はじめに: 山霧に包まれた隠れ里
バリ島北部の山間部に位置するムンダック村。標高約800メートルのこの小さな集落は、多くの観光客で賑わうクタやウブドとは対照的な、静寂に包まれた別世界だ。朝霧が湖面を覆い、コーヒー畑が緑の絨毯のように山腹を覆う風景は、まるで時が止まったかのような錯覚を覚える。
ムンダックは「双子湖」として知られるブヤン湖とタンブリンガン湖の間に佇む村で、17世紀にオランダ植民地時代に開発されたコーヒー栽培の歴史を持つ。今でも村人たちは伝統的な農業を営み、バリ・ヒンドゥーの教えに従って自然と調和した暮らしを続けている。赤道に近いとは思えない涼やかな気候と、霧に煙る幻想的な風景が、この土地を特別な場所にしている。
標高の高さがもたらす朝晩の涼しさ、雲海に包まれる神秘的な朝、そして何より人々の温かな笑顔。ムンダックは、バリ島の真の魅力を静かに語りかけてくれる場所だった。
1日目: 霧の彼方へ
デンパサール空港からムンダックまでの道のりは約3時間。レンタカーのハンドルを握りながら、徐々に変わりゆく風景を眺めていると、心も軽やかになってくる。海岸沿いの賑やかさから次第に内陸の田園風景へ、そして山道を登るにつれて空気が澄んでくるのを感じた。
午前10時頃、ついにムンダック村に到着。予約していた「プリ・ルンブン・コテージ」は、湖を見下ろす丘の上にひっそりと佇んでいた。竹と木材で作られた伝統的なバリ建築の宿で、オーナーのワヤンさんが温かい笑顔で迎えてくれる。「セラマット・ダタン (いらっしゃいませ) 」という挨拶とともに差し出されたウェルカムドリンクは、地元産のコーヒーにココナッツミルクを加えた優しい味わいだった。
部屋のテラスからは、霧に包まれたタンブリンガン湖が一望できる。湖面にうっすらと浮かぶ霧が風に流され、対岸の山々が現れては消えていく様子は、まるで水墨画を見ているようだ。荷物を置いて一息つくと、もうここを離れたくないような気持ちになった。
午後は村の散策に出かける。宿から徒歩で10分ほど歩くと、小さな村の中心部に辿り着く。「ワルン・ムンダック」という地元の食堂で昼食をとることにした。店主のスリさんは40代の女性で、流暢な英語で料理について説明してくれる。注文したのは「ナシ・チャンプル」と「サユール・ウラプ」。ナシ・チャンプルは様々なおかずが少しずつ盛られたバリの定番料理で、テンペ (発酵大豆) や野菜のココナッツ和え、辛いサンバルソースが白いご飯の上に美しく配置されている。一口食べると、スパイスの複雑な味わいが口の中に広がり、それでいて山の清涼な空気のおかげか、重く感じない。
食事の後、スリさんが村の歴史について話してくれた。「私の祖父の時代から、この村はコーヒーで生計を立ててきました。でも今は観光客も来るようになって、村も少しずつ変わっています」と語る彼女の表情には、誇りと少しの戸惑いが混じっていた。
夕方、宿に戻ると西日が山々を金色に染めていた。テラスで地元産のビンタン・ビールを飲みながら、静寂に包まれた湖を眺める。遠くから聞こえてくるのは、風に揺れる木々のざわめきと、時折響く鳥の鳴き声だけ。都市の喧騒から解放された心地よさを味わいながら、今日という一日がゆっくりと暮れていく。
夕食は宿で用意してもらった「ベベック・ベトゥトゥ」という鴨の蒸し焼き料理。スパイスでマリネした鴨肉をバナナの葉で包んで蒸し上げた伝統料理で、肉は驚くほど柔らかく、香辛料の香りが食欲をそそる。付け合わせのガドガドは、茹でた野菜にピーナッツソースをかけたサラダで、これまた絶品だった。
夜、空を見上げると、都市では決して見ることのできない満天の星空が広がっている。ワヤンさんが「ムンダックの夜空は特別です。光害がないので、星がよく見えるんです」と教えてくれた。テラスのチェアに身を委ね、星空を眺めながら、明日への期待と今日の満足感に包まれて眠りについた。
2日目: 湖畔で時を忘れて
朝5時、まだ薄暗い中で目が覚めた。テラスに出ると、湖面に霧が立ち込め、幻想的な光景が広がっている。朝もやの中から徐々に現れる湖の輪郭、そして対岸の山々のシルエット。これほど美しい朝を迎えたのは久しぶりだった。
6時頃、ワヤンさんが朝のコーヒーを持ってきてくれる。「今朝は特別に、私たちの農園で採れた豆を使ったコーヒーです」と誇らしげに話す。一口飲むと、酸味と苦味のバランスが絶妙で、朝の清涼な空気と相まって、これまで飲んだどのコーヒーよりも美味しく感じられた。
朝食後、湖畔まで歩いて降りることにした。宿から湖までは急な山道を約30分。途中、コーヒー畑や丁子 (クローブ) の木々に囲まれた小径を歩く。農作業をしている村人たちと目が合うと、必ず手を振って挨拶してくれる。「セラマット・パギ (おはようございます) 」という言葉が、山間にこだましていく。
タンブリンガン湖の湖畔に到着すると、そこには小さな桟橋があった。地元の漁師、プトゥさんが竹製のボートで迎えてくれる。「湖を一周しませんか?」という提案に二つ返事で応じた。手漕ぎのボートはゆっくりと湖面を進み、対岸の「プラ・ウルン・ダヌ・タンブリンガン寺院」へ向かう。
湖上から見る風景は、陸上とはまた違った美しさがある。水面に映る山々の影、時折現れる水鳥の群れ、そして静寂。プトゥさんは英語が得意ではないが、ジェスチャーと片言の単語で湖の歴史を教えてくれる。「ここは神聖な湖。昔から村人がお祈りする場所」という彼の言葉に、この土地に対する敬意の念が込められていた。
寺院に到着すると、湖に浮かぶように建つ美しい建物が目の前に現れる。プラ・ウルン・ダヌ・タンブリンガンは水の女神ドゥウィ・ダヌに捧げられた寺院で、11層の屋根を持つメル (塔) が湖面に映る姿は神秘的だった。寺院では地元の人々がお祈りを捧げており、線香の香りが静寂な空気に漂っている。
午後は宿に戻り、併設されているスパでバリニーズマッサージを受けることにした。セラピストのニョマンさんは村出身の女性で、伝統的なオイルマッサージの技術を母から受け継いだという。ココナッツオイルとフランジパニの花のエッセンスを使ったマッサージは、疲れた体を芯からほぐしてくれる。窓の外に広がる緑の風景を眺めながら受けるマッサージは、まさに至福の時間だった。
夕方、再び村の散策に出かける。今度は反対側の丘を登り、ブヤン湖を見下ろすビューポイントを目指した。20分ほどの軽いトレッキングで到着した展望台からは、二つの湖が同時に見渡せる絶景が広がっていた。夕日が山の向こうに沈もうとする中、湖面が金色に輝く瞬間は息を呑むほど美しい。
その場所で出会ったのは、写真を撮りに来ていた地元の青年、アリーさんだった。彼は大学で観光学を学び、将来は故郷の観光発展に貢献したいと語る。「ムンダックには美しい自然がたくさんあります。でも、開発しすぎずに、この静けさを保ちたいんです」という言葉が印象的だった。
夜は再び宿のテラスで夕食。今夜は「イカン・バカール」という魚のグリル料理と「ウラプ・サユール」という野菜のココナッツ和えを味わった。魚はスパイスでマリネしてから炭火で焼いたもので、皮はパリッと中はふっくら。ライムを絞ると、さらに爽やかな味わいになる。野菜料理は、地元で採れた青菜をココナッツファインと香辛料で和えたもので、素材の甘みが引き立つ優しい味だった。
食事の後、ワヤンさんが「ガムラン」の音楽をかけてくれた。青銅製の楽器が奏でる幻想的な音色が、星空の下に響いていく。音楽を聞きながら、今日一日の出来事を振り返る。湖での静寂、寺院での神聖な時間、人々との出会い。すべてが心の奥深くに刻まれていく。
3日目: 別れの朝に想うこと
最終日の朝、いつもより早く目覚めた。もう一度、あの美しい朝霧を見ておきたかった。テラスに出ると、昨日よりもさらに濃い霧が湖面を覆っている。白い霧の中から徐々に姿を現す湖の輪郭を眺めながら、この3日間があっという間だったことを実感した。
朝食は特別に早めに用意してもらい、出発前にもう一度村を歩くことにした。昨日とは違う道を歩き、コーヒー農園の中を通る小径を選んだ。収穫期を迎えたコーヒーの実が赤く熟し、朝露に濡れながら輝いている。農園で働くおばあさんが、赤い実をひとつもぎ取って差し出してくれた。そのまま食べると、ほのかな甘みの中に、コーヒーの原型となる苦みが隠れている。
「この実が、あの美味しいコーヒーになるんですね」と言うと、おばあさんは深くうなずいて、何か長い説明をしてくれる。言葉は分からないが、コーヒー栽培への愛情と誇りが伝わってきた。最後に「テリマ・カシー (ありがとう) 」と言って手を合わせると、おばあさんも同じように手を合わせて微笑んでくれた。
宿に戻ると、チェックアウトの時間が近づいていた。荷造りをしながら、テラスからの景色をもう一度心に焼き付ける。霧はすっかり晴れ、湖面が青空を映している。3日前にここに着いた時とは、明らかに違う気持ちになっている自分を感じた。
ワヤンさんが見送りに出てきてくれた。「また必ず戻ってきます」と言うと、「いつでもお待ちしています。ムンダックはあなたの心の故郷ですから」と答えてくれる。その言葉に、胸が熱くなった。
帰り道、来た時と同じ山道を下りながら、車窓から見える風景がすべて愛おしく感じられた。コーヒー畑、村人たちの笑顔、湖の青さ、山々の緑。3日間という短い時間だったが、この土地は確実に私の心の一部になっていた。
空港に向かう途中、道端の小さなワルンで最後の昼食をとった。注文したのは「ミー・ゴレン」という焼きそば。シンプルな料理だが、ニンニクと唐辛子、ケチャップマニス (甘いソイソース) の味が絶妙にバランスしている。この味も、きっと長い間覚えているだろう。
デンパサール空港に到着すると、現実世界に引き戻される感覚があった。3日前とは違う自分がそこにいる。心のどこかに、ムンダックの静寂と美しさ、人々の温かさが確かに残っている。それは、これからの日常生活の中で、きっと私を支えてくれる大切な宝物になるはずだった。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この旅は、実際に足を運んだわけではない空想の旅行記である。しかし、文字を紡ぎながら、ムンダックの霧に包まれた朝、湖面に映る山々の影、コーヒーの香り、人々の温かな笑顔が、まるで実際に体験したかのように心に浮かんできた。
バリ島ムンダック村は実在する美しい場所であり、ここに描いた風景や文化、人々の暮らしも、実際にその土地にあるものを基にしている。空想の旅でありながら、その土地の本質的な魅力を感じ取ることができたとすれば、それは文字と想像力が持つ不思議な力なのかもしれない。
時として、実際の旅行よりも、想像の中で描く旅の方が、その土地の魅力を純粋に味わえることがある。現実の制約や不便さに邪魔されることなく、その場所の最も美しい瞬間、最も感動的な出会いを体験できるからだ。
しかし同時に、この空想の旅は、いつか本当にムンダックを訪れたいという強い憧れを私の心に植え付けた。実際にあの霧に包まれた朝を迎え、湖面に映る山々を眺め、村人たちと言葉を交わしてみたい。空想が現実への扉を開く瞬間を、今から楽しみにしている。
旅とは、足で歩くものだけではない。心で感じ、想像力で描き、記憶に刻むものでもある。この空想の3日間が、確かに私の人生の一部になったことを、ここに記しておきたい。