はじめに
地中海の宝石と呼ばれるモナコ公国。フランスとイタリアに挟まれた世界で二番目に小さな国家は、わずか2平方キロメートルの中に、贅沢と優雅さが凝縮されている。グリマルディ家が700年以上にわたって統治するこの公国は、モンテカルロの華やかなカジノ、F1モナコグランプリが駆け抜ける街角、そして地中海の青い海に映える白い建物群で知られている。
岩山の上に築かれた旧市街モナコ・ヴィルから、港町ラ・コンダミーヌ、そして現代的なモンテカルロまで、小さな国土の中に異なる表情を持つ街が点在する。プロヴァンス地方の温暖な気候に恵まれ、一年を通して花々が咲き誇り、特にバラやブーゲンビリアが街角を彩る。
この国を訪れる人々は、王室の歴史と現代的な洗練が調和した独特の雰囲気に魅了される。フランス語が公用語でありながら、モナコ語という独自の言語も残され、多様な文化が息づいている。二泊三日という短い滞在でありながら、この小さな公国が持つ魅力の深さを感じ取れる旅になることを願いながら、私は成田空港からパリ経由でニース・コート・ダジュール空港へと向かった。
1日目: 地中海に浮かぶ宝石への到着
午前中にニース空港に降り立った私は、バスでモナコへと向かった。コート・ダジュールの海岸線を辿る道のりは、まさに絵葉書のような美しさだった。紺碧の地中海が右手に広がり、左手には石灰岩の断崖が続く。約45分の道のりを経て、ついにモナコの国境を越えた瞬間、空気が変わったような気がした。
モナコ・ヴィル駅から徒歩でホテルへ向かう途中、初めて目にしたモナコの街並みは想像以上にコンパクトで美しかった。建物は白やベージュを基調とし、赤い瓦屋根が地中海の青と見事に調和している。街路樹のヤシの木が南国の雰囲気を演出し、石畳の道には歴史の重みが感じられた。
チェックインを済ませた後、まずは腹ごしらえにと街を歩いた。午後の陽射しが温かく、カフェのテラス席で地元の人々がゆったりと時間を過ごしている様子が印象的だった。小さなビストロで、ニースサラダとパン・バニャを注文した。トマト、アンチョビ、オリーブ、ハードボイルドエッグが美しく盛られたサラダは、地中海の恵みを一皿に凝縮したようだった。パン・バニャは、丸いパンにトマト、アンチョビ、オリーブオイルを挟んだ郷土料理で、シンプルながら素材の旨味が際立っていた。
午後は、モナコ大聖堂を訪れた。正式名称をサン・ニコラ大聖堂というこの教会は、19世紀後半に建てられたロマネスク・ビザンチン様式の美しい建物だった。白い石造りの外観は地中海の強い陽射しに映え、内部のステンドグラスが作り出す色とりどりの光が神秘的な雰囲気を醸し出していた。ここには、映画女優からモナコ公妃となったグレース・ケリーが眠っている。彼女の墓前で手を合わせていると、一人の老婦人が「彼女は本当に美しい方でした」と英語で話しかけてきた。短い会話だったが、モナコの人々のグレース公妃への深い愛情を感じることができた。
夕方、旧市街モナコ・ヴィルを散策した。王宮広場からの眺望は息をのむほど美しく、眼下にはモナコ港、遠くにはフランスの海岸線まで見渡すことができた。衛兵交代式の時間には間に合わなかったが、王宮の前に立つだけでも、700年の歴史を持つグリマルディ家の威厳を感じることができた。
夜は、港町ラ・コンダミーヌで夕食を取った。小さなレストランで注文したブイヤベースは、地中海の魚介をふんだんに使った郷土料理の傑作だった。サフランの香りが食欲をそそり、魚の出汁が効いたスープは体の芯まで温めてくれた。ワインはコート・ド・プロヴァンスの白を選んだ。ほのかな塩味と柑橘系の爽やかさが料理とよく合い、地中海の夕べを演出してくれた。
レストランの窓からは、夜景に照らされたモナコ港が見えた。白いヨットが整然と並ぶ様子は、昼間とはまた違った優雅さを醸し出している。食事を楽しみながら、明日の予定を考えていると、自然と期待が高まってきた。
2日目: 王宮の歴史と海洋の神秘に触れる
朝は、ホテルの朝食でクロワッサンと カフェオレから始まった。バルコニーからは地中海の穏やかな波が見え、朝の海は鏡のように静かだった。朝食後、まずは王宮を見学することにした。
午前中の王宮見学では、グリマルディ家の長い歴史に触れることができた。豪華な内装の各部屋には、代々の公爵や公妃の肖像画が飾られ、特にグレース公妃の写真が多く展示されていた。音声ガイドの日本語解説を聞きながら、王座の間、鏡の間、そして青い間を順番に見学した。青い間の壁紙は、18世紀のフランスから取り寄せられたもので、その優雅な青色は今でも鮮やかさを保っていた。
王宮の庭園からは、地中海の絶景を眺めることができた。エキゾチックガーデンに向かう途中、サボテンやアロエなどの多肉植物が南国の雰囲気を演出していた。地中海性気候の温暖さが、これらの植物を一年中青々と育てているのだろう。
午後は、世界的に有名な海洋博物館を訪れた。この博物館は、海洋学者でもあったアルベール1世によって1910年に設立されたもので、断崖の上に建つ白い建物は、まさにモナコのランドマークと呼ぶにふさわしい。
博物館の水族館は、地中海の海洋生物を中心に展示されており、特にサメの水槽は圧巻だった。透明なトンネルを歩きながら、頭上を泳ぐサメを見上げていると、まるで海の中にいるような感覚になった。熱帯の魚たちが泳ぐ水槽は色鮮やかで、子供たちの歓声が響いていた。日本人の観光客の家族連れもおり、子供が興奮して魚を指差している様子に、国境を越えた共通の感動を感じた。
博物館の上階では、海洋学の歴史や深海探査の展示を見学した。アルベール1世が使用した深海探査の機器や、採取された深海生物の標本が展示されており、海洋研究への情熱が伝わってきた。
午後の遅い時間には、モンテカルロ地区を散策した。カジノ・ド・モンテカルロの前では、高級車が次々と到着し、着飾った人々が出入りしている。私は中には入らなかったが、その建物の美しさだけでも十分に目を楽しませてくれた。ベル・エポック様式の建築は、19世紀末の華やかさを今に伝えている。
夕方、オペラ座の周辺を歩いた。モンテカルロ・オペラ座は、パリのオペラ座を設計したシャルル・ガルニエの作品で、その豪華絢爛な外観は一見の価値がある。残念ながら公演はなかったが、建物の前に立っているだけで、かつてここで繰り広げられた華やかな夜の世界に思いを馳せることができた。
夜は、ミシュランの星を持つレストランで食事をした。地中海の新鮮な魚を使った料理は、シンプルでありながら洗練されていた。前菜の海の幸のカルパッチョは、レモンとオリーブオイルで和えられ、魚の鮮度が際立っていた。メインの鯛のポワレは、プロヴァンス風のハーブで香り付けされ、付け合わせのラタトゥイユが南仏の太陽の味を運んでくれた。
ワインソムリエが選んでくれたシャサーニュ・モンラッシェの白ワインは、料理との相性が抜群だった。ほのかな樽香と豊かな果実味が、魚料理の繊細な味わいを引き立てていた。
食事の後、モナコ港の夜景を見ながらゆっくりと散歩した。港に停泊するヨットのライトが水面に映り、宝石を散りばめたような美しさだった。遠くからはカジノの賑わいが聞こえてきたが、港の周辺は静かで、地中海の夜風が心地よかった。
3日目: 別れの朝と永遠の記憶
最終日の朝は、少し早めに起きてエキゾチックガーデンを訪れることにした。朝の静寂の中、様々な種類のサボテンや多肉植物が陽の光を浴びて美しく輝いている。このガーデンは崖の斜面に作られており、地中海を見下ろしながら散策できる絶好のスポットだった。
午前中には、再び旧市街を歩き、お土産を購入した。モナコの伝統的なお菓子「Barbagiuan」は、チーズとほうれん草を包んだ揚げ物で、地元の人に愛され続けている郷土料理だ。一つ試食させてもらったが、外はサクサク、中はクリーミーで、素朴ながら美味しかった。また、モナコ公国の紋章が入った小さな陶器の皿も購入した。
午後、チェックアウトの時間まで、もう一度モナコ大聖堂を訪れた。今度は時間をかけて、内部の細部まで観察した。祭壇の後ろの美しいモザイク画は、ビザンチン様式の影響を受けており、金色の背景に描かれた聖人たちの姿が神々しく輝いている。
大聖堂の外に出ると、結婚式を挙げたばかりのカップルに出会った。新郎は黒いタキシード、新婦は純白のドレスを着て、地中海の青い海を背景に写真を撮っている。二人の幸せそうな笑顔を見ていると、この美しい場所で人生の大切な瞬間を迎えることの素晴らしさを感じた。
最後の昼食は、ラ・コンダミーヌの小さなカフェで取った。シンプルなクロック・ムッシュとサラダ、そしてカフェオレ。観光地のレストランではなく、地元の人々が日常的に利用するような場所を選んだ。隣のテーブルでは、年配のモナコ人男性二人がモナコ語で話をしていた。フランス語に似ているが、独特の響きがあり、この小さな国の文化的独立性を物語っているようだった。
午後、ニース空港へ向かうバスの時間まで、最後にモナコ港を見下ろすベンチに座った。地中海の午後の陽射しが水面に反射し、キラキラと踊っている。港には大小様々なヨットが停泊し、人々が思い思いに海の時間を楽しんでいる。
バスに乗る前に、もう一度モナコの街を振り返った。わずか2平方キロメートルの中に、これほど多くの文化と歴史、そして美しさが詰まっている国は他にないだろう。王室の優雅さ、地中海の自然の美しさ、そして人々の温かさ。短い滞在だったが、確かにこの国の魅力を感じ取ることができた。
ニース空港へ向かうバスの窓から見る地中海の夕景は、モナコでの3日間を美しく締めくくってくれた。オレンジ色に染まった空と海が一体となり、まるで絵画のような美しさだった。
最後に
この旅は空想の産物である。実際にモナコの地を踏むことも、地中海の風を感じることも、現地の人々と言葉を交わすこともなかった。しかし、不思議なことに、この2泊3日の旅は確かに私の記憶の中に刻まれている。
王宮の青い間の壁紙の色、海洋博物館の水槽で泳ぐ魚たちの鮮やかさ、ブイヤベースのサフランの香り、モナコ大聖堂のステンドグラスが作り出す光と影、そして地中海に映る夕日のオレンジ色。これらの記憶は、想像の中で体験したものでありながら、五感に訴えかける鮮明さを持っている。
空想の旅であっても、その土地の文化や歴史、人々の営みを知ることで、私たちの心は確かにその場所を訪れることができる。モナコという小さな公国が持つ魅力、地中海の美しさ、そして人々の温かさは、実際に足を運ばなくても感じ取ることができる。
この旅行記を通じて、読者の皆様にも、モナコの魅力を少しでも感じていただけたなら幸いである。いつか本当にモナコを訪れる機会があれば、この空想の旅で描いた美しい記憶と現実が重なり合う瞬間を楽しみにしている。
旅は、必ずしも物理的な移動を伴う必要はない。心の中で描く風景も、確かな体験として私たちの人生を豊かにしてくれる。そして何より、この空想の旅を通じて、世界の美しさと多様性への好奇心が少しでも育まれたなら、それこそが最も価値のある収穫なのかもしれない。
