はじめに
リグーリア海に抱かれた小さな宝石のような港町、ポルトフィーノ。イタリア北西部、ジェノヴァから車で約一時間の場所に位置するこの町は、人口わずか500人ほどの漁村でありながら、世界中の人々を魅了し続けている。
断崖絶壁に建つパステルカラーの家々が、まるで絵画のように美しい半円形の港を囲んでいる。古代ローマ時代から「ポルトゥス・デルフィーニ」 (イルカの港) と呼ばれていたこの地は、その名の通り、かつて多くのイルカが遊泳していたという。中世には海洋共和国として栄えたジェノヴァの重要な港として機能し、19世紀後半からは北欧の貴族たちの避暑地として愛されるようになった。
リグーリア海特有の温暖な地中海性気候に恵まれ、オリーブやレモン、松が茂る丘陵地帯に囲まれている。この地域の料理は海の幸と山の幸が絶妙に調和し、特にバジリコを使ったペスト・ジェノヴェーゼや新鮮な魚介類を使った料理で知られている。フォカッチャやファリナータといった地元の伝統的なパンも、訪れる人々の心を温かく迎えてくれる。
1日目: 色彩豊かな港町への第一歩
ジェノヴァから借りた小さなフィアット500で、曲がりくねった海岸道路を進む。窓から見える地中海の青と、山肌を覆う緑のコントラストが美しい。午前11時頃、ついにポルトフィーノの看板が見えてきた。車を町の入り口近くの小さな駐車場に停め、石畳の細い道を歩いて港へ向かう。
坂を下りながら、家々の壁に描かれた色とりどりの装飾に目を奪われる。テラコッタ色、レモンイエロー、サーモンピンク、ライムグリーン。それぞれの家が異なる色に塗られているのは、漁師たちが海から帰ってきた時に自分の家を見分けやすくするためだったという。今でもその伝統は守られ、町全体が一つの大きなアート作品のように見える。
港に着くと、その美しさに思わず立ち止まってしまった。小さな湾を囲むように建つ家々が、まるで劇場の観客席のように配置されている。港には白いヨットが優雅に係留され、水面に映る建物の影が揺れている。この瞬間、時間が止まったような静寂と美しさに包まれた。
昼食には港沿いのトラットリア「イル・ピトスフォーロ」を選んだ。テラス席から港を眺めながら、この地方の名物であるトロフィエ・アル・ペストを注文する。手打ちのねじれたショートパスタに、濃緑色のバジリコペストが絡んでいる。一口食べると、バジリコの香りが口の中に広がり、松の実とパルミジャーノ・レッジャーノの深い味わいが後から続く。地元の白ワイン、ヴェルメンティーノとの相性も抜群だった。
午後は、町を散策しながら小さな路地を歩く。観光客で賑わう港とは対照的に、住宅街の路地は静かで穏やかだ。洗濯物が窓から窓へと張られたロープに揺れ、猫がのんびりと石段で昼寝をしている。小さな食材店で地元のオリーブオイルを購入し、店主のマリアおばさんから「このオイルは私の兄の農園で作られたものよ」と誇らしげに説明してもらった。
夕方には、サン・ジョルジョ教会まで坂を登った。11世紀に建てられたこの小さな教会からは、ポルトフィーノの全景が一望できる。夕日が港の水面を金色に染め、パステルカラーの家々が温かな光に包まれている。教会の中は簡素だが、聖ジョルジョ (聖ゲオルギオス) の像が静かに佇んでいる。ここで地元の人々が祈りを捧げる姿を見て、この町の人々の信仰心の深さを感じた。
夜は、ホテル「ホテル・スプレンディド」のレストランで夕食を取った。このホテルは1901年に建てられた歴史あるホテルで、多くの著名人が宿泊したことで有名だ。夕食には地元で獲れた鮮魚のアクアパッツァを選んだ。トマトとオリーブ、ケーパーの酸味が魚の旨味を引き立て、一緒に出されたフォカッチャも香ばしくて美味しかった。
食事の後は、港沿いを歩いて夜の静寂を楽しんだ。昼間の喧騒とは打って変わって、夜のポルトフィーノは幻想的な美しさに包まれている。街灯に照らされた建物が水面に映り、小さな波が静かに防波堤を洗っている。遠くから聞こえるのは、レストランからの微かな音楽と、ヨットのマストが風に揺れる音だけ。この平和な夜に、明日への期待を膨らませながら眠りについた。
2日目: 自然の中で過ごす贅沢な時間
朝6時に目を覚まし、ホテルの部屋の窓から港を見下ろす。早朝の光が水面に反射し、町全体が金色に染まっている。朝食前に、港まで散歩に出かけた。まだ観光客の姿はなく、地元の漁師が小舟の手入れをしている。「ブオンジョルノ」と声をかけると、日焼けした顔に深いしわを刻んだ漁師のジュゼッペさんが笑顔で応えてくれた。
ホテルに戻って朝食を取る。地元産のハチミツがたっぷりかかったヨーグルト、焼きたてのクロワッサン、そして濃厚なエスプレッソ。窓外に広がる地中海を眺めながらの朝食は、まさに至福の時間だった。
午前中は、ポルトフィーノからサン・フルットゥオーゾへのハイキングコースを歩くことにした。町の背後に広がる丘陵地帯は、ピノ・マリッティモ (海松) とオリーブの木に覆われている。石畳の古い道を登っていくと、次第に港が小さく見えてきた。途中、野生のローズマリーやタイムの香りが漂い、小さな蝶が花から花へと舞っている。
約1時間歩いて、サン・フルットゥオーゾ修道院に到着した。この修道院は10世紀に建てられたベネディクト会の修道院で、現在は国有財産として保護されている。修道院の前には小さな入り江があり、そこには「キリストの深淵」と呼ばれる海中に沈む青銅製のキリスト像がある。この像は1954年に設置され、海の安全を祈る漁師たちの信仰の対象となっている。
修道院の小さなカフェで休憩し、地元の人が作ったレモネードを飲んだ。レモンの酸味と地元の蜂蜜の甘さが絶妙にバランスを取っている。修道院の管理人であるフランチェスコさんから、この地域の歴史について詳しく教えてもらった。中世には海賊の襲撃から逃れるため、多くの人々がこの修道院に避難していたという。
午後は、ポルトフィーノに戻り、港からボートでパラギ海岸へ向かった。小さなモーターボートに乗り、海から町を眺める。水上から見るポルトフィーノは、また違った美しさがある。建物が海に向かって階段状に配置され、まるで古代の円形劇場のようだ。
パラギ海岸は小さな砂利浜で、透明度の高い海が広がっている。ここで泳ぐことにした。6月の海はまだ少し冷たかったが、泳いでいるうちに体が慣れてきた。海底まで透けて見える美しい海で、小さな魚たちが泳いでいる。水から上がると、海岸沿いの小さなバーでアペリティーボを楽しんだ。スプリッツ・ヴェネツィアーノとオリーブ、そして地元のフォカッチャ。潮風に吹かれながら飲むお酒は格別だった。
夕方、ポルトフィーノに戻り、ファーロ (灯台) まで歩いた。灯台へ向かう道は、松林の中を縫うように続いている。途中、野生のイチジクの木があり、まだ小さな実をつけていた。灯台からは、リグーリア海の水平線が見渡せる。夕日が海に沈む瞬間を待ちながら、この美しい風景を心に刻んだ。
夜の夕食は、港の小さなオステリア「ダ・ウーゴ」で取った。地元で獲れたイワシのマリネから始まり、メインには地元の名物であるブランツィーノ (スズキ) のサルト・イン・クロスタ (塩釜焼き) を注文した。テーブルで塩の殻を割ると、中から湯気とともに魚の香りが立ち上る。身はしっとりとしていて、塩がほどよく効いている。食事と一緒に、地元のワイン、ロッソ・ディ・ドルチェアックアを飲んだ。
食事の後は、港沿いのジェラテリアで夜のデザートを楽しんだ。レモンとバジリコのジェラートという珍しい組み合わせを試してみると、意外にも爽やかで美味しかった。ベンチに座って海を眺めながら食べるジェラートは、この旅の素晴らしい一日を締めくくるのにふさわしかった。
3日目: 別れの朝と心に残る思い出
最終日の朝、いつもより早く目が覚めた。この美しい町との別れが近づいていることを、心のどこかで感じているのかもしれない。朝の散歩に出かけ、港の周りを一周した。まだ薄暗い中、漁師たちが準備を始めている。網を整理し、小舟の点検をしている姿は、何世紀も前から続いている光景なのだろう。
ホテルに戻り、最後の朝食を取る。昨日と同じメニューだが、今日は特別な味がする。窓から見える港の風景を目に焼き付けながら、ゆっくりとエスプレッソを飲んだ。
午前中は、お土産を買いに町の小さな店を回った。先日立ち寄った食材店で、オリーブオイルと地元産のペスト・ジェノヴェーゼを購入した。マリアおばさんが「日本に帰っても、このペストを食べるたびにポルトフィーノを思い出してね」と言って、手作りのフォカッチャを一切れおまけしてくれた。
港沿いの小さなアトリエでは、地元の画家が港の風景を描いていた。その絵は写実的でありながら、どこか詩的な美しさがあった。画家のルカさんは「この町の光は特別なんだ。朝と夕方、そして季節によって全く違う表情を見せてくれる」と語ってくれた。小さな水彩画を一枚購入し、旅の記念とした。
昼食は、初日に訪れたトラットリア「イル・ピトスフォーロ」で取ることにした。同じテラス席に座り、最後の食事を楽しんだ。今度はリングイネ・アッレ・ヴォンゴレ (アサリのパスタ) を注文した。新鮮なアサリとトマト、ニンニクの香りが絶妙にマッチしている。ワインはこの地方の軽やかなロゼを選んだ。
食事をしながら、この3日間を振り返った。ポルトフィーノは小さな町だが、その中に詰まっている美しさと人々の温かさは計り知れない。漁師のジュゼッペさんの笑顔、マリアおばさんの親切、修道院のフランチェスコさんの丁寧な説明、画家のルカさんの情熱。それぞれの出会いが、この旅を特別なものにしてくれた。
午後2時頃、ついに出発の時が来た。荷物を車に積み込み、運転席に座る。エンジンをかける前に、もう一度港を振り返った。パステルカラーの家々が、まるで別れを惜しむように美しく輝いている。ゆっくりと車を発進させ、曲がりくねった道を登っていく。バックミラーに映るポルトフィーノの姿が、だんだん小さくなっていく。
帰り道、サンタ・マルゲリータ・リグレで一度車を停めた。ここからもポルトフィーノの湾が見える。遠くから見るその姿は、まるで宝石のように美しい。写真を数枚撮り、心の中でこの町に「ありがとう」と呟いた。
ジェノヴァの空港に向かう途中、この3日間がまるで夢のようだったと感じた。しかし、カバンの中のオリーブオイルの香り、手に残るペストの味、そして心に刻まれた美しい風景が、それが確かに現実だったことを教えてくれる。ポルトフィーノは、単なる観光地ではなく、人の心を豊かにしてくれる特別な場所だった。
最後に
この旅は空想の産物でありながら、心の中では確かに体験した出来事として残っている。ポルトフィーノの美しい港、パステルカラーの家々、温かい人々との出会い、そして地中海の青い海。それらすべてが、まるで実際に訪れたかのように鮮明に思い出される。
旅の記憶というものは不思議なもので、実際に足を運んだ場所でも時間が経てば曖昧になっていくものがある一方で、想像の中で丁寧に描いた風景は、時として現実よりも美しく、心に深く刻まれることがある。この空想のポルトフィーノ旅行もまた、そのような特別な記憶として心の中に残り続けるだろう。
いつか本当にポルトフィーノを訪れる日が来たら、その時はこの空想の旅と現実の旅がどのように重なり合うのか楽しみにしている。きっと、想像していた以上に美しい場所で、新たな発見と感動を与えてくれることだろう。