地中海の宝石
マルタ共和国は、イタリアのシチリア島の南約93キロメートルに浮かぶ小さな島国だ。その首都バレッタは、地中海の歴史が幾重にも折り重なった街である。フェニキア人、ローマ人、アラブ人、聖ヨハネ騎士団、そしてイギリス。この小さな島は、その地理的な位置ゆえに、多くの文明の支配を受けてきた。
バレッタの街は、1565年のオスマン帝国との大包囲戦の後、聖ヨハネ騎士団によって計画的に建設された。グランドマスター、ジャン・ド・ラ・ヴァレットにちなんで名づけられたこの街は、蜂蜜色の石灰岩で造られた建物が立ち並び、地中海の強い日差しを浴びて輝いている。狭い路地、バルコニー、教会の鐘の音。すべてが歴史を語りかけてくる。
公用語はマルタ語と英語。マルタ語はアラビア語の影響を強く受けた独特の言語で、街を歩けばその音の響きが耳に入ってくる。気候は地中海性で、私が訪れる初夏は、海からの風が心地よい季節だった。
この2泊3日の旅は、一人で歩き、一人で感じる旅だ。小さな街だからこそ、ゆっくりと歩き、その空気を吸い込み、時間の流れを肌で感じることができる。
1日目: 石の街に降り立つ
朝、マルタ国際空港に降り立った。空港は小さく、すぐに外へ出ることができた。バスでバレッタへ向かう道すがら、窓の外には乾いた大地と、点在する蜂蜜色の家々が見えた。地中海の島らしい、どこか乾いた明るさがある。
バレッタの入口、シティ・ゲート前でバスを降りた。現代的なデザインのゲートをくぐると、目の前には急な坂道が延びていた。リパブリック通りだ。両脇には石造りの建物が立ち並び、その間を縫うように人々が歩いている。荷物を引きずりながら、私は宿へと向かった。
宿は旧市街の中心部、狭い路地を入ったところにあった。石造りの古い建物を改装したゲストハウスで、扉を開けると、ひんやりとした空気が肌に触れた。石の壁は夏の暑さから室内を守ってくれる。荷物を置き、窓を開けると、向かいの建物の壁が目の前にあり、その隙間から青い空が見えた。
午前中は街を歩いた。リパブリック通りを抜け、聖ヨハネ大聖堂へ向かう。扉を開けた瞬間、その内部の豪華さに息を呑んだ。天井にはマッティア・プレティによるフレスコ画が描かれ、床には騎士団員たちの墓石が埋め込まれている。一つ一つの墓石には紋章や彫刻が施され、踏みしめるのがためらわれるほどだ。静寂の中、観光客たちは声を潜めて歩いている。カラヴァッジョの「聖ヨハネの斬首」も展示されており、その暗さと光の対比に、しばらく立ち尽くした。
昼食は、大聖堂近くの小さなカフェで取った。マルタの伝統料理、パスティッツィを注文する。リコッタチーズやマッシュピーのペーストが入ったパイで、サクサクとした食感と塩気がちょうど良い。地元の人たちも立ち寄るような店で、カウンターでは年配の男性がマルタ語で談笑していた。
午後、アッパー・バラッカ・ガーデンへ向かった。リパブリック通りの端にある公園で、階段を上がると、目の前にグランドハーバーの絶景が広がった。青い海、対岸のスリーシティーズ、港に停泊する船。風が強く、帽子を押さえながら手すりにもたれた。ここからの眺めは、聖ヨハネ騎士団がこの地を選んだ理由を物語っている。要塞としての地形、天然の良港。美しさの裏に、戦略的な意図が透けて見える。
正午には、サルーティング・バッテリーで大砲が鳴らされる。観光客が集まり、カメラを構える。轟音が響き渡り、煙が立ち上る。かつて時刻を知らせるために毎日行われていた伝統が、今も続いている。
夕方、少し疲れを感じて宿に戻った。シャワーを浴び、ベッドに横になる。窓の外からは、遠くで話す声や、教会の鐘の音が聞こえてくる。バレッタの音だ。
夜、再び外へ出た。夕暮れ時のバレッタは、昼間とは違った表情を見せる。石の建物がオレンジ色に染まり、通りには柔らかい光が灯る。ストレート通りを歩き、レストランを探した。路地裏の小さな店に入ると、中は地元の人たちで賑わっていた。ウサギのシチュー、フェネクを注文する。マルタの伝統料理で、赤ワインで煮込まれた肉は柔らかく、ほろほろと崩れる。パンを浸して食べると、濃厚なソースの味が口いっぱいに広がった。
店を出ると、夜のバレッタは静かだった。街灯の明かりが石畳を照らし、遠くで猫が鳴いている。宿へ戻る道すがら、ふと空を見上げた。星が見えた。地中海の夜空だ。
2日目: 海と石の記憶
朝、宿の朝食はシンプルだった。パン、ジャム、コーヒー。窓から差し込む朝の光が、テーブルを照らしている。今日は少し足を延ばして、マルタ島の他の場所も訪れようと思った。
バスに乗り、ムディーナへ向かった。バレッタから約30分、内陸部に位置する古都だ。かつてのマルタの首都で、「静寂の街」と呼ばれている。バスを降りると、城壁に囲まれた街が目の前に現れた。門をくぐり、石畳の路地を歩く。観光客は少なく、静かだ。建物は古く、壁には歴史の重みが感じられる。
狭い路地を抜けると、サン・パウロ大聖堂の前に出た。バロック様式の美しい建物で、内部は静謐な空気に満ちていた。床のタイルは緻密な模様が描かれ、光が差し込むステンドグラスが色を放っている。長椅子に座り、しばらくその空間に身を置いた。
昼前、ムディーナの城壁の上を歩いた。そこからはマルタ島の田園風景が一望できる。畑、石垣、遠くに見える海。風が強く、髪が乱れた。ここは観光地でありながら、同時に人々の生活の場でもある。洗濯物が干されたバルコニー、路地で遊ぶ子供たち。
昼食は城壁近くのカフェで、マルタのパン、ホブス・ビズ・ゼイトを食べた。丸いパンにトマトペースト、ツナ、ケッパー、オリーブオイルを挟んだシンプルなサンドイッチだが、素材の味がしっかりと感じられる。地中海の味だ。
午後、バスでバレッタへ戻った。疲れていたが、もう少し歩きたい気分だった。国立考古学博物館へ向かう。マルタの先史時代からの歴史を展示している博物館で、特にタルシーン神殿から出土した「眠る女性」の像が有名だ。丸みを帯びた石の彫刻は、何千年も前に作られたとは思えないほど、柔らかさを感じさせる。展示を見て回りながら、この小さな島が紀元前から人々の営みの場であったことを実感した。
博物館を出ると、夕方の光が街を照らしていた。もう一度、アッパー・バラッカ・ガーデンへ向かった。昨日とは違う時間帯の光景を見たかった。夕暮れのグランドハーバーは、金色に染まっていた。船が静かに水面を移動し、対岸の建物が夕日を反射している。ベンチに座り、その景色をただ眺めた。風が少し冷たくなってきた。
夜は、ストレート通りのワインバーに入った。マルタのワインを飲みながら、オリーブやチーズをつまむ。隣の席では、地元のカップルが静かに会話を交わしている。バーテンダーは、私が一人だと気づくと、「マルタはどう?」と声をかけてくれた。「静かで、美しい」と答えると、彼は微笑んだ。「この街はゆっくりと味わうものだから」と。
宿に戻る頃には、通りはほとんど人がいなくなっていた。石畳に足音が響く。遠くで犬が吠えている。部屋に入り、ベッドに横になった。今日一日、たくさん歩いた。足は疲れていたが、心地よい疲れだった。
3日目: 別れの朝
最終日の朝は、早めに起きた。今日の午後には空港へ向かわなければならない。荷物をまとめ、もう一度、街を歩こうと思った。
朝のバレッタは静かだった。店はまだ開いておらず、掃除をする人の姿が見えるだけだ。リパブリック通りを歩き、ロウアー・バラッカ・ガーデンへ向かった。こちらはアッパーよりも静かで、訪れる人も少ない。朝の光がグランドハーバーを照らし、水面がキラキラと輝いていた。ベンチに座り、しばらくその景色を眺めた。もうすぐ、ここを去る。
庭園を出て、港の方へ降りていった。ウォーターフロントには、レストランやカフェが並んでいる。朝はまだ開いていないが、準備をしている人の姿が見えた。海沿いを歩くと、波の音が聞こえてくる。船が行き交い、カモメが鳴いている。
宿に戻り、チェックアウトを済ませた。オーナーは、「また来てね」と言ってくれた。荷物を持ち、もう一度、通りを歩いた。昨日までとは違う気持ちだった。別れの予感がある。
昼前、最後の食事をしようと、市場近くのカフェに入った。マルタのフィッシュスープ、アリオッタを注文する。トマトベースのスープに、白身魚、ニンニク、ハーブが入っている。素朴だが、滋味深い味だ。パンを浸して食べながら、この旅を振り返った。
たった2泊3日。短い滞在だったが、この街の空気を吸い、その石畳を歩き、人々の声を聞いた。バレッタは小さな街だが、その中には長い歴史と、今を生きる人々の営みがある。一人で歩いたからこそ、その細部に気づくことができた。
昼過ぎ、バスに乗り、空港へ向かった。窓の外には、来た時と同じ景色が流れていく。蜂蜜色の家々、乾いた大地、青い空。バレッタの街は遠ざかっていく。
空港で搭乗手続きを済ませ、出発を待った。ゲートの窓から、滑走路が見える。飛行機が離陸していく。もうすぐ、私も飛び立つ。
機内に乗り込み、座席に着いた。エンジンの音が響き、飛行機が動き出す。滑走路を走り、やがて浮き上がる。窓の外には、マルタ島が見えた。小さな島だ。その中心に、バレッタの街がある。地中海の青い海に囲まれて。
空想の中の確かな記憶
この旅は、実際には訪れていない、空想の旅である。しかし、文字を綴りながら、私はバレッタの石畳を歩き、グランドハーバーの風を感じ、パスティッツィの味を知ったような気がしている。
旅とは、足を運ぶことだけではないのかもしれない。想像し、調べ、そして心の中で歩くこと。それもまた、一つの旅の形だ。バレッタという街は確かに存在し、その歴史も、建物も、料理も、すべて実在する。私はそれらを組み合わせ、一人の旅人の視点で物語を紡いだ。
空想でありながら、確かにあったように感じられる旅。それは、その土地への敬意と、想像力が織りなす世界だ。いつか本当にバレッタを訪れる日が来たら、この空想の記憶と、実際の体験が重なり合うだろう。その時、私はきっと、すでに知っている街を、初めて訪れるのだ。
地中海の宝石、マルタ・バレッタ。蜂蜜色の石の街。そこには、時間が幾層にも重なり、今も人々が暮らしている。この空想の旅が、いつか誰かの本当の旅のきっかけになれば、それほど嬉しいことはない。

