほど澄んだ空気に包まれている。
宿泊先のゲストハウスは、城壁内の静かな石畳の通りに面した18世紀建築の建物だった。赤煉瓦と白い窓枠のコントラストが美しく、玄関先には色とりどりの花が植えられた小さな庭がある。オーナーのシェイマスさんは60代の穏やかな男性で、チェックインの際に「デリーは初めてか?」と訛りの強い英語で尋ねながら、手作りの地図に親切にも見どころを書き込んでくれた。
昼食は城壁近くの小さなカフェで。アイリッシュ・シチューを注文すると、大きなボウルに羊肉と根菜がたっぷりと入った温かなシチューが運ばれてきた。付け合わせのソーダ・ブレッドは外側がカリッとしていて中はしっとり、バターをたっぷりと塗って食べると、その素朴で力強い味に心が満たされた。
午後は街の象徴である城壁を歩いた。全長約1.5キロメートルの城壁は、400年以上の時を経てもなお堅固で美しく、歩いていると時の流れが止まったような不思議な感覚に包まれる。城壁の上からは、フォイル川の向こうに広がるボグサイド地区が見渡せた。かつては紛争の舞台となった場所も、今は色鮮やかな壁画で彩られ、平和への願いを静かに語りかけている。
夕方、セント・コラムズ・カテドラルを訪れた。17世紀に建てられたプロテスタントの大聖堂は、アイルランドで最初に建設された大聖堂として知られている。夕日が差し込むステンドグラスが作り出す光と影の美しさに、しばらく息を忘れて見入ってしまった。静寂の中で響く鐘の音が、一日の終わりを告げるように街全体に響き渡る。
夜は地元のパブ「The Gweedore Bar」へ。店内は薄暗い照明に照らされた木の内装が温かく、地元の人々が集まって談笑している。ギネスを一杯注文すると、バーテンダーのパディさんが「旅行者か?デリーはどうだ?」と話しかけてくれた。彼の話によると、この街は音楽の街でもあり、多くの有名なミュージシャンを輩出しているのだという。実際、店の奥からはフィドルとホイッスルの美しい音色が聞こえてきて、数人の地元住民が即興でセッションを始めていた。
その夜、ゲストハウスの小さな部屋で窓を開けると、城壁の向こうから聞こえてくる川のせせらぎと、遠くの教会の鐘の音が静かな夜を彩っていた。初日から感じていたのは、この街の持つ独特の包容力だ。歴史の重みを背負いながらも、未来への希望を失わない人々の温かさが、街全体を包み込んでいるように感じられた。
2日目: 川と丘陵、そして音楽の調べ
朝、ゲストハウスの食堂で伝統的なアルスター・フライを味わった。ベーコン、ソーセージ、目玉焼き、ブラック・プディング、そして焼いたトマトにマッシュルームが一皿に盛られた、まさにアイルランドの朝食だ。シェイマスさんの奥さんメアリーさんが淹れてくれた紅茶は、濃厚でありながら後味がすっきりとしていて、朝の体に染み渡るようだった。
午前中はフォイル川沿いを散策した。川岸に設けられた遊歩道を歩いていると、対岸のウォーターサイド地区の美しい景色が広がる。川面に映る空の青さと、両岸を彩る緑の美しさは、まるで一枚の絵画のようだった。途中で出会った年配の女性が「この川は私たちの誇りなのよ」と話してくれた。確かにフォイル川は、この街の人々にとって単なる地理的境界ではなく、生活の一部であり、心の支えでもあるのだと感じられた。
ピース・ブリッジを渡って対岸へ。この美しい歩行者専用橋は2011年に開通したもので、文字通り「平和の橋」として、かつて分断されていた地域を結んでいる。橋の上から見下ろすフォイル川の流れは穏やかで、水鳥たちが優雅に泳いでいる姿が心を和ませてくれた。
昼食は川沿いのレストランで、地元で獲れた新鮮なサーモンのグリルを注文した。付け合わせのコルカノン (ジャガイモとキャベツを混ぜ合わせた伝統料理) は、シンプルながら深い味わいで、この土地の豊かさを感じさせてくれた。デザートのアップル・タルトは、酸味の効いたリンゴとサクサクのパイ生地の組み合わせが絶妙で、濃厚なクリームと一緒にいただくと、幸せな気持ちで満たされた。
午後は市内から少し足を延ばして、近郊の丘陵地帯へ向かった。タクシーの運転手マイケルさんは生粋のデリー生まれで、道中ずっと街の歴史や文化について語ってくれた。「この丘から見る夕日は格別だよ」という彼の言葉通り、丘の上からの眺望は息を呑むほど美しかった。眼下に広がる街並み、その向こうに続く緑の丘陵、そして遠くに霞んで見える大西洋の水平線。風は少し冷たかったが、その爽やかさが心地よく、しばらくその場に佇んでいた。
夕方、街に戻ってアート・センターを訪れた。地元のアーティストたちの作品が展示されており、その多くが街の歴史や文化をテーマにしたものだった。特に印象的だったのは、城壁をモチーフにした抽象画で、過去と現在、そして未来への希望が巧みに表現されていた。センターのスタッフの若い女性エイメさんが、作品について丁寧に説明してくれ、地元アーティストたちの情熱を感じることができた。
夜は「Sandino’s Café Bar」で夕食を。この店は政治的・宗教的な垣根を越えて多くの人々に愛されている場所で、壁には平和を願うメッセージが書かれたポスターが貼られている。フィッシュ・アンド・チップスを注文すると、サクサクの衣に包まれた白身魚とふっくらとしたチップスが運ばれてきた。モルトビネガーをかけて食べると、素朴でありながら深い満足感を与えてくれる味だった。
その夜も再び音楽に出会った。別のパブでは地元の若いミュージシャンたちがオリジナル曲を演奏していて、伝統的なアイリッシュ音楽に現代的な要素を加えた新しいスタイルが印象的だった。音楽が人々を結び、世代を超えた交流を生み出している様子を見ていると、この街の文化的な豊かさを改めて実感した。
3日目: 記憶に刻まれる別れの朝
最終日の朝は、いつもより早く目が覚めた。窓の外はまだ薄暗く、街全体が静寂に包まれている。朝食前にもう一度城壁を歩いてみようと思い、ゲストハウスを出た。朝靄の中を歩く城壁は、昨日までとはまた違った表情を見せていた。霧に霞む街並みは幻想的で、まるで別の時代に迷い込んだような錯覚を覚える。
早朝の街で出会ったのは、ジョギングをする地元の人々と犬の散歩をする住民たちだった。挨拶を交わすたびに「Good morning!」と返してくれる温かさが、この街の人々の人柄を物語っている。城壁の一角にあるベンチに座り、ゆっくりと明けていく空を眺めながら、この2日間で感じたことを静かに振り返った。
朝食後、チェックアウトを済ませてから、まだ訪れていなかったギルドホールへ向かった。1890年に建てられたこのネオ・ゴシック様式の建物は、街のランドマークの一つで、美しいステンドグラスで有名だ。ホール内部のステンドグラスは、アイルランドの歴史と文化を物語る場面が色鮮やかに描かれており、朝の光が差し込むと、まるで宝石のように輝いて見えた。
その後、セント・ユージーン大聖堂を訪れた。こちらはカトリックの大聖堂で、高くそびえる尖塔が印象的だ。内部の厳かな雰囲気の中で、しばらく静寂の時を過ごした。宗教や宗派を超えて、人々が平和を願う気持ちは同じなのだということを、改めて感じることができた。
昼食は駅近くのカフェで軽めに。アイリッシュ・コーヒーを飲みながら、この3日間で撮った写真を眺めていると、一枚一枚に込められた思い出が蘇ってくる。カフェの窓から見える街の風景も、もうすぐ別れなければならないと思うと、一層愛おしく感じられた。
列車の時間が近づき、ゲストハウスに荷物を取りに戻ると、シェイマスさんとメアリーさんが玄関で見送ってくれた。「また必ず戻っておいで」というメアリーさんの言葉に、思わず胸が熱くなった。彼らのような温かい人々との出会いが、この旅を特別なものにしてくれたのだと思う。
駅へ向かう道すがら、もう一度だけ振り返って街を見渡した。城壁に囲まれた美しい街並み、フォイル川の穏やかな流れ、そして丘陵地帯へと続く緑豊かな風景。すべてが記憶の中に鮮明に刻まれている。
列車が動き出すと、窓の外に流れていく風景を見ながら、この3日間で体験したすべてが心の中で一つの物語として結ばれていくのを感じた。ロンドンデリーという街は、単なる観光地ではなく、生きている歴史そのものだった。そしてその中で出会った人々の温かさは、遠く離れた場所にいても、いつまでも心の支えとなってくれるだろう。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この北アイルランド・ロンドンデリーへの2泊3日の旅は、実際には行くことのできない空想の旅であった。しかし、文字を通して描かれた風景、人々との出会い、食事の味わいは、まるで本当に体験したかのように心に残っている。
旅というものの本質は、新しい場所を訪れることだけではなく、そこで感じる感動や発見、人とのつながりにあるのかもしれない。たとえ空想の中であっても、その土地の歴史に思いを馳せ、文化に触れ、人々の温かさを感じることで、私たちの心は確実に豊かになる。
ロンドンデリーの城壁が400年の時を超えて今も残っているように、この空想の旅で得た感動も、きっと長く心の中に残り続けることだろう。そしていつか機会があれば、この記憶を確かめるために、本当にその地を訪れてみたいと思う。
空想でありながら、確かにあったように感じられる旅。それこそが、想像力が私たちに与えてくれる最も美しい贈り物なのかもしれない。