千年古都への憧れ
黄土高原の南縁に位置する西安は、かつて長安と呼ばれた中国古代文明の中心地である。シルクロードの起点として東西文化の交流点となり、唐の時代には世界最大の都市として栄華を極めた。兵馬俑の発見によって世界的に知られるようになったこの古都は、現在も城壁に囲まれた旧市街と近代的な新市街が共存し、悠久の歴史と現代の活力が織りなす独特の魅力を放っている。
渭河の支流である灞河と滻河に挟まれた肥沃な平野に築かれた西安は、温帯大陸性気候に属し、四季がはっきりしている。春には槐の花が咲き誇り、秋には柿の実が街角を彩る。関中平野の豊かな農産物と、陝西省独特の食文化が育んだ麺料理の数々は、訪れる者の心と胃袋を同時に満たしてくれる。
この古都への憧れを胸に、私は2泊3日の一人旅に出かけることにした。歴史の重層に触れ、現代に生きる西安の人々との交流を通じて、時を超えた旅路を歩んでみたいと思ったのだ。
1日目: 城壁に守られた古都との出会い
咸陽空港に降り立った時、乾いた空気が頬を撫でていった。機場大巴 (エアポートバス) の窓から見える景色は、予想していた古風な街並みとは異なり、高層ビルが立ち並ぶ現代都市の姿だった。しかし市内中心部に近づくにつれて、遠くに見える明代の城壁が次第にその威容を現し、ようやく古都西安に到着したという実感が湧いてきた。
宿泊先の民宿は、鐘楼の近くの古い四合院を改装したものだった。狭い胡同 (路地) を抜けて重い木の扉を開けると、中庭を囲むように客室が配置された伝統的な造りが目に飛び込んできた。女主人の王さんは、陝西なまりの強い標準中国語で親しみやすく出迎えてくれた。「西安は初めて？兵馬俑だけじゃないのよ、この街の魅力は」と笑いながら、手作りの地図に美味しい小吃 (軽食) の店を書き込んでくれた。
荷物を置いて最初に向かったのは、徒歩圏内にある鐘楼だった。14世紀に建立されたこの楼閣は、西安旧市街の中心に位置し、四方に延びる大街の起点となっている。午後の傾きかけた陽光が、緑色の瑠璃瓦屋根を美しく照らしていた。楼上に登ると、城壁に囲まれた旧市街が一望でき、現代的な高層ビル群との対比が印象的だった。遠くには秦嶺山脈の山並みが薄青く連なり、この盆地都市の地理的特徴を実感させてくれた。
鐘楼から南に少し歩くと、西安のシンボルともいえる大雁塔が見えてきた。玄奘三蔵がインドから持ち帰った仏典を保管するために建立されたこの塔は、唐代の文化の高さを物語る貴重な遺構である。塔の周囲は大雁塔広場として整備され、噴水ショーで有名な場所でもあるが、夕方の静かな時間帯に訪れると、塔の持つ荘厳さがより一層感じられた。
夜が近づいてきたので、王さんに教えてもらった回民街へ向かった。鐘楼から北西に延びるこの一帯は、イスラム系回族の居住区として知られ、西安の食文化の多様性を象徴する場所でもある。石畳の狭い路地の両側には、羊肉泡馍、肉夾馍、涼皮などの店が軒を連ね、香辛料の香りが夜風に混じって漂っていた。
最初に入った店で注文したのは、西安名物の羊肉泡馍だった。堅いパンを細かくちぎって椀に入れ、それを厨房に持参すると、羊肉のスープで煮込んで戻してくれる。テーブルに運ばれてきた一椀は、羊肉の旨味がパンに染み込んで絶妙な味わいを作り出していた。現地の人たちに混じって黙々と啜る羊肉泡馍の味は、旅の疲れを癒してくれる滋味深いものだった。
食後、回民街をそぞろ歩きしていると、路地の奥で太極拳を練習する老人たちの姿が目に留まった。ゆっくりとした動作で型を繰り返す姿は、西安の夜の静寂に溶け込んで美しかった。見知らぬ旅人である私にも、「一緒にやってみるか？」と声をかけてくれる優しさに、この街の人々の温かさを感じた。
夜遅く民宿に戻ると、中庭では他の宿泊客たちが女主人を囲んで茶を飲んでいた。西安出身の大学生、上海からの夫婦、ドイツからのバックパッカーなど、様々な背景を持つ人々が、この古都への思いを語り合っていた。旅の初日から、予想以上に豊かな出会いと体験に恵まれ、明日への期待が高まった。
2日目: 兵馬俑に見る皇帝の夢
朝の陽光が中庭に差し込む中、女主人が用意してくれた朝食をいただいた。小籠包、豆漿、咸菜の素朴な取り合わせは、旅先の朝にふさわしい清々しさがあった。「今日は兵馬俑でしょう？バスより火車 (列車) の方が風情があるわよ」という王さんのアドバイスに従い、西安駅から臨潼行きの普通列車に乗ることにした。
西安駅は古い建物だが、朝から大勢の人々で賑わっていた。農民工らしき出稼ぎ労働者、観光客、地元の人々が混在する雑踏の中を抜けて、ホームに向かった。臨潼行きの列車は、緑色に塗装された古い客車で、座席は硬いベンチタイプだったが、車窓から見える関中平野の田園風景は、現代的な高速鉄道では味わえない趣があった。
約1時間の列車旅を経て臨潼駅に到着すると、兵馬俑博物館行きのバスが待っていた。バスは柿畑や農家の家並みを抜けて走り、やがて世界遺産の標識が見えてきた。入口で日本語のオーディオガイドを借り、まず1号俑坑へ向かった。
巨大な格納庫のような建物の中に入ると、そこには言葉を失うような光景が広がっていた。約2000年前に制作された数千体の兵馬俑が、整然と隊列を組んで立ち並んでいる。一体一体の表情や装束が微妙に異なり、当時の工人たちの技術の高さと、始皇帝の権力の絶大さを物語っていた。静寂の中に立つ兵馬俑たちは、今もなお皇帝の陵墓を守り続けているかのような威厳を放っていた。
2号俑坑、3号俑坑と見学を続けるうちに、この地下軍団の壮大さがより深く実感された。騎兵俑、歩兵俑、戦車の精巧な作りは、秦の統一事業の規模と、古代中国の文明の高さを証明する貴重な遺産である。発掘作業が現在も続けられている様子を見ると、まだ多くの秘密がこの地に眠っていることが想像された。
午後は隣接する秦始皇帝陵園博物院を訪れた。兵馬俑の発見のきっかけとなった農民の楊志発さんが、今も博物館で見学者に説明をしている姿に出会えたのは幸運だった。1974年に井戸を掘っていて偶然兵馬俑を発見したという彼の体験談は、歴史的発見の瞬間を身近に感じさせてくれるものだった。
帰りの列車では、隣に座った西安の歴史教師と興味深い会話を交わした。「兵馬俑は確かに素晴らしいが、西安の魅力はそれだけではない。明日は城壁を歩いてみるといい。あそこから見る西安の街並みは格別だ」と教えてくれた。車窓に流れる夕暮れの田園風景を眺めながら、古代と現代が共存するこの土地の奥深さについて考えていた。
西安駅に戻ると、もう薄暮の時刻だった。駅前から延びる解放路を歩いて市内中心部に向かう途中、偶然見つけた小さな書院茶館に立ち寄った。古い四合院を改装した静かな空間で、琴の音色が流れる中、碧螺春を味わいながら一日を振り返った。茶館の主人は書道家でもあり、「西安」の文字を美しい草書で書いてくれた。墨の香りと茶の香りが混じり合う空間で過ごす時間は、忙しい観光とは一味違う旅の楽しみを教えてくれた。
夜は再び回民街を訪れ、今度は肉夾馍を試してみた。パンに挟まれた豚肉の煮込みは、昨夜の羊肉泡馍とはまた違った西安の味わいだった。屋台で食事をしていると、隣に座った地元の老人が「西安の食べ物はどうだ？」と気さくに話しかけてくれた。関中の方言混じりの中国語は聞き取りにくかったが、故郷の味を誇りに思う気持ちがよく伝わってきた。
民宿に戻る頃には、街灯に照らされた鐘楼が夜空に浮かび上がって見えた。2日目の終わりに、古代皇帝の夢の痕跡と現代に生きる人々の温かさの両方に触れることができた満足感があった。
3日目: 城壁を歩き、時代を想う
最終日の朝は、いつもより早く目を覚ました。中庭で朝の空気を吸いながら、これまでの西安での体験を心の中で整理していた。女主人の王さんが「最後の日だから、特別な朝食を用意したのよ」と言って、胡辣湯と焼餅を出してくれた。胡辣湯は陝西省の伝統的な朝食スープで、胡椒の効いた酸辣いスープに豆腐や野菜、卵が入った庶民的な味だった。体が内側から温まり、旅の疲れが癒されるような気がした。
朝食後、歴史教師のアドバイスに従って城壁を歩くことにした。南門 (永寧門) から城壁に上ると、全長約14キロメートルの明代城壁が市街地を囲む壮大な景観が一望できた。城壁の上部は幅12-14メートルもあり、自転車をレンタルして一周することも可能だが、私は徒歩でゆっくりと歩くことを選んだ。
城壁の上を歩きながら、内側に広がる旧市街と外側の新市街の対比を眺めていると、西安という都市の重層性がよく理解できた。旧市街には伝統的な建物と現代的な店舗が混在し、新市街には高層ビル群が立ち並んでいる。この二つの世界を隔てる城壁そのものが、過去と現在を結ぶ架け橋のような存在に思えた。
城壁からは、昨日訪れた鐘楼や大雁塔も見えた。それらの建物が持つ歴史的意味を、より俯瞰的な視点から理解することができた。特に大雁塔の方角を見ると、唐の長安城の規模がいかに巨大だったかが想像され、シルクロードの起点として栄えた当時の繁栄ぶりに思いを馳せた。
城壁歩きの途中で出会った西安の大学生は、流暢な日本語で話しかけてくれた。日本語を専攻している彼女は、「城壁から見る西安は特別でしょう？私たちにとって、この城壁は単なる観光地ではなく、日常生活の一部なんです」と教えてくれた。地元の人々にとって城壁がどのような存在なのかを知ることができ、観光客とは異なる視点を得ることができた。
午後は、西安碑林博物館を訪れた。中国書道芸術の宝庫とも呼ばれるこの博物館には、歴代の名碑が展示されている。石に刻まれた文字を眺めていると、中国文化の深い伝統と、文字に込められた先人たちの思いが伝わってくるようだった。特に唐代の書家・顔真卿の碑文は、力強い筆致で書かれた文字が今なお生命力を保っていることに感動した。
博物館の庭園では、地元の書道愛好家たちが水書 (水で地面に文字を書く練習) をしている光景に出会った。筆に水を含ませて石畳に文字を書く姿は、中国文化の日常への浸透を示す美しい風景だった。見学していると、「一緒にやってみませんか？」と声をかけられ、短時間だったが貴重な体験をさせてもらった。
夕方になり、旅の最後の食事として、王さんが教えてくれた老字号 (老舗) の餃子館を訪れた。蒸餃、煎餃、水餃など様々な種類の餃子を味わいながら、3日間の西安滞在を振り返った。一つ一つの餃子に込められた職人の技と、それを受け継ぐ店の歴史に、この街の文化的厚みを感じた。
餃子館から民宿への帰り道、夕暮れの回民街を最後にもう一度歩いてみた。3日前の到着時とは異なる親しみやすさを感じられるのは、短い期間でもこの街との距離が縮まったからだろう。路地の角々に刻まれた時間の痕跡と、そこに生きる人々の営みが、旅人である私にも温かく感じられた。
民宿で荷造りをしながら、王さんと最後の会話を交わした。「西安はいかがでしたか？」という問いに、「歴史の重さと人々の温かさの両方に触れることができました」と答えると、「それが私たちの街の一番の魅力なのよ」と微笑んでくれた。彼女の笑顔に、西安の人々の誇りと優しさが凝縮されているように感じられた。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
西安を後にする時、咸陽空港への道すがら車窓から見えた秦嶺山脈の稜線が、この旅の記憶を心に刻み付けてくれるような気がした。2泊3日という短い滞在だったが、兵馬俑の壮大さ、城壁からの眺望、回民街の活気、そして何より出会った人々との温かい交流が、西安という古都の魅力を多面的に教えてくれた。
羊肉泡馍の滋味深い味わい、城壁の上を吹き抜ける風の感触、鐘楼の夕焼けに染まる姿、書院茶館の墨の香り—これらの感覚的な記憶は、時間が経っても色褪せることなく心に残り続けるだろう。
特に印象深かったのは、古代と現代が自然に共存している西安の街の在り方だった。兵馬俑という2000年前の遺産と、日々の生活を営む現代の人々が、同じ土地で呼吸を共にしている。この時間的な重層性こそが、西安という都市の最大の魅力なのかもしれない。
民宿の女主人・王さんの笑顔、兵馬俑を発見した楊志発さんの体験談、城壁で出会った大学生の言葉、回民街の老人の方言—これらの人とのふれあいが、観光地としての西安を越えた、生きた街としての西安を感じさせてくれた。
この旅は確かに空想の産物である。しかし、西安という古都の魅力と、そこに生きる人々の温かさは、想像を通じて確かに体験されたものだった。地図の上の点でしかなかった西安が、記憶と感情に満ちた特別な場所として心の中に刻まれている。
いつの日か、この空想の旅路を実際に辿ってみたい。その時、今回の想像の旅が、現実の体験にどのような色合いを添えてくれるのかを確かめてみたいと思う。そして再び、兵馬俑の静寂な威厳と、西安の人々の変わらぬ温かさに包まれることができれば、これほど幸せなことはないだろう。
