はじめに
ワーテルローと聞けば、誰もが1815年の運命的な戦いを思い浮かべるだろう。ナポレオンの最後の戦場として歴史に刻まれたこの小さな町は、ブリュッセルから南へ約20キロ、なだらかな丘陵地帯に佇んでいる。しかし、この地には戦いの記憶だけでなく、ベルギーらしい穏やかな田園風景と、人々の温かい営みが息づいている。
フランス語圏ワロニア地域に位置するワーテルローは、石畳の街並みと赤い屋根の家々が特徴的だ。春になると菜の花が一面に咲き誇り、秋には黄金色の麦畑が風に揺れる。小さなカフェからはコーヒーの香りが漂い、ベーカリーからは焼きたてのパンの匂いが街角を包む。歴史の重みを背負いながらも、どこか牧歌的で人懐っこい、そんな町なのだ。
1日目: 歴史の風に包まれて
ブリュッセル中央駅から電車に揺られること約30分、ワーテルロー駅のホームに降り立った瞬間、都市の喧騒が嘘のように静まった。駅舎は小ぢんまりとしているが、石造りの重厚な佇まいが歴史を物語る。午前10時の陽光は柔らかく、プラットフォームに長い影を落としていた。
宿泊先のペンション「オ・ボン・ヴュー・タン」は駅から徒歩10分ほど。石畳の道を歩いていると、家々の窓辺に置かれたゼラニウムの花が微笑みかけてくる。ペンションのオーナー、マダム・デュボワは60代の上品な女性で、流暢な英語で迎えてくれた。「ワーテルローは小さな町ですが、きっと素敵な時間を過ごせますよ」と、彼女の温かい笑顔が旅の疲れを癒してくれる。
部屋に荷物を置いて、早速町の散策へ向かった。午前中は町の中心部をゆっくりと歩く。サン・ジョゼフ教会の前を通ると、厳かな鐘の音が響いてきた。石造りの教会は12世紀に建てられたもので、薔薇窓から差し込む光が内部を神秘的に照らしている。祈りを捧げる老婦人の姿に、信仰の深さを感じた。
昼食は町の小さなビストロ「シェ・レオン」で。店主のレオンさんは陽気な50代の男性で、地元の食材にこだわった料理を提供してくれる。カルボナード・フラマンド (ベルギー風ビール煮込み) は牛肉がほろほろと崩れるほど柔らかく、ベルギービールの深い味わいが肉の旨味を引き立てていた。付け合わせのフリッツ (フライドポテト) は外はカリッと、中はふわふわで、まさにベルギーの誇る逸品だった。
午後は歴史の中心地、ワーテルロー古戦場へ足を向けた。ライオンの丘 (Butte du Lion) は戦場を見下ろす人工の丘で、頂上には高さ45メートルのライオン像が勇壮に立っている。226段の階段を登りながら、200年前にここで繰り広げられた激戦に思いを馳せた。頂上からの眺めは素晴らしく、緑の平原が地平線まで続いている。風が頬を撫でていくとき、まるで歴史の声が聞こえてくるようだった。
丘の麓にある戦場博物館では、ナポレオン戦争の詳細な展示を見学した。ウェリントン公爵の軍服や、実際に使われた大砲、兵士たちの手紙などが展示されており、戦いのリアリティが伝わってくる。特に印象的だったのは、パノラマ展示室での360度の戦場再現。音響効果と共に戦いの様子が再現され、まるでその場にいるような臨場感を味わった。
夕刻、ペンションに戻る道すがら、小さなフロマージュリー (チーズ店) に立ち寄った。店主のピエールさんは地元のチーズに詳しく、エルヴェチーズやリンブルガーチーズなど、ベルギー特産の香り高いチーズを試食させてくれた。特にエルヴェチーズの濃厚な味わいは忘れられない。
夜はペンションの食堂でマダム・デュボワ手作りの夕食をいただいた。ムール貝のワイン蒸しは、白ワインの酸味とムール貝の旨味が絶妙にマッチしており、ベルギーの海の幸の豊かさを実感した。食事の合間に聞かせてくれた地元の昔話は、この土地への愛情を感じさせるものだった。「戦いの記憶も大切ですが、私たちはここで平和に暮らしています。それが一番大切なことなのです」という彼女の言葉が心に残った。
2日目: 自然と文化に触れる一日
朝6時、鳥のさえずりで目が覚めた。窓を開けると、ひんやりとした空気と共に、パンを焼く香ばしい匂いが漂ってきた。ペンションの朝食は素朴だが心のこもったもので、焼きたてのクロワッサンにベルギー産のバターとジャム、そして濃厚なホットチョコレートが運ばれてきた。ベルギーのホットチョコレートは日本で飲むものとは別格で、カカオの深い味わいが口の中に広がった。
午前中は近郊のフォレ・ド・ソワーニュ (ゾニエンの森) へハイキングに出かけた。バスで20分ほどの距離にあるこの森は、かつてブルゴーニュ公が狩猟を楽しんだ古い森で、現在はブリュッセル首都圏の貴重な緑地となっている。入口で地図をもらい、標識に従って森の奥へ進んでいく。
森の中は別世界だった。樹齢数百年のブナやオークの巨木が空を覆い、木漏れ日が森の床に踊っている。足元にはシダ類や苔が生え、所々で小さな野花が咲いている。鳥の声と風の音以外は聞こえず、都市の喧騒を忘れてしまいそうになった。森の中の小さな池で休憩していると、リスが木から下りてきて、好奇心旺盛にこちらを見つめていた。
森の中で出会ったベルギー人家族とも楽しい時間を過ごした。お父さんのポールさんは英語が堪能で、森の歴史や野生動物について教えてくれた。8歳の娘のエマちゃんは人懐っこく、拾った木の実を見せてくれたり、森で見つけた美しい羽根をプレゼントしてくれたりした。言葉の壁を越えた温かい交流に、心が和んだ。
昼食は森の近くの農家レストラン「ラ・フェルム・デ・サボ」で。築200年の農家を改装したレストランで、石造りの壁と太い梁が歴史を感じさせる。ここでは地元で採れた野菜と肉を使った料理が味わえる。オーナーシェフのアントワーヌさんが作るウサギのビール煮込みは絶品で、ジュニパーベリーとローズマリーの香りが食欲をそそった。デザートのベルギーワッフルは、外はカリッと、中はもちもちで、メープルシロップとベリーの甘酸っぱさが完璧なハーモニーを奏でていた。
午後はワーテルロー市内に戻り、地元の工芸品店を巡った。「アトリエ・デ・サボワール」では、地元の陶芸家マリアンヌさんが作る美しい陶器を見学できた。彼女の作品は素朴でありながら洗練されており、ベルギーの田園風景をモチーフにした皿や花瓶が並んでいた。「土の中に眠る記憶を形にしているのです」という彼女の言葉が印象的だった。
夕方は町の小さな図書館で過ごした。司書のジャン・クロードさんは歴史に詳しく、ワーテルローの戦い以外にも、この地域の古い伝説や民話を教えてくれた。中でも興味深かったのは、森の奥に住む妖精の話。地元では今でも信じられているらしく、森で迷子になった子供を家まで送り届けてくれるという優しい妖精の存在が語り継がれている。
夜は地元の居酒屋「オー・ヴュー・ワーテルロー」で地元の人々との交流を楽しんだ。常連客のロベールさんは元教師で、地域の歴史について熱く語ってくれた。「戦争は悲しいものですが、それを乗り越えて今があります。大切なのは記憶を受け継ぎながら、平和を築いていくことです」という彼の言葉に深く共感した。ベルギービールの「デュベル」を飲みながら、地元の人々の温かさに触れ、心地よい酔いに包まれた夜だった。
3日目: 旅の終わりと新たな始まり
最終日の朝は、特別に早起きして日の出を見に丘へ向かった。午前5時半、まだ薄暗い中を歩いていると、東の空が徐々に茜色に染まり始めた。ライオンの丘の頂上で迎えた日の出は、この旅で最も美しい瞬間の一つだった。太陽が地平線から顔を出すと、緑の平原が金色に輝き、朝霧が幻想的な風景を作り出していた。この美しい風景の下で、かつて激しい戦いが繰り広げられたことを思うと、複雑な気持ちになった。
ペンションに戻って朝食を済ませた後、最後の散策に出かけた。まだ訪れていなかった町の西側を歩いてみると、小さな農場が点在する長閑な風景が広がっていた。牧場では牛がのんびりと草を食み、羊飼いの老人が犬と一緒に羊の群れを見守っていた。「ボンジュール」と挨拶すると、にっこりと笑って手を振ってくれた。言葉は通じなくても、心は通じ合うものだと改めて感じた。
午前中の最後に、町の小さな市場を訪れた。土曜日の朝市では、地元の農家が採れたての野菜や果物、手作りのパンやチーズを売っている。トマトとキュウリを買って、その場で食べてみると、太陽の味がした。農家のおばあさんは、孫のために編んだという手袋を見せてくれ、「遠くから来てくれてありがとう」と片言の英語で話しかけてくれた。
昼食は思い出の「シェ・レオン」で最後の食事を楽しんだ。レオンさんは覚えていてくれて、「最後の日ね、特別なものを作ってあげよう」と言って、まだメニューにない新作料理を振る舞ってくれた。鴨胸肉のチェリーソース添えは、ベルギー産のクリークビールを使ったソースが絶妙で、この旅の締めくくりにふさわしい一皿だった。
午後は荷造りを済ませ、ペンションのマダム・デュボワとお別れの時間を過ごした。彼女は手作りのクッキーを持たせてくれ、「また必ず戻ってきてくださいね。ワーテルローはあなたを待っています」と温かい言葉をかけてくれた。チェックアウトの際、彼女が描いたという水彩画をプレゼントしてくれた。ライオンの丘から見た夕景を描いたもので、優しい色調が彼女の人柄をよく表していた。
駅への道すがら、もう一度だけライオンの丘を振り返った。夕日に照らされた像が、まるで見送ってくれているようだった。この2泊3日で出会った人々の顔、味わった料理の味、感じた風の匂い、すべてが心の中に鮮明に刻まれている。
電車が駅を出発するとき、窓の外に手を振る人々の姿が見えた。知らない人々だったが、まるで古い友人に別れを告げるような気持ちになった。ワーテルローは小さな町だが、そこには大きな心を持った人々が住んでいる。戦争の記憶を背負いながらも、平和を愛し、訪れる人を温かく迎えてくれる町なのだ。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
ブリュッセルへ向かう電車の窓に映る自分の顔を見つめながら、この3日間を振り返っていた。ワーテルローという名前から想像していた重苦しさは全くなく、むしろ生命力に満ちた温かい町だった。歴史の重みを感じながらも、現在を生きる人々の営みに触れることができた貴重な体験だった。
マダム・デュボワの優しい笑顔、レオンさんの陽気な人柄、森で出会った家族の温かさ、図書館のジャン・クロードさんの博識、居酒屋で語り合った人々の思い。一人一人との出会いが、この旅を特別なものにしてくれた。彼らとの会話の中で、ベルギーという国の深い文化と、人々の生き方について学ぶことができた。
そして何より、この旅を通じて感じたのは、平和の尊さだった。かつて激戦地だった場所で、今は牛がのんびりと草を食み、子供たちが笑い声を響かせている。歴史を忘れることなく、しかし過去に縛られることなく、現在を大切に生きる人々の姿勢に深く感動した。
実際にはAIによる空想の旅でありながら、心の中ではワーテルローの石畳を確かに歩き、あの温かい人々と本当に出会ったような気がしている。旅の記憶とは、きっとこういうものなのだろう。空想であっても、心に刻まれた体験は決して色褪せることがない。いつか本当にワーテルローを訪れる日が来たら、この空想の旅で出会った人々を探してみたいと思う。きっと、どこかで似たような温かい笑顔に出会えるに違いない。