はじめに
ダンディーという名前を初めて聞いたとき、どこか童話に出てくる街のような響きを感じた。スコットランドの東海岸、テイ川の河口に位置するこの街は、かつて「ジュート、ジャム、ジャーナリズム」の街として知られていた。ジュート産業で栄え、マーマレードの発祥地として名を馳せ、DC Thomson社による新聞・雑誌業で文化を育んできた街だ。
人口約15万人のこの街は、決して大きくはない。しかし、北海の風が運ぶ潮の香りと、街を見下ろすロー・ヒルの緑、そしてテイ川の穏やかな流れが織りなす風景には、スコットランドの他の都市とは異なる独特の魅力がある。近年はゲーム産業やデジタル技術の拠点として新たな息づかいを見せており、伝統と革新が静かに共存している。
2023年、V&A ダンディーがオープンしたことで、この街は再び注目を集めるようになった。ケネス・グレアムが『風の又三郎』ならぬ『たのしい川べ』を書いたのもこの地域だったという話もあり、文学と芸術の薫りも漂う。そんなダンディーを、秋の始まりの季節に訪れることにした。
1日目: テイ川畔の街に降り立つ
エディンバラから列車で約1時間半。車窓から見えるスコットランドの田園風景を眺めているうちに、テイ川の広い河口が見えてきた。ダンディー駅に降り立つと、海風が頬を撫でていく。9月末の空気は涼しく、薄手のセーターを羽織っていてちょうどよい。
駅から徒歩で街の中心部へ向かう。ハイストリートを歩いていると、古い石造りの建物と現代的なガラス張りのビルが混在している光景が目に入る。この街の歴史の重層性を物語っているようで興味深い。
チェックインしたホテルは、テイ川を見下ろす小さなブティックホテル。部屋の窓からは、川の向こうにファイフの丘陵地帯が見渡せる。荷物を置いて一息つくと、もうお昼の時間になっていた。
午後は街歩きから始めることにした。まずは2018年にオープンしたV&A ダンディーへ。隈研吾による設計で、テイ川の岸辺に船のような形で佇むその建物は、遠くから見ても一目でそれとわかる独特の存在感を放っている。内部に入ると、スコットランドのデザインの歴史から現代のクリエイティブな取り組みまで、幅広い展示が楽しめる。特に印象に残ったのは、ダンディー出身のデザイナーたちの作品群。グランド・セフト・オートシリーズを生み出したロックスター・ノースの展示もあり、この街がゲーム産業の重要な拠点であることを実感した。
美術館を出ると、夕方の光がテイ川の水面にきらめいている。川沿いの遊歩道を歩きながら、ダンディー・ロー・ヒルの方角を見上げる。街のシンボルでもあるこの丘は、標高174メートルと決して高くはないが、街全体を優しく見守るような存在感がある。
夕食は、地元の人に勧められたパブ「The Speedwell Bar」へ。1903年から続く老舗で、船の内装を模した造りが特徴的だ。ここでハギス (スコットランドの伝統料理) を初めて味わった。羊の内臓を使った料理と聞いて少し躊躇したが、実際に食べてみると、スパイスが効いていて意外にも食べやすい。地元のビール「Belhaven Best」と一緒に楽しんだ。
隣に座った初老の男性が、ダンディーの歴史について語ってくれた。「昔はジュート工場の煙突がこの街の空を覆っていた」と彼は言う。「今の若い人たちは知らないかもしれないが、この街は世界中にジュートを送り出していたんだ」。彼の話を聞きながら、街の過去と現在の姿を重ね合わせる。
夜になってホテルに戻る道すがら、ライトアップされたテイ・ロード・ブリッジが美しく光っているのが見えた。1966年に完成したこの橋は、ダンディーとファイフ地方を結ぶ重要な交通路だが、夜の闇に浮かび上がるその姿は、実用性を超えた美しさを湛えている。
部屋の窓際に座り、一日を振り返る。初めて訪れた街だが、なぜか懐かしさを感じる。それは、人々の温かさからくるものなのか、それとも街そのものが持つ包容力のようなものなのか。そんなことを考えながら、テイ川のさざなみの音を子守歌に眠りについた。
2日目: 自然と歴史に包まれて
朝は6時半に目が覚めた。窓の外では、テイ川の上に薄い霧がかかっている。スコットランドの朝特有の、幻想的な光景だった。ホテルのダイニングで朝食を取りながら、今日の予定を確認する。午前中はダンディーの歴史地区を歩き、午後は少し足を延ばしてグラミス城まで行く予定だ。
朝食後、街の中心部へ向かった。最初に訪れたのは、ダンディー大聖堂 (聖ポール大聖堂) 。1853年に建てられたゴシック・リバイバル様式の建物で、街のスカイラインに美しいシルエットを描いている。内部に入ると、色とりどりのステンドグラスが朝の光を受けて輝いていた。静寂の中で、祈りを捧げる地元の人の姿が印象的だった。
大聖堂を出て、次にセント・アンドルーズ大聖堂の遺跡へ向かった。15世紀に建てられたこの聖堂は、現在は一部の壁が残るのみだが、その堂々とした佇まいからは往時の栄華が偲ばれる。遺跡の周りにある墓地を歩いていると、古いスコットランドの文字で刻まれた墓碑銘が目に留まる。時の流れの重さを感じる瞬間だった。
午前中の最後に、ダンディー現代美術館 (Dundee Contemporary Arts) を訪れた。地元の現代アーティストの作品を中心とした展示が行われており、スコットランドの現代アートシーンの息吹を感じることができた。特に、地元の風景をモチーフにした絵画作品が印象に残る。
昼食は、美術館内のカフェでスコティッシュ・サーモンのサンドイッチを食べた。新鮮なサーモンの味が口の中に広がり、紅茶と一緒に楽しんだ。カフェの窓からは、V&A ダンディーの特徴的な建物が見えて、現代のダンディーの象徴的な風景を眺めながらの食事となった。
午後は、タクシーでグラミス城へ向かった。ダンディーから約30分の距離にあるこの城は、シェイクスピアの『マクベス』の舞台としても知られている。現在でもストラスモア伯爵家の居住地として使われており、イギリス王室とも縁の深い場所だ。
城に到着すると、その壮麗さに圧倒された。14世紀から続く歴史を持つこの城は、スコットランド男爵風建築の傑作として知られている。ガイドツアーに参加し、城内を見学した。絵画のコレクション、美しいタペストリー、そして各部屋に残る歴史の痕跡。特に印象に残ったのは、エリザベス皇太后 (現在のエリザベス女王の母) が幼少期を過ごした部屋で、当時の雰囲気がそのまま保たれていた。
城の庭園も見事だった。イタリア式庭園とイングリッシュ・ガーデンが組み合わされたデザインで、季節の花々が美しく配置されている。9月の終わりということもあり、秋の花が咲き始めており、庭園全体に静謐な美しさが漂っていた。
グラミス城から戻る道すがら、スコットランドの田園風景を眺めた。なだらかな丘陵地帯に点在する農場、石垣で区切られた牧草地、そして遠くに見える山々。この風景の中を走っていると、なぜスコットランドが多くの詩人や作家にインスピレーションを与えてきたのかが理解できる。
夕方、ダンディーに戻ってからは、ローヒルに登ることにした。街の北西にそびえるこの丘は、市民の憩いの場としても親しまれている。坂道を登りながら、徐々に眺望が開けていく。頂上に着くと、ダンディーの街全体とテイ川、そして遠くの海まで見渡すことができた。
夕日が西の空を染める頃、街の灯りが一つずつ点り始める。V&A ダンディーの特徴的なシルエット、テイ・ロード・ブリッジの美しいアーチ、そして川面に映る街の光。ここから見るダンディーは、まるで宝石箱のように美しかった。
夕食は、地元で評判のレストラン「The Playwright」へ。新鮮な魚介類をメインにしたモダン・スコティッシュ料理を提供する店で、地元産の食材にこだわっているという。アンガス牛のステーキを注文したが、柔らかく味わい深い肉の味に感動した。デザートには、地元の有名なダンディー・ケーキをいただいた。このケーキは、アーモンドとドライフルーツを使った伝統的なスコットランドのケーキで、ダンディーが発祥の地とされている。
食事を終えて街を歩いていると、パブから聞こえる伝統音楽の音色に誘われた。中に入ると、地元のミュージシャンたちがフィドルやアコーディオンを演奏している。スコットランド民謡の美しいメロディーが店内に響き、お客さんたちも自然と手拍子を始める。言葉は通じなくても、音楽が作り出す温かい雰囲気に包まれて、この街の文化の豊かさを肌で感じることができた。
ホテルに戻る前に、もう一度テイ川の岸辺を歩いた。夜の川は静かで、対岸の灯りが水面にゆらゆらと映っている。昼間の賑わいとは打って変わって、夜のダンディーは穏やかで瞑想的な雰囲気に包まれていた。
3日目: 別れの朝と新たな発見
最終日の朝は、少し早めに起きてホテル周辺を散歩することにした。朝7時のダンディーは、まだ眠りから覚めたばかりの静けさに包まれている。テイ川沿いの遊歩道を歩いていると、ジョギングをする人や犬の散歩をする人とすれ違う。皆、軽く会釈をしてくれるのが印象的だ。
朝食後、チェックアウトの時間まで、まだ見ていない場所を訪れることにした。向かったのは、ダンディー科学センター (Sensation) 。体験型の科学館で、子どもから大人まで楽しめる施設だ。五感をテーマにした展示が中心で、実際に触れたり体験したりしながら科学を学ぶことができる。平日の朝ということもあって、学校の遠足らしき子どもたちのグループと遭遇した。彼らの楽しそうな声を聞いていると、この街の未来への希望を感じる。
科学センターを出て、最後にダンディー・バトルシップ・ユニコーンを見学することにした。これは、1824年に建造された英国海軍のフリゲート艦で、現在は博物館船として保存されている。船内に入ると、19世紀の海軍生活を垣間見ることができて興味深い。狭い船内で生活していた船員たちの苦労が偲ばれる。
港近くを歩いていると、地元の魚市場を発見した。朝の仕入れを終えた漁師たちが、コーヒーを飲みながら談笑している。新鮮な魚の匂いと潮の香りが混じり合って、港町特有の雰囲気を醸し出している。一人の漁師に話しかけられ、今朝の漁の話を聞かせてもらった。「今日は良い魚が取れた」と誇らしげに語る彼の表情から、海と共に生きる人々の誇りが伝わってくる。
昼食は、地元で愛されている小さなカフェ「Clarks Bakery」で。1864年創業という老舗で、伝統的なスコットランドの焼き菓子を提供している。ここで有名なダンディー・ケーキを改めて味わった。昨夜レストランで食べたものとは少し違う、より素朴で家庭的な味わいだった。オーナーの女性が、このケーキの歴史について教えてくれる。「昔から変わらない製法で作っている」という彼女の言葉に、伝統を守り続ける重みを感じた。
カフェを出て、最後にもう一度V&A ダンディーを訪れることにした。今度は建物の外観をじっくりと観察してみる。隈研吾の設計による特徴的なファサードは、スコットランドの断崖絶壁をイメージしているという。角度によって見え方が変わる複雑な表面は、光の当たり方で表情を変える。この建物が、ダンディーの新しい時代の象徴として位置づけられているのも理解できる。
時計を見ると、もうそろそろホテルに戻って荷物を取り、駅に向かう時間だった。ホテルのロビーで荷物を受け取りながら、レセプションのスタッフと短い会話を交わした。「また来てください」という彼女の言葉が、心に温かく響く。
駅に向かう途中、振り返ってもう一度ダンディーの街並みを眺めた。到着した時とは違って、今度は見慣れた風景として目に映る。わずか3日間だったが、この街は確実に自分の心の中に場所を作っていた。
駅のプラットフォームで列車を待ちながら、テイ川の方角を見つめる。川の向こうに広がるファイフの丘陵地帯が、午後の光の中で穏やかに輝いている。この風景を、きっと忘れることはないだろう。
列車がゆっくりと動き出すと、ダンディーの街が徐々に遠ざかっていく。窓越しに見える最後のダンディーは、V&A ダンディーの特徴的な建物と、その向こうに広がるテイ川の穏やかな流れだった。
最後に
ダンディーでの2泊3日の旅を終えて、今こうして旅行記を書きながら、不思議な感覚に包まれている。この旅は確かに空想の中で体験したものだが、街の風景、人々との出会い、食事の味、音楽の響き、そして何より心に残った感情のすべてが、まるで実際に経験したかのように鮮明に記憶に残っている。
ダンディーという街は、決して華やかな観光地ではない。しかし、だからこそ見えてくる魅力がある。産業の栄枯盛衰を経験し、今また新しい文化や技術の拠点として歩み始めている街の底力。テイ川の流れのように、静かに、しかし確実に進んでいく街の息づかい。そして何より、そこに暮らす人々の温かさと誇り。
空想の旅でありながら、実際に足を運んだらきっとこんな体験ができるのではないかという確信めいたものを感じている。それは、この街が持つ本物の魅力と、そこに暮らす人々の真摯な生き方が、想像を超えた現実味を与えてくれるからなのかもしれない。
いつか本当にダンディーを訪れる日が来たら、この空想の旅で出会った風景や人々を、現実の中で再び見つけることができるだろうか。そんな期待を胸に、この旅行記を閉じることにする。スコットランドの小さな街ダンディーが、心の中にしっかりと根を下ろした、特別な3日間だった。
