はじめに
モーリシャスという名前を口にするだけで、なぜかほのかな甘い香りが漂ってくるような気がする。インド洋に浮かぶこの小さな島国は、火山活動によって生まれた大地に、アフリカ、インド、中国、ヨーロッパの文化が重なり合って独特の魅力を放っている。
首都ポートルイスは、その名の通りフランス統治時代の名残を色濃く残しながらも、クレオール、インド系、中国系の人々が織りなす多文化都市として発展してきた。サトウキビ畑が島の大部分を覆い、ドードー鳥が歩いていたであろう原生林の面影を残す山々が空に向かって伸びている。
港町として栄えたポートルイスの街並みは、コロニアル建築の白い壁に赤い屋根が映える美しさと、市場の喧騒や香辛料の香りが混じり合う生活感あふれる表情を併せ持つ。一年を通して温暖な気候に恵まれ、11月から5月の夏季は雨季でもあるが、短時間の激しいスコールの後には必ず美しい虹がかかるのだという。
この島で過ごす2泊3日は、きっと時間の流れ方そのものが変わる体験になるだろう。
1日目: 潮風に包まれた到着の午後
成田からの長いフライトを経て、サー・シーウーサガル・ラムグーラム国際空港に降り立ったのは午後2時頃だった。機内で見下ろしたモーリシャスの海は、写真で見るよりもずっと鮮やかなターコイズブルーで、珊瑚礁に囲まれた浅瀬から深海へと変わるグラデーションが息をのむほど美しかった。
空港からポートルイスまでは車で約1時間。タクシーの窓から見える風景は、想像していた南国とは少し違っていた。サトウキビ畑が延々と続く中に、ヒンドゥー寺院の色鮮やかな塔が突然現れたり、クレオール様式の木造家屋が点在したりする。運転手のラジェシュさんは流暢な英語とフランス語を交えながら、「モーリシャスでは一人で4つの言語を話すのは普通のことですよ」と微笑んだ。
ポートルイス市内に入ると、街の雰囲気が一変した。植民地時代の建物と現代的なビルが混在し、狭い路地にはインド系の商店や中華料理店が軒を連ねている。宿泊先のホテル「ル・ラボルドネ・ウォーターフロント」にチェックインを済ませ、荷物を置いて外に出たのは午後4時過ぎ。
まずは街の中心部を歩いてみることにした。コーダン・ウォーターフロントは、かつての港湾施設を改装したショッピングエリアで、海に面したプロムナードからは美しい夕日が望める。平日の午後とあって観光客の姿はまばらで、地元の人々がのんびりと散歩を楽しんでいる。
港に停泊するヨットと漁船、そして遠くに見えるル・モーン山の稜線。空気は湿度を含んでいるが、海風が頬を撫でていくたびに心地よい涼しさを運んでくる。カフェのテラスで注文したバニラティーは、モーリシャス産のバニラビーンズの豊かな香りが口いっぱいに広がって、長旅の疲れを癒してくれるようだった。
夕食は、地元の人に教えてもらった「ショップ・アンド・イート」という小さな食堂で。メニューに並ぶ料理名は聞いたことのないものばかりだったが、店主のマダム・リーが「初めてのお客様には特別なセットを」と言って運んできてくれたのは、クレオール料理の代表格「ルーガイユ」だった。
トマトベースのスパイシーなソースで煮込んだ魚料理で、ソーセージやハーブも一緒に煮込まれている。付け合わせのご飯は日本のものより粒が大きく、ココナッツの風味がほのかに感じられる。辛さの中にも優しい甘みがあって、最初は慎重に食べていたが、気がついたら皿が空になっていた。
「美味しかったでしょう?モーリシャスの料理は愛情のスパイスが一番大切なの」とマダム・リーが笑う。彼女の祖父はインドから移住してきた労働者で、祖母はマダガスカル出身、そして自分の夫は中国系だという。「だから私の料理にはみんなの故郷の味が入ってるのよ」。
夜の街を歩いて宿に戻る途中、コーダン・ウォーターフロントのカジノから漏れる光と音楽、露店で売られている手作りのアクセサリー、そして夜風に乗って流れてくるセガ音楽のリズム。初日の夜は、この島の複雑で豊かな文化の一端に触れただけで、心が軽やかになっていくのを感じていた。
2日目: 色彩豊かな文化との出会い
朝6時頃、鳥の鳴き声で目が覚めた。バルコニーから見下ろすポートルイスの街は、朝もやの中にぼんやりと浮かんでいて、屋根の向こうに見える山々が薄紫色に染まっている。空気は昨日より湿度が高く、雨季の訪れを感じさせた。
ホテルの朝食は、フランスパンにトロピカルフルーツ、そしてモーリシャス産のコーヒーという組み合わせ。パパイヤとマンゴーの甘さが口の中で混じり合い、コーヒーの深い苦味がそれを引き締める。日本では体験できない贅沢な朝の時間だった。
午前中は、まずセントラル・マーケットへ向かった。街の中心部からは歩いて10分ほどの距離で、古い鉄骨造りの建物が見えてくると、すでに香辛料の香りが漂ってくる。市場の中は想像以上に活気に満ちていて、野菜や果物を売る女性たちの声が響く中、観光客向けの土産物店も軒を連ねている。
カレーリーフ、コリアンダー、カルダモン、シナモン。スパイスの山積みになった店の前で立ち止まると、店主が「匂いを嗅いでみて」と小さな袋を差し出してくれる。それぞれのスパイスの香りは日本で買うものよりもはるかに強烈で、鼻の奥がツンとするほど。「これが本物の香りよ」と店主が誇らしげに言うのも理解できる。
隣の果物店では、見たことのない形や色の果物が並んでいる。「ジャンボライチ」という大きなライチや、「ジャメローズ」という洋梨のような形をした赤い果実。店主に勧められて味見させてもらったジャメローズは、ほのかな酸味と上品な甘さで、バラのような香りがする不思議な果物だった。
午後は、アープラヴァシ・ガートへ向かった。ここは19世紀にインドから移住してきた労働者たちが最初に足を踏み入れた場所で、現在は世界遺産に登録されている。小さな博物館には、当時の移民の生活や労働条件についての展示があり、モーリシャスの多文化社会がどのように形成されたかを知ることができる。
展示を見ていると、一人のガイドが声をかけてくれた。ディーパックさんという70代の男性で、彼の曽祖父もインドからの移民だったという。「私たちの祖先は故郷を離れ、この島で新しい生活を始めた。辛いこともたくさんあったけれど、今では私たちはモーリシャス人として誇りを持って生きています」。
彼の話を聞きながら、港を見下ろすテラスで過ごした午後のひととき。インド洋の青い海の向こうに、祖先たちの故郷があることを思いながら、この島の歴史の重みを感じていた。
夕方になると、雨季特有の激しいスコールが降り始めた。近くのカフェに駆け込んで雨宿りをしていると、30分ほどで雨は上がり、空には見事な虹がかかった。地元の人々は慣れた様子で、「いつものことよ」と笑いながら傘をたたんでいる。
夕食は、チャイナタウンにある「ドラゴン・パレス」という中華料理店で。ここの「ミン」 (麺) 料理は、中華料理にクレオールのスパイスを加えた独特の味付けで、モーリシャスならではの融合料理を楽しむことができる。海老と野菜の炒麺は、醤油ベースの味に唐辛子とカレーリーフの香りが効いていて、日本で食べる中華料理とは全く違う味わいだった。
食後は、ポート・ルイス劇場で開催されているセガ音楽のショーを見に行った。セガはモーリシャスの伝統音楽で、アフリカの奴隷たちが故郷を思って歌い踊った音楽が起源だという。太鼓のリズムに合わせて踊るダンサーたちの動きは力強く、観客席にも自然と手拍子が起こる。
音楽が終わった後、出演者の一人が「セガは私たちの心の歌です。悲しい時も嬉しい時も、セガがあれば大丈夫」と言っていたのが印象的だった。宿への帰り道、頭の中でセガのリズムが鳴り続けていて、自然と足取りが軽やかになっていた。
3日目: 別れと記憶の調べ
最終日の朝は、少し早めに起きてポートルイスの街を散歩することにした。午前7時の街は、通勤ラッシュが始まる前の静けさに包まれている。バスターミナル近くの屋台では、朝食用の「ファルタ」というインド系のパンケーキを作っているおじさんがいて、出来立てを分けてもらった。生地にはカレー風味がついていて、中にはじゃがいもと玉ねぎの具が入っている。熱々のファルタを頬張りながら歩く朝の散歩は、この旅で一番贅沢な時間だったかもしれない。
チェックアウトまでの時間を使って、最後にもう一度セントラル・マーケットを訪れた。昨日とは違った視点で見ると、また新しい発見がある。手作りのかごバッグ、モーリシャス産の紅茶、そして小さなドードー鳥の置物。お土産を選びながら、この2日間で出会った人々の顔が次々と浮かんでくる。
マダム・リーは今日も厨房で忙しそうに働いていて、私の姿を見つけると「もう帰るの?今度はもっと長く滞在しなさい」と手を振ってくれた。スパイス店の店主は、「日本に帰っても本物のスパイスを忘れないで」と小さな袋にカルダモンを入れてくれた。
午後1時にホテルを出発し、空港へ向かう途中、タクシーの窓から最後のモーリシャスの風景を目に焼き付けた。サトウキビ畑の向こうに見える山々、所々に点在するカラフルな家々、そして遠くに光るインド洋の海。
ラジェシュさんは最初の日と同じタクシー運転手で、「短い滞在でしたが、モーリシャスを気に入ってもらえましたか?」と聞いてくれた。「とても気に入りました。また必ず戻ってきます」と答えると、「次回は家族も一緒に来てください。モーリシャスは家族で楽しむ場所でもありますから」と微笑んだ。
空港での搭乗手続きを終え、出発ロビーで最後のモーリシャス・コーヒーを飲みながら、この3日間を振り返った。たった2泊3日という短い時間だったが、この島で出会った人々の温かさ、多様な文化が織りなす豊かな食事、そして何より、すべてを包み込むような穏やかな空気感。
機内から見下ろすモーリシャスは、行きに見た時よりもずっと親しみやすく感じられた。珊瑚礁に囲まれた小さな島が、インド洋の青い海の中で宝石のように輝いている。きっとまた戻ってくる日が来るだろう。その時は、今度はもっと長い時間をかけて、この島の奥深さを探ってみたい。
機内で配られたタオルにほのかに残る、あのスパイスの香り。それが今回の旅の最後の記憶になった。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この2泊3日のモーリシャス・ポートルイス旅行記は、完全に想像によって描かれた空想の旅である。しかし文章を書きながら、まるで本当にその場所を歩き、その空気を吸い、その料理を味わったかのような錯覚を覚えた。
マダム・リーのルーガイユの温かさ、セントラル・マーケットのスパイスの香り、スコールの後に現れた虹の美しさ、セガ音楽のリズムが心に刻んだ余韻。これらはすべて想像の産物でありながら、心の中では確かな記憶として残っている。
旅とは、単に場所を移動することではなく、新しい世界に心を開くことなのかもしれない。たとえそれが想像の世界であっても、真摯に向き合えば、そこには真実の体験が生まれる。モーリシャスという島の多文化的な魅力、人々の温かさ、そして時間の流れ方の違い。これらを通して、私たちは日常では得られない何かを感じ取ることができるのだろう。
空想の旅が終わった今、実際にモーリシャスを訪れてみたいという気持ちが強くなっている。想像で描いた風景と現実がどれほど違うのか、あるいは似ているのか。それを確かめてみたくなるのも、空想旅行の持つ不思議な魅力の一つなのかもしれない。
インド洋に浮かぶ小さな島で過ごした、架空の2泊3日。それは確かに私の心の中で、本当の旅行と同じような豊かさを持った体験として残っている。