はじめに: ギルフォードという小さな宝石
サリー州の心臓部に位置するギルフォードは、ロンドンから南西へ約40キロメートル、電車で30分ほどの距離にある美しい町だ。ワイ川が静かに流れるこの町は、中世から続く歴史と現代の活気が絶妙に調和している。ギルフォード大聖堂の尖塔が丘の上から町を見守り、石畳の小径にはチューダー様式の建物が軒を連ねる。サリー大学の学生たちが若々しいエネルギーを注ぎ込む一方で、古いパブでは地元の人々が穏やかな時間を過ごしている。
この町を選んだのは、イングランドの真の魅力が凝縮されていると感じたからだ。観光地としてあまりに有名ではないがゆえに、ありのままの英国らしさに出会えるのではないかという期待があった。緑豊かなサリー・ヒルズと呼ばれる丘陵地帯に囲まれ、歴史と自然が織りなす静謐な美しさを求めて、私は一人ギルフォードへ向かった。
1日目: 石畳に響く足音と古い物語
ロンドン・ウォータールー駅から電車に揺られること30分、ギルフォード駅に降り立ったのは午前10時頃だった。駅から一歩外に出ると、どこか懐かしい静寂が私を包んだ。赤レンガの駅舎は質素だが品があり、駅前の小さなロータリーには黒いタクシーが数台停まっている。空気は澄んでいて、ロンドンの喧騒がすでに遠い記憶のように感じられた。
宿泊先のB&Bまでは徒歩15分ほど。キャスター付きのスーツケースが石畳の上でカタカタと音を立てる。High Streetと呼ばれるメインストリートは緩やかな坂道になっており、両脇には白い壁に黒い梁が美しいチューダー様式の建物が立ち並んでいる。まるで絵本の中に迷い込んだような錯覚を覚える。途中、小さなベーカリーからバターとイーストの香ばしい匂いが漂ってきて、思わず足を止めた。
B&Bの「Rose Cottage」は、名前の通りバラの花が美しく咲く小さな宿だった。女将のメアリーさんは60代くらいの上品な女性で、温かい笑顔で迎えてくれた。部屋は2階にあり、小さな窓からは中庭のバラ園が見える。天井が低く、梁が剥き出しになった部屋は、まさに英国のカントリーハウスそのものだった。荷物を置いて一息つくと、メアリーさんが紅茶とビスケットを持ってきてくれた。
「ギルフォードは初めて？」と彼女が尋ねる。「ええ、日本から来ました」と答えると、「まあ、遠いところから！きっと気に入っていただけるわ。小さな町だけれど、素敵な場所がたくさんあるのよ」と目を細めた。彼女のアドバイスで、まずは町の中心部を歩いてみることにした。
午前中の残り時間は、ハイストリートをゆっくりと散策した。古い時計塔の下では、地元の人たちが待ち合わせをしている。小さな書店に入ると、店主が「何かお探しですか？」と声をかけてくれた。ギルフォードの歴史に関する本を手に取ると、「この町は12世紀から続く市場町なんですよ」と教えてくれた。アルフレッド大王の時代から人々が住み続けてきたこの土地の重みを、改めて感じた。
昼食は、1960年代から続くという老舗のカフェ「The Tea House」で取った。店内は木製のテーブルとチェアが配置され、壁には古い写真や絵画が飾られている。メニューを見ると、伝統的なイングリッシュ・ブレックファストがまだ提供されていた。午後でも構わないかと尋ねると、「もちろんです。時間なんて関係ありませんよ」と笑顔で答えてくれた。ベーコン、ソーセージ、焼きトマト、マッシュルーム、ベイクドビーンズ、そして卵。すべてが素朴で温かく、旅の疲れを癒してくれた。
午後は、ギルフォード城の跡地を訪れた。12世紀に建てられた城は今ではほとんど廃墟となっているが、残された石造りの塔からは町全体を見渡すことができる。丘の上から眺めるギルフォードの町並みは、赤い屋根瓦と緑の木々が美しく調和している。遠くには現代的なショッピングセンターも見えるが、それでも全体的には古い町の佇まいが保たれている。
城跡の隣には小さな博物館があり、そこでギルフォードの歴史を学んだ。この町がロンドンとポーツマスを結ぶ重要な中継地として栄えたこと、中世には羊毛の取引で繁栄したこと、そして近年はサリー大学の存在によって新たな活力を得ていることなどを知った。歴史の層が重なり合って今の町を形作っていることが、よく理解できた。
夕方、ワイ川沿いを散歩した。川は穏やかに流れ、白鳥がゆったりと泳いでいる。川沿いには古いパブ「The White Horse」があり、テラス席では地元の人たちがビールを飲みながら談笑している。その光景があまりにも平和で美しく、しばらく立ち止まって眺めていた。
夜は、そのパブで夕食を取ることにした。店内は天井が低く、暗い木材で装飾されている。壁には古い写真や農具が飾られ、暖炉では火が静かに燃えている。地元のビター・エールを注文し、パブ・グラブと呼ばれる伝統的な料理を味わった。フィッシュ・アンド・チップスは衣がサクサクで、中の魚は驚くほど新鮮だった。隣の席では地元の老人たちが静かに話し込んでおり、時々聞こえてくる彼らの笑い声が、この場所の温かさを物語っていた。
宿に戻る途中、町の明かりがほとんど消えていることに気づいた。街灯だけが石畳を淡く照らし、夜の静寂が町全体を包んでいる。都市の喧騒に慣れた身には、この静けさが新鮮だった。部屋に戻ると、メアリーさんが用意してくれた湯たんぽがベッドで私を待っていた。窓を開けると、涼しい夜風とともに庭のバラの香りが部屋に流れ込んできた。
2日目: 緑の丘陵と大聖堂の荘厳
朝は7時に目が覚めた。窓の外では鳥たちがさえずり、庭のバラが朝露に濡れて美しく輝いている。1階の食堂では、メアリーさんが伝統的なイングリッシュ・ブレックファストを用意してくれていた。焼きたてのトーストにマーマレード、そして濃い紅茶。シンプルだが心のこもった朝食を味わいながら、今日の予定を考えた。
午前中は、サリー・ヒルズの散策に出かけることにした。ギルフォードから少し離れた丘陵地帯は、英国の田園風景の典型的な美しさを誇っている。バスで20分ほど行ったところで降り、そこから歩いて丘を登った。緩やかな起伏が続く緑の牧草地では、羊たちがのんびりと草を食んでいる。遠くには点在する農家の煙突から白い煙が立ち上り、まるで19世紀の風景画の中にいるような気分になった。
丘の頂上から見渡す景色は息を呑むほど美しかった。なだらかな丘陵が幾重にも重なり、その間を縫うように小さな川が流れている。空は高く青く、白い雲がゆっくりと流れていく。風が頬を撫でていくのが心地よく、都市生活では味わえない解放感を感じた。ここで30分ほど座って、ただその景色を眺めていた。時々、遠くから教会の鐘の音が風に乗って聞こえてくる。
昼前にギルフォードに戻り、今度はギルフォード大聖堂を訪れた。丘の上に建つこの現代的な大聖堂は、20世紀に建設されたものだが、その荘厳さは古い大聖堂に決して劣らない。赤レンガで造られた外観は、周囲の風景と美しく調和している。中に入ると、高い天井と色鮮やかなステンドグラスが迎えてくれた。
祈りを捧げる人々の静かな姿を見ながら、私も後方の席に座った。外の喧騒が嘘のように静寂に包まれ、心が自然と落ち着いていく。ステンドグラスから差し込む光が、石の床に美しい模様を描いている。しばらくそこに座っていると、日々の忙しさから解放され、自分自身と向き合う時間を持つことができた。
大聖堂を出ると、隣接する庭園を散策した。よく手入れされた花壇には、色とりどりの花が咲いている。ベンチに座って持参したサンドイッチを食べながら、ギルフォードの町並みを見下ろした。赤い屋根瓦と緑の木々のコントラストが美しく、時々聞こえてくる車の音さえも、この平和な風景の一部のように感じられた。
午後は、町の中心部にある古いマーケットを探索した。毎週土曜日に開かれるこの市場は、中世から続く伝統だという。野菜や果物、チーズ、パンなどの食材から、古本や骨董品まで、さまざまな店が軒を連ねている。地元の農家が作った新鮮な野菜を売る老人に声をかけられ、トマトを一つ試食させてもらった。甘みと酸味のバランスが絶妙で、その場で数個購入した。
「どちらからいらしたの？」と尋ねられ、「日本から来ました」と答えると、「まあ、それは遠いところから！ギルフォードはいかがですか？」と聞かれた。「とても美しい町ですね」と答えると、「そうでしょう、そうでしょう。私はここで生まれ育ったけれど、毎日この町の美しさに感謝しているのよ」と嬉しそうに話してくれた。
市場の隣にある古い教会、セント・ニコラス教会も訪れた。12世紀に建てられたこの教会は、ギルフォードの歴史の証人でもある。石造りの壁は時の重みを感じさせ、中に入ると涼しい空気が肌を包んだ。ここでも数分間静かに座り、この場所に刻まれた長い歴史に思いを馳せた。
夕方、再びワイ川沿いを歩いた。川面に夕日が反射して金色に輝き、白鳥たちが優雅に泳いでいる。川沿いのベンチに座って、市場で買ったトマトを食べながら、この穏やかな時間を味わった。対岸では犬を散歩させる人、ジョギングをする人、ただ歩いている人など、それぞれがそれぞれのペースで夕べの時間を楽しんでいる。
夜は、地元で評判の小さなレストラン「The Ivy House」で食事をした。19世紀の建物を改装したこのレストランは、伝統的な英国料理に現代的なアレンジを加えた料理で知られている。ローストビーフを注文すると、完璧に焼かれた肉にヨークシャープディングとローストした野菜が添えられて出てきた。付け合わせのホースラディッシュソースが肉の旨みを引き立て、赤ワインとの相性も抜群だった。
デザートには伝統的なスティッキー・トフィー・プディングを注文した。温かいスポンジケーキにとろけるような甘いソースがかかった一品は、まさに英国の家庭の味だった。コーヒーを飲みながら、今日一日の出来事を振り返った。自然の美しさ、歴史の重み、そして人々の温かさ。ギルフォードという小さな町が持つ多面的な魅力を、存分に味わうことができた一日だった。
宿に戻る道すがら、夜のギルフォードの静寂を再び感じた。街灯に照らされた石畳、閉まった店のショーウィンドウ、時々通り過ぎる車のヘッドライト。すべてが穏やかで平和で、心の奥底から安らぎを感じることができた。
3日目: 別れの朝と心に残るもの
最後の朝は、どこか名残惜しい気持ちで目を覚ました。窓の外では相変わらず鳥たちがさえずり、バラの花が美しく咲いている。メアリーさんが用意してくれた朝食を味わいながら、この2日間の思い出を反芻した。
チェックアウトの際、メアリーさんが「また来てくださいね」と温かく声をかけてくれた。「今度はもう少し長く滞在して、周辺の村々も訪れてみてください」という彼女のアドバイスを心に刻んだ。荷物をまとめながら、この小さな部屋で過ごした時間が、なぜかとても長く感じられた。
出発前の最後の時間を、もう一度ハイストリートで過ごすことにした。朝の町は活気づき始めており、店主たちが店の準備をしている。昨日立ち寄った書店の前を通ると、店主が手を振ってくれた。マーケット広場では、週末の準備をする人たちの姿が見える。
小さなカフェで最後のイングリッシュ・ブレックファストを注文した。ベーコンの塩気、卵の濃厚さ、トーストの香ばしさ。すべてが記憶に刻まれていく。窓の外を歩く人々を眺めながら、この町での出会いと発見を思い返した。
午前10時頃、ギルフォード駅に向かった。駅までの道のりは来た時と同じだが、今度は別れの重さが足取りを鈍らせる。石畳の音、建物の表情、街角の香り。すべてが愛おしく感じられた。
駅のホームで電車を待ちながら、この2泊3日の旅を振り返った。大きな観光地ではないギルフォードだが、だからこそ本当の英国らしさに触れることができた。歴史の重み、自然の美しさ、そして何より人々の温かさ。都市の喧騒では味わえない、穏やかで深い時間を過ごすことができた。
電車がホームに入ってきた。車窓から見えるギルフォードの風景が、どんどん小さくなっていく。大聖堂の尖塔、緑の丘陵、石造りの建物たち。すべてが記憶の中に美しく保存された。
ロンドンに向かう電車の中で、私はこの旅で得たものについて考えた。それは単なる観光地の知識や写真ではなく、もっと深いものだった。時間に追われない贅沢さ、自然と歴史に囲まれる安らぎ、見知らぬ土地で出会う人々の優しさ。これらすべてが、心の奥深くに温かい記憶として残った。
ギルフォードという小さな町は、英国の真の魅力を静かに語りかけてくれた。派手さはないが、確かな美しさと深い歴史を持つこの場所で過ごした時間は、きっと長く心に残るだろう。窓の外に流れる英国の田園風景を眺めながら、いつかまた戻ってきたいという思いを強くした。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この旅行記は、実際には体験していない空想の旅である。しかし、文章を綴りながら、まるで本当にギルフォードの石畳を歩き、ワイ川のほとりに立ち、地元の人々と言葉を交わしたかのような感覚を覚えた。
それは、旅というものが単なる物理的な移動ではなく、心の中で築かれる体験でもあるからかもしれない。想像力は時として現実を超越し、実際には行ったことのない場所への深い愛着や理解を生み出すことがある。
ギルフォードという実在の美しい町に対する敬意を込めて、この空想の旅行記を記した。いつの日か、本当にこの町を訪れることができたなら、きっとこの記録以上に素晴らしい体験が待っているだろう。空想でありながら確かにあったように感じられる旅の記憶を胸に、現実の旅への憧憬を新たにしている。
