はじめに
スペイン北東部アラゴン州の州都ウエスカは、ピレネー山脈の麓に佇む静謐な古都である。人口5万人ほどのこの街は、巡礼路サンティアゴ・デ・コンポステーラの一部としても知られ、中世の面影を色濃く残している。石造りの建物が織りなす街並みは、時の流れを忘れさせるほど美しく、アラゴン王国の栄華を物語る歴史的建造物が点在している。
ピレネー山脈を背景に広がる乾いた大地は、スペイン特有の強い陽射しを受けて金色に輝く。この地方の料理は素朴でありながら奥深く、山の幸と平野の恵みが織りなすハーモニーが特徴的だ。何より心を打つのは、この土地の人々の温かさである。観光地化されすぎていないウエスカには、スペインの本当の姿がそっと息づいている。
私がこの地を選んだのは、喧騒から離れた場所で、ゆっくりと時間の流れを感じたかったからだった。バルセロナから北西へ約300キロ、電車で3時間ほどのこの街で、私は何を見つけるのだろうか。
1日目: 石畳に響く足音
バルセロナのサンツ駅から朝8時の列車に乗り、緑豊かなカタルーニャの田園風景を眺めながら、ウエスカへと向かった。車窓から見える風景は次第に乾燥した大地へと変わり、遠くにピレネーの山々が霞んで見える。列車が到着したウエスカ駅は、思いのほか小さく、地方都市らしい静けさに包まれていた。
駅から旧市街へ向かう道のりは、徒歩で15分ほど。荷物を引きながら歩く石畳の道は、中世からの歴史を刻んでいるようだった。予約していた小さなペンシオンは、カテドラル広場から一本入った静かな通りにあった。建物の外観は質素だが、中に入ると天井の高い部屋に木製の家具が配置され、どこか懐かしい雰囲気が漂っていた。
午後は街歩きから始めた。まず向かったのは、ウエスカのシンボルでもある大聖堂だった。13世紀に建てられたゴシック様式の建物は、外観こそ控えめだが、一歩足を踏み入れると荘厳な空間が広がっていた。特に印象的だったのは、祭壇画の美しさである。地元の画家によって描かれたという聖人たちの姿は、優しく、それでいて力強い存在感を放っていた。
大聖堂を出ると、すでに午後の陽が傾き始めていた。カフェで一息つこうと、広場に面した小さなバルに入った。「カフェ・コン・レチェ」を注文すると、初老の店主が丁寧にエスプレッソを淹れてくれた。クリーミーなミルクの泡が美しいハート型を描いている。コーヒーと一緒に出されたマドレーヌのような小さな菓子は、アーモンドの香りが口の中に広がり、この土地らしい素朴な甘さがあった。
「観光客ですか?」と店主が片言の英語で話しかけてきた。私が日本から来たことを伝えると、彼の目が輝いた。「この街に日本人が来るのは珍しい」と言いながら、地元の見どころを教えてくれた。彼の勧めで、夕方にはサン・ペドロ・エル・ビエホ修道院を訪れることにした。
修道院は旧市街の端にひっそりと佇んでいた。12世紀に建てられたロマネスク様式の回廊は、夕陽に照らされて美しいオレンジ色に染まっていた。柱頭に刻まれた彫刻は一つ一つが異なり、聖書の場面や幻想的な動物たちが生き生きと表現されている。特に印象的だったのは、「最後の晩餐」を描いた柱頭だった。キリストと弟子たちの表情が、石とは思えないほどリアルに刻まれていた。
回廊を一周しながら、中世の修道士たちがここで祈りを捧げていた光景を想像した。静寂の中に響く足音だけが、時の流れを感じさせる。この場所には、言葉では表現できない神聖さがあった。
夜になり、地元の人に教えてもらったタスカ (居酒屋) を訪れた。「エル・リンコン・デル・ビノ」という名前の店は、地下室のような造りで、石壁にワインの樽が並んでいた。地元の人たちが集まっており、スペイン語の陽気な会話に包まれていた。
メニューを見ても何が何だかわからなかったが、店主の勧めでアラゴン地方の伝統料理を注文した。まず出てきたのは「ハモン・セラーノ」と「ケソ・マンチェゴ」の盛り合わせ。薄切りのハムは塩味が効いており、チーズのクリーミーさとよく合っていた。メイン料理は「コルデロ・アサード」 (子羊のロースト) だった。ローズマリーとニンニクで香りづけされた子羊肉は、外側はカリッと、中はジューシーで、これまで食べたことのない深い味わいだった。
地元のワイン「ソモンターノ」も忘れられない。この地方で作られる赤ワインは、力強さとエレガンスを兼ね備えており、子羊肉との相性は抜群だった。隣に座っていた地元の老人が、片言の英語でワインの説明をしてくれたことも温かい思い出となった。
ペンシオンに戻る途中、夜のウエスカの街を歩いた。街灯に照らされた石畳は、昼間とは違った表情を見せていた。静寂に包まれた街角から、どこからともなくフラメンコギターの音色が聞こえてきた。誰かが家で練習をしているのだろうか。その音色は夜の静寂に溶け込み、なんとも言えない郷愁を誘った。
部屋に戻り、窓を開けるとピレネーの方角から涼しい夜風が流れ込んできた。一日目が終わり、明日への期待を胸に眠りについた。
2日目: 山の麓に響く鐘の音
朝、鳥の鳴き声で目を覚ました。ペンシオンの窓からは、遠くにピレネー山脈の稜線が薄っすらと見えている。朝食は1階の小さなダイニングルームでいただいた。パンとバター、オリーブオイル、そして地元のジャムという素朴なメニューだったが、パンの香ばしさとオリーブオイルの豊かな風味が印象的だった。特に、アラゴン産のイチジクジャムは、自然な甘さと程よい酸味があり、焼きたてのパンによく合っていた。
この日は少し足を伸ばして、ウエスカ近郊の小さな村を訪れることにした。バスターミナルから30分ほどの距離にある「アルケサル」という村が目的地だった。朝9時のバスに乗り込むと、乗客は地元の人が数人だけ。運転手のおじさんが「観光客は珍しい」と言いながら、道中の見どころを教えてくれた。
バスの窓からは、アラゴンの典型的な風景が広がっていた。オリーブ畑、ブドウ畑、そして点在する小さな農家。乾いた大地に育つオリーブの木々は、強い日差しの中でも力強く立っている。遠くには風車が回り、その向こうにピレネーの山影が続いていた。
アルケサルに到着すると、まさに「隠れた宝石」のような村だった。人口数百人のこの村は、中世の城跡を中心に石造りの家々が点在している。村の中心にある小さな教会は、11世紀に建てられたロマネスク様式の建物で、その素朴な美しさに心を奪われた。教会の鐘楼からは、村全体を見渡すことができた。赤茶色の屋根瓦が連なり、その間を縫うように石畳の小径が走っている。
教会の管理人をしているマリア・カルメンさんという女性が、教会の歴史を説明してくれた。「この教会は、巡礼者たちの重要な休息地だった」と彼女は語る。「今でも時々、サンティアゴへ向かう巡礼者が立ち寄っていく」。彼女の話を聞きながら、何百年も前から続く巡礼の道に思いを馳せた。
午後は村を散策した。石畳の道を歩いていると、90歳を超えるというおじいさんに出会った。「ホセ」と名乗る彼は、この村で生まれ育ち、一度も村を出たことがないという。「ここには全てがある」と彼は誇らしげに語った。「美しい景色、おいしい食べ物、そして良い人々」。彼の言葉には、この土地への深い愛情が込められていた。
ホセさんに案内されて、村外れの展望台を訪れた。そこからは、ピレネー山脈の全景を一望できた。雪をいただいた峰々が連なり、その雄大さに息を呑んだ。「あの山の向こうはフランスだ」とホセさんが指差す。国境を越えて続く山々は、人間が引いた境界線など関係なく、悠然と空に向かって聳えていた。
昼食は村唯一のレストラン「カサ・ルラル」でいただいた。家族経営の小さな店で、メニューは日替わりのみ。この日は「ミガス」というアラゴン地方の伝統料理だった。パンくずをオリーブオイルで炒め、チョリソーとピーマンを加えた素朴な料理だが、その味の深さは驚くべきものだった。添えられたサラダは、村で採れたトマトとレタスで、太陽の恵みをそのまま感じられるような新鮮さだった。
食事をしながら、レストランの女将さんアナ・マリアさんと話をした。「都市部の若者たちは皆、街に出て行ってしまう」と彼女は少し寂しそうに語った。「でも、この村には都市にはない豊かさがある」。彼女の言葉を聞きながら、本当の豊かさとは何かを考えさせられた。
午後遅く、ウエスカに戻るバスを待っていると、村の子どもたちが学校から帰ってきた。彼らは珍しそうに私を見つめ、恥ずかしそうに挨拶をしてくれた。その無邪気な笑顔は、この村の未来への希望を感じさせた。
ウエスカに戻ったのは夕方だった。疲れを癒すために、旧市街のパン屋で焼きたてのパンを買い、近くの公園で夕陽を眺めながら食べた。パンの香ばしさと、静かに沈んでいく夕陽の美しさが、一日の充実感を演出していた。
夜は再び「エル・リンコン・デル・ビノ」を訪れた。昨夜と同じ店主が温かく迎えてくれ、「今日はどこに行った?」と尋ねてくれた。アルケサルのことを話すと、彼も懐かしそうに微笑んだ。「あそこは本当に美しい村だ。観光客にはあまり知られていないが、それが良いところでもある」。
この夜は「パエリア・アラゴネサ」を注文した。アラゴン風のパエリアは、ウサギ肉とインゲン豆、そして地元産のお米で作られている。サフランの香りと、ウサギ肉の深い味わいが絶妙にマッチしていた。地元の白ワインと合わせると、その美味しさは格別だった。
食事の後、店主のカルロスさんが自家製のブランデーを勧めてくれた。アラゴン地方で作られるこのブランデーは、まろやかでありながら芯の強い味わいがあった。「これは私の祖父が作り始めたレシピだ」と彼は誇らしげに語った。伝統を守り続ける彼の姿勢に、深い敬意を抱いた。
ペンシオンへの帰り道、満天の星空を見上げた。都市部では決して見ることのできない、無数の星々が夜空を埋め尽くしていた。ピレネーの向こうから吹く風は涼しく、頬を撫でていく。この瞬間の美しさを、私は生涯忘れることはないだろう。
3日目: 別れの朝に響く教会の鐘
最後の朝は、いつもより早く目が覚めた。まだ薄明かりの中、ウエスカの街を最後にゆっくりと歩いてみたかったのだ。石畳の道には朝露が降り、街全体が静寂に包まれていた。教会の鐘楼から朝の祈りを告げる鐘の音が響き、その荘厳な音色が街に一日の始まりを告げていた。
朝食後、荷物をまとめながら、この2日間の出来事を振り返った。アルケサルで出会った人々の温かさ、伝統料理の味わい、そして何より、時間がゆっくりと流れるこの土地の空気感。全てが心の深いところに刻まれていた。
チェックアウトの際、ペンシオンの女将さんが「また戻って来てください」と言ってくれた。その言葉には、単なる社交辞令ではない温かさがあった。私も心から「また必ず戻ってきます」と答えた。それは決して空約束ではなかった。
駅に向かう前に、もう一度大聖堂を訪れた。朝の光が差し込む聖堂内は、昨日とは異なる表情を見せていた。ステンドグラスから射し込む光が床に美しい模様を描き、その神秘的な美しさに見とれていた。祭壇の前で短い祈りを捧げた。特定の宗教を信じているわけではないが、この場所の神聖さが自然と手を合わせることを促していた。
大聖堂を出ると、朝の市場が開かれていた。地元の農家が持ち寄った新鮮な野菜や果物、チーズ、そしてパンが並んでいる。特に目を引いたのは、この地方特産のチェリーだった。真っ赤に熟した実は、甘酸っぱい香りを漂わせていた。お土産にいくつか買うと、農家のおばあさんが「美味しいよ」と片言の英語で微笑んでくれた。
市場で買い物をしていると、昨日アルケサルで出会ったマリア・カルメンさんに偶然再会した。彼女は週に一度、ウエスカの市場に買い物に来るのだという。「また会えて嬉しい」と彼女は笑顔で言った。昨日の別れが最後だと思っていたので、この偶然の再会は特別な意味を持っていた。
「日本に帰っても、アルケサルのことを忘れないでください」と彼女は言った。「私たちも、あなたのことを覚えています」。その言葉を聞いて、胸が熱くなった。遠く離れた異国で、こんなにも温かい人々に出会えたことが信じられなかった。
駅へ向かう道すがら、「エル・リンコン・デル・ビノ」の前を通った。昨夜お世話になったカルロスさんが店の前で準備をしていた。彼も私を見つけて手を振ってくれた。「良い旅を」と彼は叫んだ。その声は、ウエスカの街からの温かい見送りのように聞こえた。
ウエスカ駅のホームで電車を待っていると、心の中で様々な感情が渦巻いていた。たった2泊3日の滞在だったが、この土地で経験したことは、きっと生涯忘れることのない宝物となるだろう。人との出会い、伝統料理との邂逅、そして何より、現代社会で失われがちな「ゆっくりとした時間」を取り戻すことができた。
電車がホームに滑り込んできた。車窓からウエスカの街を最後に眺めると、大聖堂の鐘楼がそびえ立っていた。その向こうには、変わらずピレネー山脈が雄大な姿を見せている。私はこの風景を心に焼き付けた。
電車が動き出すと、ウエスカの街並みがゆっくりと後ろに流れていった。石造りの建物、赤い屋根瓦、そして緑豊かな山々。全てが記憶の中に美しく収められていく。いつの日か、必ずこの地に戻ってこよう。そう心に誓いながら、私はバルセロナへの帰路についた。
車窓から見える風景は、来た時とは違って見えた。同じ景色なのに、何かが変わっている。それは風景が変わったのではなく、私自身が変わったからだと気づいた。ウエスカで過ごした時間は、私の心に何か大切なものを残してくれていた。
最後に
この旅は空想の産物でありながら、私の心の中では確かに起こった出来事として刻まれている。アルケサルで出会ったホセさんの温かい笑顔、マリア・カルメンさんの親切な案内、カルロスさんが振る舞ってくれた伝統料理の味わい、そしてペンシオンの女将さんの心遣い。これらすべてが、まるで昨日のことのように鮮明に思い出される。
スペイン・ウエスカという小さな古都は、観光ガイドブックの主要な目的地ではないかもしれない。しかし、そこには現代社会が失いかけている大切なものが息づいている。人と人とのつながり、伝統への敬意、そして時間をかけて何かを味わうことの豊かさ。これらは、どんなに科学技術が進歩しても変わることのない、人間の本質的な価値なのだろう。
ピレネー山脈の麓に佇むこの街で過ごした時間は、私にとって人生の大切な1ページとなった。それが空想であったとしても、その経験がもたらしてくれた感動や気づきは、間違いなく本物だった。旅とは、必ずしも物理的な移動を伴うものではない。心が動き、何かを感じ、そして変化することこそが、真の旅の意味なのかもしれない。
いつか本当にウエスカを訪れる日が来るかもしれない。その時、この空想の旅で出会った人々や風景に、本物の形で再会できることを願っている。そして、この小さな古都が持つ魅力を、より多くの人に知ってもらえればと思う。ウエスカよ、ありがとう。あなたはただの空想の舞台ではなく、私の心に永遠に住み続ける、美しい故郷のような場所となった。