はじめに: アドリア海の宝石
イストリア半島の西端に佇むロヴィニは、まさにアドリア海に浮かぶ絵画のような町だった。紀元前2世紀からローマ帝国の支配下にあり、その後ビザンツ帝国、ヴェネツィア共和国と様々な文明の影響を受けてきた歴史が、石畳の道や建物の佇まいに深く刻まれている。
オレンジ色の屋根瓦が連なる旧市街は、小さな半島全体に広がり、頂上には聖エウフェミア教会の尖塔が空に向かって伸びている。イタリア文化とクロアチア文化が絶妙に混じり合った独特の雰囲気は、この土地ならではの魅力だ。人口わずか1万4千人ほどの小さな町でありながら、芸術家たちに愛され続けてきた理由が、実際に足を踏み入れるとすぐに理解できる。
アドリア海の透明度の高い海水と、地中海性気候がもたらす温暖で穏やかな風。そして何より、時の流れがゆっくりと感じられる、この土地特有の静けさ。そんなロヴィニで過ごす2泊3日の旅が、今から始まる。
1日目: 石畳に響く足音と、夕陽に染まる港町
朝8時半のバスでプーラを出発し、約40分でロヴィニのバスターミナルに到着した。バスの窓から見えた最初のロヴィニの印象は、まさに絵葉書そのものだった。オレンジ色の屋根が階段状に重なり合い、その向こうにアドリア海が静かに光っている。
宿泊先のPensione Villa Liliは、旧市街から徒歩5分ほどの高台にある小さな家族経営の宿だった。オーナーのマリアさんは流暢な英語で迎えてくれ、チェックインを済ませながら「今日はとても良い天気ね。夕陽を見るなら、必ず旧市街の西側の海岸に行きなさい」と教えてくれた。
午前中は、まず旧市街の散策から始めた。バルビ・アーチ (Balbi Arch) をくぐると、まるで中世にタイムスリップしたような感覚に襲われる。17世紀に建てられたこのアーチには、ヴェネツィア共和国時代の紋章が刻まれており、この町の複雑な歴史を物語っている。
石畳の道は狭く、両側に建つ古い建物の壁には、長い年月を経て滑らかになった石が使われている。グリジア通り (Grisia Street) を歩きながら、小さなアトリエやギャラリーを覗いて回った。地元の画家が描いた風景画には、まさに今歩いている同じ石畳や建物が描かれており、時間の連続性を強く感じる。
昼食は旧市街の中心部にあるKonoba Veli Jožeで取った。イストリア半島の郷土料理であるマネシュトラ (Maneštra) という野菜とパスタのスープは、シンプルでありながら深い味わいがあった。トマトベースのスープに、季節の野菜とパスタが入っており、オリーブオイルの香りが鼻腔をくすぐる。地元産の白ワイン、マルヴァジアと合わせると、この土地の豊かさを実感できる組み合わせだった。
午後は聖エウフェミア教会 (Church of St. Euphemia) へ向かった。旧市街の最高地点に建つこの教会は、18世紀初頭に建てられたバロック様式の美しい建物だ。60メートルの高さを誇る鐘楼からは、ロヴィニの町全体とアドリア海の絶景を一望できる。鐘楼への階段は石造りで、一段一段が歴史の重みを感じさせる。
頂上からの眺めは息を呑むほど美しかった。オレンジ色の屋根瓦が海に向かって段々に下がっていき、その先には青いアドリア海が地平線まで続いている。遠くには13の小さな島々が点在し、それぞれが異なる形で海面に浮かんでいる。風が頬を撫でていき、下からは観光客の声や生活音が微かに聞こえてくる。
教会内部も印象深かった。祭壇には聖エウフェミアの石棺があり、地元の人々の信仰の深さを感じることができる。ステンドグラスから差し込む光が、静寂な空間に神秘的な雰囲気を作り出している。
夕方になると、マリアさんが勧めてくれた西側の海岸へ向かった。Zlatni rt (ゴールデン・ケープ) 自然公園の海岸線は、松の木と地中海の植物に覆われており、遊歩道が整備されている。ここからの夕陽は、まさに一生忘れられない光景だった。
午後6時頃から空が少しずつオレンジ色に染まり始め、7時半頃には太陽が水平線に近づいてきた。アドリア海の穏やかな波が夕陽を反射し、海面がきらきらと輝いている。周りにいた他の観光客たちも、みな静かに夕陽を見つめており、その美しさに言葉を失っているようだった。
太陽がゆっくりと海に沈んでいく約15分間、世界が黄金色に包まれた。空はオレンジから深い赤に変化し、最後には紫色のグラデーションを見せながら、静かに夜の帳が下りてきた。
夕食は港近くのLa Puntulinaで海の幸を堪能した。イストリア半島の名物であるブザラ (buzara) というムール貝の料理は、白ワインとガーリック、パセリで蒸し煮にしたシンプルな料理だが、ムール貝の旨味が存分に味わえる逸品だった。新鮮な魚のグリルには、地元産のオリーブオイルとレモンが添えられており、素材の良さを実感できる。
レストランのテラス席からは、夜のロヴィニの港が見渡せた。漁船や小さなヨットが静かに揺れており、街灯が水面に映っている。時折聞こえる波の音と、遠くからの音楽が、静かな夜の雰囲気を演出している。
この日の最後は、ペンションに戻る途中の石畳の道で過ごした。街灯に照らされた古い建物の壁には、日中とは異なる表情があった。静寂の中で、自分の足音だけが石畳に響いている。この音もまた、何百年もの間、多くの人々が同じように歩いてきた証なのだろう。
2日目: 海と森の調べ、そして地元の人々との出会い
朝は6時半頃に目が覚めた。ペンションの窓からは、朝もやの中に浮かぶロヴィニの旧市街が見える。早朝の空気は清々しく、鳥のさえずりが静寂を破っている。マリアさんが用意してくれた朝食は、地元産のパンとチーズ、イストリアン・プルシュート (イストリア半島の生ハム) 、そして濃厚なクロアチアン・コーヒーだった。
プルシュートは塩気が程よく、薄くスライスされた肉の旨味が口の中に広がる。地元産のチーズは羊乳製で、クリーミーでありながらしっかりとした風味がある。マリアさんは「このプルシュートは隣村の農家で作られたもので、代々受け継がれている製法よ」と誇らしげに説明してくれた。
朝食後、まずは港でボートツアーを予約した。港には多くの小さなボートが停泊しており、船頭のペータルさんが流暢なドイツ語と英語でツアーの説明をしてくれた。「今日は波が穏やかだから、遠くの島まで行けるよ」と彼は笑顔で言った。
午前9時、定員12名の小さなボートで出港した。港を出ると、陸から見ていたロヴィニとは全く異なる景色が広がった。海上から見る旧市街は、まるで海に浮かぶ城のように見える。聖エウフェミア教会の鐘楼が空高くそびえ立ち、その周りにオレンジ色の屋根が密集している様子は、まさに絵画のような美しさだった。
ボートは約30分かけて、聖カタリナ島 (Sv. Katarina) と赤い島 (Crveni otok) を回った。聖カタリナ島は小さな無人島で、島全体が森に覆われている。島の周りの海は透明度が非常に高く、海底の岩や魚の群れがはっきりと見える。赤い島はその名の通り、赤みがかった土壌と岩が特徴的な島だった。
島の近くでボートのエンジンを止めると、完全な静寂が訪れた。波の音、風の音、そして時折聞こえる海鳥の鳴き声だけが周りを包んでいる。ペータルさんは「この静けさが、ロヴィニの本当の魅力なんだ」と静かに話した。
午前11時頃に港に戻り、午後はGolden Cape (Zlatni rt) 自然公園でのハイキングに向かった。公園の入り口では、地元のガイド、アナさんが待っていてくれた。「この森には、地中海性気候特有の植物が多く生息しているの。ゆっくり歩きながら、自然の声に耳を傾けてみて」と彼女は穏やかに話した。
森の中の遊歩道は整備されており、歩きやすい。松の木、オークの木、そして野生のオリーブの木が生い茂っている。アナさんは道中で様々な植物について説明してくれた。「このラベンダーは野生で、夏には紫色の花を咲かせるの。そしてこのローズマリーは、地元の料理によく使われるハーブよ」
約1時間のハイキングコースを歩く間、森の中の様々な音に耳を澄ませた。風が葉を揺らす音、小鳥のさえずり、遠くから聞こえる海の音。都市生活では忘れがちな、自然の持つ豊かな音の世界がそこにはあった。
途中の展望台からは、ロヴィニの旧市街とその周辺の島々が一望できた。午前中にボートで回った島々も、ここからだと手に取るように見える。アナさんは「この景色を見るために、多くの画家や写真家がロヴィニを訪れるのよ」と説明してくれた。
昼食は森の中のレストラン、Kantina Café Barで取った。テラス席は森に囲まれており、木陰で涼しい風を感じながら食事ができる。地元の漁師が朝捕ってきた魚のカルパッチョは、オリーブオイルとレモンのシンプルな味付けで、魚の新鮮さが際立っていた。イストリアン・トリュフのパスタは、この地域の特産品であるトリュフの香りが豊かで、土の恵みを感じさせる逸品だった。
午後の後半は、旧市街での自由散策に充てた。昨日歩いた道も、時間帯や光の具合によって全く異なる表情を見せている。午後3時頃の強い陽射しは、石畳や建物の壁に深い影を作り出し、コントラストの美しい光景を作り出していた。
小さなカフェ、Caffe Bar Valentino で地元の人々と交流する機会があった。隣に座った年配の男性、マルコさんは退職した元漁師で、流暢な英語でロヴィニの昔の話を聞かせてくれた。「私が子供の頃、この町はもっと小さくて、みんなが顔見知りだった。でも観光業が発展して、世界中から人が来るようになった。それは嬉しいことだが、同時に少し寂しくもある」と彼は静かに語った。
マルコさんは地元の人だけが知る秘めた場所についても教えてくれた。「夕方の5時頃に、旧市街の北側の海岸を歩いてみなさい。観光客はあまり行かないが、美しい夕陽が見える場所がある」
夕方、彼の勧めに従って北側の海岸を歩いた。確かに観光客の姿はほとんどなく、地元の家族連れや犬の散歩をする人々が静かに時を過ごしていた。小さな入り江では、地元の子供たちが泳いでいる姿も見えた。
海岸沿いの遊歩道は石で舗装されており、所々にベンチが設置されている。そのうちの一つに座り、静かに海を眺めた。波は穏やかで、遠くに見える島々も夕陽に照らされて金色に輝いている。時間がゆっくりと流れていく感覚の中で、日常の慌ただしさを忘れることができた。
夕食は地元の人々で賑わうKonoba Piratiで取った。ここは観光客向けのレストランではなく、地元の人々が日常的に利用する食堂のような雰囲気だった。ウェイターのイヴァンさんは「今日のおすすめは、朝獲れたタコのサラダと、イストリアン・ビーフのグリル」と教えてくれた。
タコのサラダは、柔らかく茹でられたタコに、トマト、玉ねぎ、パセリが入ったシンプルな料理だが、タコの甘みとオリーブオイルの香りが絶妙にマッチしていた。イストリアン・ビーフは、この地域で育てられた牛肉で、肉質が柔らかく、素材の味がしっかりと感じられる。
食事の最後に出された地元産のグラッパは、強いアルコール度数でありながらも口当たりが滑らかで、食事の締めくくりにふさわしい味わいだった。「このグラッパは、私の叔父が作ったものだ」とイヴァンさんは誇らしげに話した。
この日の夜は、ペンションのテラスで読書をしながら過ごした。静かな夜の中で、遠くから聞こえる波の音と、時折通り過ぎる車の音だけが聞こえている。星空も美しく、都市部では見ることのできない多くの星が輝いていた。
3日目: 別れの朝と、心に残る記憶
最終日の朝は、少し憂鬱な気分で目を覚ました。窓の外には変わらず美しいロヴィニの景色が広がっているが、今日でこの町を離れなければならない現実が重くのしかかってくる。
朝食の時間、マリアさんは「最後の日だから、特別なものを用意したの」と言って、地元産のハチミツとクロアチアの伝統的なパンケーキのような料理、パラチンケを出してくれた。ハチミツは花の香りが豊かで、自然の甘さが口の中に広がる。パラチンケは薄いクレープのような生地で、中にはチーズクリームが入っており、温かくて優しい味わいだった。
「このハチミツは、イストリア半島の野花から採れたもので、季節によって味が変わるの。今の時期のものは、特にラベンダーの香りが強いのよ」とマリアさんは説明してくれた。朝食を取りながら、この2日間の思い出を振り返っていると、時間があっという間に過ぎてしまったように感じられた。
チェックアウトの時間まで少し余裕があったので、最後にもう一度旧市街を歩くことにした。朝の旧市街は、昼間や夕方とはまた違った静けさがあった。石畳の道には朝露が残っており、古い建物の壁には朝日が斜めに当たっている。
グリジア通りの小さなギャラリーで、地元の画家が描いたロヴィニの風景画を購入した。作者のマリアンさんは「この絵には、私がロヴィニで過ごした30年間の思い出が込められている」と語ってくれた。絵には昨日歩いた同じ石畳の道と、その向こうに広がるアドリア海が描かれており、見ているだけでこの旅の記憶が蘇ってくる。
午前10時頃、港で最後のコーヒーを飲むことにした。Caffe Bar Harbourのテラス席からは、漁船が朝の漁から戻ってくる様子が見える。漁師たちが船から魚を降ろしている光景は、この町の日常生活の一部であり、観光地としての顔とは異なるロヴィニの本来の姿を垣間見ることができた。
コーヒーを飲みながら、隣のテーブルにいた地元の老夫婦と言葉を交わした。奥さんのアンナさんは「あなたはロヴィニを気に入ってくれた?」と優しく尋ねてくれた。「はい、とても美しい町ですね。また必ず戻ってきたいです」と答えると、「それは嬉しいわ。この町は、一度訪れた人の心に必ず何かを残していくの」と微笑んでくれた。
その言葉が印象深く心に残った。確かに、ロヴィニは単なる観光地以上の何かがある場所だった。歴史の重み、自然の美しさ、そして何より人々の温かさが、訪れる人の心に深く刻まれるのだろう。
午前11時半、ペンションに戻ってチェックアウトの手続きを済ませた。マリアさんは「また必ず帰ってきてね。その時はもっと長く滞在して、イストリア半島の他の場所も訪れてほしいわ」と見送ってくれた。短い滞在期間だったが、まるで家族のように温かく迎えてくれた彼女の優しさは、この旅の最も大切な思い出の一つとなった。
バスの出発時刻まで少し時間があったので、最後にもう一度聖エウフェミア教会の鐘楼に上ることにした。2日前に初めて見た景色だが、今度は単なる美しい風景以上の意味を持って見えた。この2日間で歩いた道、出会った人々、味わった料理、すべてが一つの物語として繋がって見える。
鐘楼から見下ろすロヴィニの町は、まるで時が止まったかのように静かで美しかった。オレンジ色の屋根瓦、石畳の道、青いアドリア海。この景色を心の奥深くに刻みつけて、いつでも思い出せるようにしておきたいと思った。
正午のバスでロヴィニを離れる時間が来た。バスターミナルまでの道のりで、この2日間の体験を振り返った。単なる観光ではなく、この土地の文化や人々の生活に少しでも触れることができたことが、何より貴重な経験だった。
バスの窓から最後に見たロヴィニの景色は、到着した時と同じように美しかった。しかし、今度はその美しさの中に、より深い意味を感じることができた。それは単なる表面的な美しさではなく、長い歴史と文化、そして人々の生活が織りなす、本物の美しさだった。
バスが町を離れ、イストリア半島の丘陵地帯を走る中で、この旅で得たものの大きさを実感した。新しい場所を訪れることの喜び、異なる文化に触れることの楽しさ、そして何より、旅先で出会った人々の温かさ。これらすべてが、これからの人生の貴重な財産となるだろう。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この2泊3日のロヴィニの旅は、架空の体験として始まったものでした。しかし、文章を綴りながら、まるで本当にその場所を歩き、その空気を吸い、その土地の人々と語らったかのような感覚に包まれました。
空想の旅でありながら、ロヴィニの石畳を歩く足音、アドリア海の潮風、地元の人々の笑顔、そして何より、旅先で感じる特別な時間の流れ。これらすべてが、想像の中でありながらも、確かに心の中に存在している実感があります。
旅とは本来、単なる場所の移動ではなく、心の動きでもあります。新しい景色に出会う驚き、知らない文化に触れる喜び、そして日常から離れることで得られる新たな視点。これらの本質的な旅の価値は、実際の体験でも想像の中でも、変わることがないのかもしれません。
ロヴィニという美しい町への憧れと敬意を込めて、この空想旅行記を終えたいと思います。いつか実際にこの地を訪れることがあれば、きっとこの想像の記憶と重なり合い、より深い感動を与えてくれることでしょう。