はじめに
ボーンマスという名前を口にすると、どこか海の匂いが漂ってくるような気がする。イングランド南西部、ドーセット州に位置するこの海辺の町は、ヴィクトリア朝時代から続く優雅なリゾート地として知られている。11キロメートルにも及ぶ黄金色の砂浜は、イギリスでも屈指の美しさを誇り、断崖に囲まれた入り江が作り出す独特の地形は、まるで自然が描いた絵画のようだ。
町の中心部には、19世紀後期から20世紀初頭にかけて建てられたヴィクトリア朝とエドワード朝の建築物が点在し、穏やかな気候と相まって、どこか時間がゆっくりと流れているような錯覚を覚える。ボーンマス大学の存在により若者も多く、伝統と現代が自然に調和した、イギリス南部特有の落ち着いた雰囲気を醸し出している。
私がこの町を選んだのは、ロンドンの喧騒から離れ、海の音を聞きながら心を静めたかったからだった。2泊3日という短い時間の中で、この町が持つ静かな魅力にどれほど触れることができるだろうか。
1日目: 海風に包まれた到着の日
ロンドンのウォータールー駅から電車に揺られること約2時間、ボーンマス駅のホームに足を踏み入れたとき、既に空気が違っていた。潮の香りが微かに混じった風が頬を撫で、どこか懐かしいような気持ちになる。駅の建物は決して大きくないが、赤レンガの外壁が温かみを感じさせ、この町への第一印象は上々だった。
宿泊先のB&B (ベッド・アンド・ブレックファスト) へ向かう道すがら、町の様子を眺めながら歩いた。ボーンマスの中心街は思いのほかコンパクトで、歩いて回れる範囲にカフェやレストラン、小さなブティックが点在している。建物の多くが白やクリーム色に統一されており、緑豊かな公園が随所に配置されているため、全体的に明るく開放的な印象を受けた。
午後2時頃、ようやくB&Bにチェックインを済ませた。オーナーのミセス・ハリスは60代半ばの上品な女性で、「初めてのボーンマスですか？」と優しく声をかけてくれた。彼女の勧めで、まずは町の中心部から海岸へ向かうことにした。「ピアまで歩いて10分ほどですよ。天気も良いし、きっと素晴らしい景色が見られるでしょう」
ボーンマス・ピアへの道のりは、緩やかな下り坂になっている。ローワー・ガーデンと呼ばれる美しい公園を通り抜けると、次第に海の音が大きくなってきた。そして階段を下りた瞬間、目の前に広がったのは息を呑むほど美しい海岸線だった。
黄金色の砂浜が弧を描いて広がり、その先にはプールベイ、そしてオールドハリー・ロックスと呼ばれる白い石灰岩の奇岩が遠くに見える。ピア自体は1880年に建設された歴史あるもので、海に向かって伸びる木製の桟橋は、まるで海との境界を曖昧にするかのような佇まいだった。
ピアの先端まで歩いてみると、海風が頬を撫でて心地よい。左手にはボーンマスの町並みが一望でき、右手には延々と続く海岸線が見渡せる。観光客もまばらで、静かな午後のひとときを海と過ごすことができた。
夜になり、ピア近くのレストラン「The Reef」で夕食をとった。海の見えるテラス席で、地元で獲れたばかりのフィッシュ・アンド・チップスを注文する。衣はサクサクと軽やかで、中の白身魚はふっくらとしており、レモンを絞ると爽やかな酸味が海の塩気と絶妙に調和した。添えられたマッシーピーは、イギリス南部独特の甘みがあり、どこか素朴で温かい味わいだった。
食事を終えて外に出ると、夕日が海面に映り、オレンジ色の光の道ができていた。ピアにはわずかな照明が灯り、昼間とは全く違った表情を見せている。波の音だけが静かに響く中、この町での最初の夜が静かに更けていった。B&Bに戻る途中、街灯に照らされた住宅街の落ち着いた雰囲気に、なぜかほっとした気持ちになった。
2日目: 自然と歴史に触れる一日
朝8時、ミセス・ハリスが用意してくれたフル・イングリッシュ・ブレックファストで一日が始まった。卵、ベーコン、ソーセージ、焼きトマト、そして黒いブラックプディングが美しく盛り付けられた皿の横に、厚切りのトーストとマーマレードが添えられている。紅茶は、彼女が特におすすめするアール・グレイで、ベルガモットの香りが朝の空気に溶け込んでいった。
「今日はどちらへ？」と尋ねられ、コーフ城とダーラドル・ドアを訪れる予定だと答えると、「素晴らしい選択ですね。特にダーラドル・ドアの景色は圧巻ですよ」と目を輝かせた。
午前9時半、ボーンマス駅から電車でコーフ・キャッスル駅へ向かった。途中の車窓から見える田園風景は、まさにイングランドらしい牧歌的な美しさだった。なだらかな丘陵地帯に羊の群れが点在し、石垣で区切られた緑の牧草地が幾何学模様を描いている。
コーフ城に到着したのは10時半頃。11世紀にノルマン人によって建設されたこの城跡は、イングランド内戦時に議会派によって破壊されたものの、その廃墟の美しさは格別だった。石造りの城壁や塔が丘の上に堂々と佇み、周囲の村並みを見下ろしている様子は、まるで中世の時代にタイムスリップしたかのような感覚を覚えた。
城の内部を歩きながら、ガイドの説明に耳を傾けた。この城が見てきた歴史の重みを感じながら、最上部の展望台から見渡すダーラドル地方の景色は息を呑むほど美しく、海へと続く緑の絨毯のような田園地帯が広がっていた。
午後2時頃、コーフ城を後にしてダーラドル・ドアへ向かった。このエリアは2001年にユネスコ世界遺産に登録されたジュラシック・コーストの一部で、1億8500万年から6500万年前の地層が露出している貴重な場所だ。車窓から見える海岸線は、白い石灰岩の断崖が印象的で、その合間に小さな入り江が点在している。
ダーラドル・ドアの駐車場から海岸へ下りる遊歩道を歩いていると、次第に潮の香りが濃くなってきた。そして突然目の前に現れたのが、海にぽつんと立つ石灰岩のアーチ、ダーラドル・ドアだった。高さ約45メートルのこの自然のアーチは、波の浸食によって長い年月をかけて形作られたもので、その壮大さは写真では決して伝わらない迫力があった。
海岸沿いを歩きながら、足元に転がる様々な化石や美しい小石を拾った。ここでは実際にアンモナイトやベレムナイトなどの化石を見つけることができ、地球の歴史を手に取るような不思議な体験だった。
夕方5時頃、ボーンマスに戻り、今度は町の東側にあるボスコム・ピアまで足を伸ばした。ボーンマス・ピアよりも小さく静かなこの桟橋は、サーファーたちに人気のスポットでもある。夕方の光の中で波に乗る人々を眺めながら、海沿いのカフェ「Chez Fred」でクリームティーを楽しんだ。
スコーンは温かく、クロテッドクリームの濃厚な味わいとイチゴジャムの甘酸っぱさが絶妙なハーモニーを奏でていた。紅茶はダージリンを選び、その芳醇な香りとともに、一日の疲れが心地よく溶けていくのを感じた。
夜は町の中心部にあるパブ「The Four Horsemen」で地元の人々との時間を過ごした。このパブは1920年代から続く老舗で、内装は昔ながらの英国パブそのもの。暖炉の火が温かく、木製のテーブルと椅子が使い込まれた味わいを見せている。地元のビール「Badger」を注文し、パブ特有の温かい雰囲気の中で、隣に座った地元の老夫婦と言葉を交わした。
「ボーンマスはいかがですか？」と尋ねられ、素晴らしい場所だと答えると、「私たちはここに40年住んでいますが、いまだに海を見るたびに幸せな気持ちになりますよ」と微笑んでくれた。その言葉に、この町の人々が持つ土地への愛情を感じた。
3日目: 別れと心に残る記憶
最終日の朝は、いつもより早く目が覚めた。チェックアウトの時間まで余裕があったので、一人で海岸まで散歩に出かけることにした。朝7時の海岸は、まだ観光客の姿もまばらで、地元の人々がジョギングや犬の散歩を楽しんでいる静かな時間だった。
ピアまで歩いて、桟橋の先端に立つと、朝の海は昨日までとは全く違った表情を見せていた。薄いもやがかかった水平線の向こうから、ゆっくりと朝日が昇り始め、海面が金色に輝いている。波の音も夜とは違い、どこか生命力に満ちた力強さを感じさせた。
「美しい朝ですね」と、後ろから声をかけられた。振り返ると、犬を連れた中年の男性が立っていた。「ええ、本当に」と答えると、「私も毎朝ここを歩いているのですが、この景色にはいつも心を奪われます。ボーンマスの宝物ですね」と話してくれた。
B&Bに戻ると、ミセス・ハリスが最後の朝食を用意して待っていてくれた。昨日と同じフル・イングリッシュ・ブレックファストだったが、今朝は特別美味しく感じられた。「いかがでしたか、ボーンマスは？」と尋ねられ、心から素晴らしかったと答えると、「また必ず戻ってきてくださいね。この町はいつでもあなたを歓迎しますから」と温かい言葉をかけてくれた。
午前10時、チェックアウトを済ませ、荷物を持って最後の散策に出かけた。まずは町の中心部にあるボーンマス・ガーデンズを歩いてみることにした。この公園は町の中心を流れるボーン川沿いに広がる美しい庭園で、様々な花々や樹木が四季を通じて楽しめるよう丁寧に手入れされている。
公園内には小さなカフェもあり、そこでラストの紅茶を飲みながら、この3日間を振り返った。コーフ城で感じた歴史の重み、ダーラドル・ドアで見た自然の造形美、そして何より、出会った人々の温かさ。短い滞在だったが、確実に心の中に何かが残されていくのを感じた。
午後12時、駅への道を歩きながら、もう一度だけ海を見ておこうと思い、アッパー・ガーデンの展望台に立ち寄った。ここからはボーンマスの海岸線が一望でき、自分が歩いたピアや海岸が手に取るように見える。青い海、黄金の砂浜、緑豊かな町並み、その全てが一枚の絵画のように美しく調和していた。
電車の時間が近づき、重い足取りで駅へ向かった。ホームで列車を待ちながら、ふと気づいたことがあった。この町では、誰もが時間に追われることなく、それぞれのペースで生活を楽しんでいるように見えたということだ。海という大きな自然の前では、人間の小さな焦りや不安など意味をなさないのかもしれない。
午後1時15分発の電車に乗り込み、窓越しにボーンマスの町並みが遠ざかっていくのを見つめていた。車両が海岸線を離れ、内陸部へと向かう頃には、心の中に静かな満足感が広がっていた。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この旅は架空のものであり、私が実際にボーンマスの土を踏んだわけではない。しかし不思議なことに、今この瞬間も、潮風の匂いや、ミセス・ハリスの温かい笑顔、コーフ城から見た田園風景、そしてダーラドル・ドアの壮大な姿が、まるで本当に体験したかのように心の中に残っている。
旅とは、単に場所を移動することではなく、新しい風景や人々との出会いを通じて、自分の内側に何かを蓄積していく行為なのかもしれない。たとえそれが想像の中の体験であっても、心が動かされ、感情が揺さぶられるのであれば、それは確かに「旅をした」ということなのではないだろうか。
ボーンマスという町が教えてくれたのは、時間をゆっくりと過ごすことの大切さ、自然の前での人間の謙虚さ、そして見知らぬ人同士でも心を通わせることができる人間の温かさだった。これらの感覚は、空想でありながら確かに私の中に根を下ろし、きっとこれからの日々を少しだけ豊かにしてくれるだろう。
海の音は今も、心の奥で静かに響いている。
