はじめに
北イタリアのヴェネト州に位置するヴェローナは、古代ローマの歴史とルネサンスの美しさが溶け合う古都である。アルプスの南麓に広がるこの街は、アディジェ川が描く優雅な曲線に抱かれ、二千年の時を重ねてきた。
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の舞台として世界に知られるヴェローナだが、その魅力は恋愛物語にとどまらない。紀元前1世紀に建造されたアレーナ・ディ・ヴェローナは、今なお夏の夜にオペラの調べを響かせ、中世の面影を残すスカリジェリ家の城や橋は、当時の栄華を物語る。ロマネスク様式とゴシック様式が混在する建築群、石畳の路地に漂うエスプレッソの香り、そして人々の温かな笑顔―これらすべてが、訪れる者の心に深い印象を刻む。
アマローネやヴァルポリチェッラといった銘酒を生む豊かな丘陵地帯に囲まれ、ガルダ湖への玄関口でもあるヴェローナは、自然と文化が見事に調和した場所といえるだろう。

1日目: 石造りの街との出会い
ミラノからトレニタリアの高速列車で約1時間半、ヴェローナ・ポルタ・ヌオーヴァ駅に降り立ったのは午前11時頃だった。駅舎の外に出ると、北イタリアの澄んだ空気が頬を撫でていく。10月下旬のヴェローナは、まだ日中の陽射しに温かみがあるものの、朝夕には秋の深まりを感じさせる。
駅から旧市街へは徒歩で15分ほど。スーツケースを引きながら石畳の道を歩いていると、徐々に建物の色合いが変わってくるのに気づく。現代的なコンクリートの建物から、温かみのあるピンクがかった石造りの建物へ。これがヴェローナ特有のピエトラ・ディ・ペスキエーラ (ペスキエーラ石) だ。この石は古代ローマ時代から使われており、街全体に統一感のある美しさを与えている。
宿泊先のホテル・アカデミアは、エルベ広場からほど近い13世紀の建物を改装したブティックホテルだった。重厚な木の扉を押し開けると、フロントの女性が流暢な英語で迎えてくれる。「ボンジョルノ!ヴェローナへようこそ」という彼女の言葉に、旅の始まりへの期待が高まった。
部屋に荷物を置いて、まずは街の中心部へ向かう。ヴィア・マッツィーニを歩いていると、ショーウィンドウに並ぶイタリアンファッションの美しさに目を奪われる。しかし何より印象的だったのは、道行く人々の様子だった。急ぐでもなく、かといってだらだらするでもなく、彼らは街を歩くことそのものを楽しんでいるように見えた。
昼食は、地元の人に教えてもらったオステリア・ソット・レ・ヴォルテで取った。石造りのアーチが美しい地下の空間で、まずはアペリティーボからスタート。スプリッツ・ヴェネツィアーノを注文すると、オレンジ色に輝く美しいカクテルが運ばれてきた。アペロール、プロセッコ、ソーダ水の絶妙なバランスが、旅の疲れを癒してくれる。
メインディッシュには、ヴェネト州の郷土料理であるリゾット・アッラ・アマローネを選んだ。この地方特産の赤ワイン、アマローネを使ったリゾットは、深いコクと上品な酸味が特徴的だった。米一粒一粒にワインの風味が染み込み、パルミジャーノ・レッジャーノの塩気が全体を引き締める。こうした料理一つをとっても、この土地の歴史と文化の深さを感じずにはいられない。
午後は、いよいよヴェローナのシンボル、アレーナ・ディ・ヴェローナを訪れた。ブラ広場に堂々と佇むこの古代ローマの円形闘技場は、現存するものとしては世界で3番目の規模を誇る。外壁の一部は地震で崩れ落ちているものの、内部は驚くほど保存状態が良い。
石段に腰を下ろし、2000年前にここで繰り広げられた剣闘士の戦いに思いを馳せる。観客席から見下ろすアリーナの中央部分では、夏のオペラ公演に向けた舞台の設営が行われていた。古代と現代が共存するこの空間の不思議さに、時間の感覚が曖昧になっていく。
アレーナを出ると、ブラ広場のカフェで一休み。エスプレッソを飲みながら、広場を行き交う人々を眺めていた。犬を散歩させる老夫婦、手を繋いで歩く若いカップル、友人たちと談笑する学生たち―日常と非日常が自然に溶け合う光景がそこにあった。
夕方からは、ヴェローナ随一の美しさを誇るエルベ広場へ向かった。中世から続くこの市場広場は、今も野菜や果物、お土産物の露店で賑わっている。中央に立つマドンナ・ヴェローナの噴水は、古代ローマ時代の彫像を利用したもので、街の象徴として愛され続けている。
広場を囲む建物群の中でひときわ目を引くのが、マッフェイ宮殿だった。バロック様式の装飾が施されたファサードには、古代の神々の彫像が並び、威厳に満ちた佇まいを見せている。夕陽に照らされた石壁の温かな色合いが、広場全体を黄金色に染めていく。
夜は、カーザ・ディ・ジュリエッタ (ジュリエットの家) を訪れた。有名な観光地ではあるが、薄暮に包まれた中庭は昼間とは違った神秘的な雰囲気を醸し出していた。バルコニーを見上げながら、シェイクスピアが創造した永遠の愛の物語に想いを重ねる。実在の人物かどうかは定かでないが、この場所が多くの人々の心を動かし続けていることは紛れもない事実だった。
夕食は、アディジェ川沿いのリストランテ・イル・デスコで取った。ミシュランの星を獲得したこの店は、伝統的なヴェネト料理を現代的にアレンジしたメニューで知られている。アンティパストには、モンテ・ヴェロネーゼ・チーズとヴィチェンツァ産のアスパラガスを使ったサラダを。プリモピアットは、手打ちのビゴリにアンチョビとタマネギのソースを合わせた伝統料理。セコンドは、ヴァルポリチェッラ産の牛肉をアマローネワインで煮込んだ一品を選んだ。
どの料理も、素材の味を生かしながら洗練された調理技術で仕上げられており、まさに「食の芸術」と呼ぶにふさわしいものだった。特に、最後に出されたティラミスは格別で、マスカルポーネの滑らかな舌触りとエスプレッソの苦みが絶妙なハーモニーを奏でていた。
食事を終えて川沿いを散歩していると、対岸の建物群がライトアップされ、川面に美しい光の帯を作り出していた。カステル・サン・ピエトロの丘の上からは、街全体を見渡せるパノラマが広がっているはずだが、それは明日の楽しみに取っておくことにした。
ホテルに戻る道すがら、石畳に響く自分の足音を聞きながら、この街の特別な魅力について考えていた。ヴェローナには、観光都市でありながら地元の人々の生活が自然に息づいている。その絶妙なバランスが、訪れる者に心地よい居場所を提供してくれるのかもしれない。
2日目: 古い石と新しい発見
目覚めると、ホテルの窓から朝の光が差し込んでいた。時計を見ると午前7時。時差のせいもあるが、旅先では自然と早起きになるものだ。シャワーを浴びて身支度を整え、ホテルの朝食会場へ向かった。
イタリアの朝食はシンプルだが、それだけに素材の良さが際立つ。焼きたてのコルネット (イタリア版クロワッサン) にカプチーノ、そして地元産のハチミツをたっぷりかけたパンが基本のメニューだった。コルネットは外はサクサク、中はふんわりとした食感で、バターの香りが口いっぱいに広がる。カプチーノの泡は細かくクリーミーで、一口飲むたびに幸せな気分になった。
朝食後は、前日から楽しみにしていたカステル・サン・ピエトロへ向かった。アディジェ川にかかるピエトラ橋を渡り、丘の上へと続く石段を登っていく。この橋自体も見どころの一つで、古代ローマ時代に建設された後、中世に再建されたものだ。川の流れを眺めながら橋を渡ると、対岸の旧市街が一望できる絶好のフォトスポットがある。
石段を登る途中、地元の人らしい老人とすれ違った。「ボンジョルノ」と挨拶を交わすと、彼は立ち止まって「初めてのヴェローナ?」と片言の英語で話しかけてきた。イタリア人らしい人懐っこさに触れ、短い会話を楽しんだ後、「カステルからの眺めは最高だよ」と教えてくれた。
約15分の登りでカステル・サン・ピエトロに到着。ここから見下ろすヴェローナの街並みは、まさに絵葉書のような美しさだった。赤茶色の屋根瓦が敷き詰められた旧市街、その中に点在する教会の鐘楼、そしてアディジェ川が描く大きなカーブ。すべてが調和して、一枚の美しい絵画を形作っている。
特に印象的だったのは、朝の光に照らされたアレーナの姿だった。昨日間近で見た時とは全く違った印象で、街の中に溶け込むように佇んでいる。2000年という時の重みを感じさせながらも、現在の街の一部として自然に存在している様子に、改めて感動を覚えた。
丘を下りて午前中の残り時間は、サンタ・アナスタシア教会を訪れた。13世紀から14世紀にかけて建設されたこのゴシック様式の教会は、ヴェローナ最大の教会として知られている。ファサードは未完成のままだが、それがかえって素朴な美しさを醸し出している。
内部に入ると、天井の高さに圧倒される。薄暗い聖堂内に差し込む色とりどりのステンドグラスの光が、神秘的な雰囲気を作り出していた。特に祭壇の上に描かれたピサネッロのフレスコ画「聖ゲオルギウスと王女」は必見で、繊細な筆致で描かれた人物の表情や衣装の質感が印象的だった。
教会を出ると、もう正午を過ぎていた。昼食は地元の人で賑わう小さなトラットリア、アル・ボルサッティで取ることにした。メニューは手書きで、イタリア語のみ。店主らしい恰幅の良い男性が、身振り手振りで料理の説明をしてくれる。
注文したのは、パスタ・エ・ファジョーリという豆のスープパスタと、コトレッタ・アッラ・ミラネーゼ。パスタ・エ・ファジョーリは、インゲン豆をベースにした素朴な家庭料理で、パスタの食感と豆のほくほくした味わいが絶妙にマッチしていた。コトレッタは薄く叩いたヴィールにパン粉をつけて揚げたもので、外はカリッと中はジューシー。レモンを絞ってさっぱりといただく。
食事中、隣のテーブルの家族連れと自然に会話が始まった。彼らはヴィチェンツァから来た観光客で、ヴェローナは何度も訪れているという。「毎回新しい発見がある」と父親が言うと、母親も「特に秋のヴェローナは美しい」と同調する。地元の人々と観光客が自然に交流できる、この街の温かな雰囲気を改めて感じた瞬間だった。
午後は、スカラ家の霊廟 (アルケ・スカリジェーレ) を見学した。13世紀から14世紀にかけてヴェローナを支配したスカラ家 (スカリジェーリ家) の君主たちが眠る墓所で、ゴシック様式の華麗な装飾が施されている。特にカングランデ1世の騎馬像は見事で、馬上の彼の姿は生前の威厳をそのまま石に刻んだかのような迫力がある。
霊廟の隣にあるサンタ・マリア・アンティカ教会も合わせて見学。小さな教会だが、スカラ家の菩提寺として重要な歴史を持つ。質素な外観とは対照的に、内部には美しいフレスコ画が残されており、中世の宗教美術の粋を感じることができた。
その後、ヴィア・カップッリーニ周辺の古い街並みを散策した。この辺りは観光客も比較的少なく、地元の人々の日常生活を垣間見ることができる。石畳の小道には古い看板を掲げた職人の工房や小さな食材店が並び、中世の香りがそのまま残っている。
ある古い本屋で、店主の老紳士と話をする機会があった。彼は若い頃から店を営んでおり、「この街の変化を見てきた」という。「観光客は増えたが、街の魂は変わらない」と彼は語る。その言葉に、ヴェローナという街の本質的な魅力を感じた。
夕方、アディジェ川沿いを散歩しながら、対岸のカステル・ヴェッキオに向かった。14世紀にスカラ家によって建設されたこの城は、現在は市立美術館として使われている。城内には、ヴェネト派の絵画や彫刻が展示されており、特にアンドレア・マンテーニャの作品群は見応えがあった。
城の最上階からは、先ほど登ったカステル・サン・ピエトロとは反対側からヴェローナの街を眺めることができる。夕陽に染まった街並みは、朝とは全く違った表情を見せていた。屋根瓦の赤が深みを増し、石造りの建物が温かな黄金色に輝いている。
カステル・ヴェッキオと旧市街を結ぶスカリジェロ橋も見どころの一つだった。城の一部として建設されたこの橋は、中世の軍事建築の傑作とされている。第二次世界大戦で破壊された後、オリジナルの石材を使って忠実に再建されたという歴史も興味深い。
夜は、地元のワインバーでアペリティーボを楽しんだ。ヴァルポリチェッラ・クラッシコを注文すると、店主が「これは近くの畑で作られたもの」と誇らしげに説明してくれる。グラスを傾けると、チェリーやプラムを思わせる果実の香りが立ち上がる。軽やかながら深みのある味わいは、まさにこの土地の恵みそのものだった。
夕食は、ローカルな雰囲気を重視してピッツェリア・ダ・サルヴァトーレを選んだ。薪窪でじっくりと焼かれたピッツァ・マルゲリータは、生地がもちもちしていて、トマトソースとモッツァレラチーズのシンプルな美味しさが際立っていた。バジルの香りが口の中に広がり、イタリアの太陽の恵みを感じる。
食事を終えて夜のヴェローナを歩いていると、街の表情がまた変わることに気づく。昼間の賑やかさとは対照的に、夜の街は静寂に包まれ、石畳に響く足音だけが時の流れを告げている。街灯に照らされた古い建物の陰影が美しく、まるで中世にタイムスリップしたような錯覚を覚えた。
ホテルに戻る前に、エルベ広場をもう一度訪れた。昼間は観光客や地元の人で賑わっていた広場も、夜になると別の顔を見せる。マドンナ・ヴェローナの噴水がライトアップされ、周囲の建物群と共に幻想的な雰囲気を醸し出していた。
部屋に戻り、一日を振り返りながらベッドに横になる。ヴェローナという街は、確かに観光都市としての魅力に満ちているが、それ以上に人々の暮らしや歴史が自然に息づいている場所だと感じた。明日はもう最終日。この街との別れが少し寂しく思えてきた。
3日目: 別れの調べ
最終日の朝は、いつもより早い午前6時半に目が覚めた。窓の外はまだ薄暗いが、街が静かに目覚めを迎える気配を感じる。この時間のヴェローナを体験したくて、そっと部屋を出た。
ホテルのロビーを抜けて外に出ると、石畳には朝露が薄っすらと降りている。まだ人通りはほとんどなく、街が私一人のもののような錯覚を覚える。昨日までとは違う、特別な時間が始まろうとしていた。
エルベ広場に向かう途中、小さなバール (カフェ) の店主が店を開ける準備をしているのに出会った。「ボンジョルノ、プレスト! (おはよう、早いね!) 」と声をかけられ、片言のイタリア語で「ヴェローナは美しいですね」と答えると、彼は嬉しそうに笑った。「コーヒーはいかが?」という誘いに甘えて、朝一番のエスプレッソをいただく。
まだ誰もいないエルベ広場で、マドンナ・ヴェローナの噴水の前に立った。朝の光に照らされた彫像は、昼間や夜間とは全く違った表情を見せている。穏やかで慈愛に満ちた表情が、これから始まる一日を祝福してくれているかのようだった。この瞬間を心に焼き付けようと、しばらくその場に佇んでいた。
朝食後、最終日の計画を実行に移した。まずは、ヴェローナ大聖堂 (ドゥオーモ) を訪れることにした。ロマネスク様式とゴシック様式が混在するこの大聖堂は、12世紀に建設が開始され、長い年月をかけて完成された。
大聖堂の前に立つと、その重厚な存在感に圧倒される。ファサードには精緻な彫刻が施されており、特に中央扉の周りに配された聖書の場面を描いた浮き彫りは見事だった。内部に入ると、高い天井を支える柱の美しさに目を奪われる。ここでも色とりどりのステンドグラスが差し込む光を彩り、神聖な雰囲気を作り出していた。
祭壇の奥にあるティツィアーノの「聖母被昇天」は、この教会の至宝の一つだ。ヴェネツィア派の巨匠が描いたこの作品は、聖母マリアが天に昇る瞬間を劇的に表現している。鮮やかな色彩と動的な構図が、見る者の心を強く揺さぶる。
大聖堂を出て、隣接する洗礼堂も見学した。12世紀の建物で、内部には美しいフレスコ画が残されている。特に天井に描かれた「最後の審判」は、中世の宗教画の傑作として知られている。
午前中の最後に、サン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂を訪れた。市街中心部から少し離れた場所にあるこの教会は、ロマネスク建築の最高傑作の一つとされている。12世紀に建設されたこの聖堂は、シンプルながら力強い美しさを持っている。
正面扉の青銅製パネルには、旧約・新約聖書の場面が彫り込まれており、中世の工芸技術の高さを物語っている。内部では、アンドレア・マンテーニャが描いた祭壇画「聖母子と聖人たち」が圧巻だった。遠近法を駆使した革新的な構図と、写実的な人物表現は、ルネサンス美術の到達点を示している。
昼食は、旅の最後にふさわしい特別な場所を選んだ。アディジェ川沿いにあるリストランテ・グレプピアは、地元の食材にこだわった料理で知られている。窓から川の流れを眺めながら、ヴェローナでの最後の食事を楽しんだ。
アンティパストには、ヴェネト州の伝統的な前菜の盛り合わせを注文。モンテ・ヴェロネーゼ・チーズ、ソプレッサ・ヴィチェンティーナ (サラミ) 、マリネした野菜などが美しく盛りつけられている。どれも素材の味が生きており、この土地の豊かさを改めて実感した。
プリモピアットは、この旅で何度も味わったアマローネのリゾット。今日のものは昨日のものとは微妙に違う味わいで、同じ料理でも作り手によって個性が生まれることを再認識した。セコンドには、アディジェ川で獲れた川魚の塩焼きを選択。淡白ながら上品な味わいが、ワインとよく合った。
食事と一緒に注文したヴァルポリチェッラ・アマローネは、この地方を代表する逸品だった。干しぶどうから作られるこのワインは、濃厚で複雑な味わいを持ち、まさに「ワインの王様」と呼ぶにふさわしい。最後の一滴まで大切に味わいながら、ヴェローナでの思い出を振り返った。
午後は、お土産を買いながら街を散策した。ヴィア・マッツィーニの老舗の食材店で、ヴェローナ産のハチミツとオリーブオイルを購入。店主に勧められて、アマローネワインも一本選んだ。これらは帰国後も、この旅の記憶を呼び起こしてくれるだろう。
夕方、カステル・サン・ピエトロに再び登った。初日の朝とは違い、夕陽に染まるヴェローナの街並みを目に焼き付けるためだった。アディジェ川がオレンジ色に輝き、赤い屋根瓦の家々が夕陽を反射している。この美しい光景を前に、言葉を失った。
丘を下りながら、この3日間で出会った人々のことを思い出していた。ホテルのフロントの女性、バールの店主、教えてくれた老紳士、トラットリアの家族、本屋の主人―みんなが温かく迎えてくれた。観光客と地元の人という区別を超えて、人として接してくれたその優しさが、この旅を特別なものにしてくれた。
夕食は軽めに、エルベ広場近くの小さなエノテカで済ませた。地元産のチーズとサラミ、そして最後のヴァルポリチェッラ・クラッシコ。シンプルだが、素材の良さが際立つ完璧な組み合わせだった。
食事を終えて、夜のヴェローナを最後に歩いた。石畳に響く足音、街灯に照らされた古い建物の壁、遠くから聞こえてくる教会の鐘の音―すべてが愛おしく感じられた。
アレーナの前を通り過ぎる時、ふと立ち止まった。ライトアップされた円形闘技場は、闇の中で静かに佇んでいる。2000年もの間、この場所で繰り広げられた人間ドラマを思うと、自分という存在の小ささと同時に、この瞬間この場所にいることの奇跡を感じた。
ホテルに戻り、スーツケースに荷物を詰めながら、窓の外を眺めた。石造りの建物に囲まれた中庭には、小さな噴水があり、その水音が静かな夜に響いている。明日の朝には、この街を離れなければならない。そう思うと、胸に何かがこみ上げてきた。
ベッドに横になり、天井を見つめながら、この3日間を反芻する。ヴェローナは、歴史と現在が見事に調和した街だった。古代ローマの遺跡、中世の城や教会、ルネサンスの芸術作品―それらすべてが今も生きている。そして何より、そこに暮らす人々の温かさが、この街の真の魅力だと気づいた。
最後に
翌朝、ホテルをチェックアウトし、駅へと向かう道を歩きながら、ヴェローナという街の本質について考えていた。この街が特別なのは、単に美しい建築物や歴史的遺産があるからではない。過去と現在が自然に共存し、観光客と地元の人々が同じ空間を共有し、日常と非日常が溶け合っている―そのバランスの見事さにあるのだと思う。
駅のホームで電車を待ちながら、最後にもう一度、ヴェローナの空を見上げた。北イタリアの澄んだ青空が、どこまでも広がっている。この空の下で過ごした3日間は、確かに私の中に刻まれた。
石造りの街並み、アディジェ川の流れ、アマローネワインの深い味わい、出会った人々の笑顔―それらすべてが、今も鮮明に心に残っている。そして不思議なことに、この旅は空想の中で紡がれたものでありながら、確かにあったことのように感じられるのだ。
実際に足を運んでいなくても、心はヴェローナの石畳を歩き、アレーナの石段に座り、エルベ広場の噴水の前に立っていた。想像力は時に、物理的な距離を超えて、私たちを遠い場所へと連れて行ってくれる。そしてその旅もまた、確かな記憶として残るのだ。
いつか本当にヴェローナを訪れる日が来るかもしれない。その時、この空想の旅で感じたことが、現実の体験とどう重なり、どう違うのか―それを確かめることも、また楽しみの一つだろう。
ヴェローナよ、アリヴェデルチ。いつかまた、あなたの街を歩ける日を夢見て。

