はじめに: 南シナ海に抱かれた自然の宝庫
ボルネオ島北部、サバ州の州都コタキナバル。この街の名前を初めて聞いたとき、何か神秘的な響きに魅かれたのを覚えている。マレー語で「中国人の砦」を意味するこの地は、かつて交易の要衝として栄え、今もなお多様な民族が共存する文化のるつぼだ。
4,095メートルの雄大なキナバル山を背景に、南シナ海の青い海が広がるこの街は、自然と文化が見事に調和している。カダザンドゥスン族をはじめとする先住民の伝統文化、中華系マレーシア人の活気ある商売、そしてマレー系住民の穏やかな暮らし。それらが渾然一体となって、独特の魅力を醸し出している。
私がこの地を選んだのは、忙しい日常から離れ、自然の雄大さと人々の温かさに触れたかったからかもしれない。都市の喧騒とは正反対の、ゆったりとした時間の流れを求めて。
1日目: 潮風と夕陽に迎えられた到着の日
朝のクアラルンプールを発ち、約2時間半のフライトでコタキナバル国際空港に降り立った。機内から見えたボルネオの緑の絨毯は圧巻で、窓に額をつけて見とれているうちに着陸していた。空港は思いのほかコンパクトで、南国らしいゆったりとした雰囲気が漂っている。
タクシーで市内中心部のホテルへ向かう道中、椰子の木とブーゲンビリアが街路を彩る光景に心が躍った。運転手のラジャさんは流暢な英語で街の見どころを教えてくれる。「夕陽が美しいのは、タンジュン・アル・ビーチとシグナル・ヒルですよ」と親切にアドバイスをくれた。
午後、ホテルにチェックインを済ませた後、まずは街の中心部を歩いてみることにした。ガヤストリートに足を向けると、コロニアル様式の建物と現代的なショップが混在する独特の街並みが広がっている。中華系の薬草店、マレー系の雑貨店、そして観光客向けのお土産屋が軒を連ね、多文化の香りが街角に漂う。
歩いているうちに小腹が空いてきた。路地に入ると、地元の人々で賑わう小さな茶餐廳 (チャーチャンテン) を発見。勇気を出して入ってみると、店主の陳さんが笑顔で迎えてくれた。看板メニューの海南鶏飯 (ハイナンチキンライス) を注文すると、ふっくらと炊かれたご飯の上に、しっとりとした鶏肉が乗せられて運ばれてきた。生姜とチリのソースが絶妙にマッチして、思わず「美味しい」と声が漏れる。陳さんは嬉しそうに頷き、「サバの米は特別においしいんですよ」と教えてくれた。
夕方になると、ラジャさんの言葉を思い出し、タンジュン・アル・ビーチへ向かった。ここは地元の人々の憩いの場でもあり、家族連れやカップルが夕涼みを楽しんでいる。海岸線に沿って遊歩道が整備されており、そこを歩きながら水平線を眺めていると、太陽が徐々に海に近づいていく。
そして、その瞬間がやってきた。真っ赤な太陽が水平線にゆっくりと沈んでいく光景は、まさに息をのむ美しさだった。空が橙から深い紫へと変化し、海面に黄金の道筋が描かれる。隣にいた地元の老夫婦が「Cantik (美しい) 」と呟くのが聞こえ、言葉の壁を越えて美しさを共有している瞬間に心が温かくなった。
夜は、フィリピンマーケットの屋台街で夕食をとることにした。ここは昼間は土産物市場だが、夜になると屋台が立ち並び、魚介類のバーベキューの香ばしい匂いが漂う。炭火で焼かれた海老、イカ、そして地元で獲れた魚を、チリソースをつけていただく。ビールを片手に、行き交う人々を眺めながらの食事は格別だった。屋台のおばさんは「マカン・マカン (食べて、食べて) 」と優しく勧めてくれ、その温かさに心がほころんだ。
ホテルに戻る道すがら、街の夜景を楽しんだ。昼間とは違う顔を見せる街は、ネオンの光が南国の花々を照らし、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。部屋に戻り、窓から見える街の明かりを眺めながら、初日の余韻に浸った。明日は自然との出会いが待っていることを思うと、期待で胸が高鳴った。
2日目: 熱帯雨林の神秘とサンセットクルーズの感動
朝、鳥たちのさえずりで目が覚めた。時計を見ると6時半。日本よりも1時間遅いこの地では、まだ朝の光がやわらかく街を包んでいる。シャワーを浴びて身支度を整え、ホテルの朝食会場へ向かった。
ビュッフェには西洋料理に加えて、マレー系、中華系、インド系の料理が並んでいる。ナシレマ (ココナッツライス) にサンバルソース、目玉焼きを乗せたマレーシアの定番朝食を選んだ。ココナッツの香りがほのかに香るご飯に、ピリ辛のサンバルソースが絶妙にマッチする。隣のテーブルの欧州系の観光客も同じ料理を選んでいて、思わず微笑みを交わした。
今日のメインイベントは、マヌカン島への日帰り旅行だ。ジェッセルトン・ポイントの桟橋から高速ボートに乗り込むと、約15分でサピ島、マヌカン島、マムティック島からなるトゥンク・アブドゥル・ラーマン海洋公園に到着する。
ボートが島に近づくにつれ、海の色が深い青から透明なエメラルドグリーンへと変化していく。「天国の海ってこういうものかもしれない」と心の中で呟いた。マヌカン島の桟橋に降り立つと、白い砂浜と熱帯の緑が目に飛び込んできた。
まずはシュノーケリングに挑戦。器材をレンタルして浅瀬に入ると、そこは別世界だった。色とりどりの熱帯魚が珊瑚礁の間を泳ぎ回り、時折、大きなナポレオンフィッシュがゆうゆうと通り過ぎていく。水中で息を止めて魚たちと同じ空間にいると、自分も海の生き物になったような不思議な感覚に包まれた。
午後は島の散策に出かけた。ジャングルトレイルを歩いていると、巨大なトカゲがのそのそと現れ、しばらく見つめ合うという珍しい体験もした。ガイドのアミンさんは「オオトカゲは人間を怖がっているんです。こちらが静かにしていれば大丈夫」と説明してくれた。熱帯雨林の奥深くで、様々な鳥の鳴き声や昆虫の音に耳を澄ませていると、都市の喧騒が遠い昔のことのように感じられた。
島でのランチは、地元の魚料理とココナッツジュース。新鮮な魚をバナナの葉で包んで蒸し焼きにした料理は、素材の味が際立って美味しかった。ココナッツは目の前で割ってくれたもので、自然の甘みが体に染み渡る。食事をしながら眺める海は、午後の陽射しでキラキラと輝いている。
夕方、コタキナバルに戻り、今度はサンセットクルーズに参加することにした。桟橋で他の参加者と合流すると、様々な国からの観光客が集まっている。オーストラリア人の家族、ドイツからのカップル、そして韓国からの女性グループ。船上では国籍を超えた会話が弾んだ。
船が沖に出ると、陸から見るのとは違った角度でコタキナバルの街並みが見える。背後にそびえるキナバル山は夕方の光に紫がかって見え、その雄大さに改めて感動した。「あの山は神聖な山なんです」とクルーのマイケルさんが教えてくれた。「地元の人々は今でも山の精霊を信じているんですよ」
そして再び、夕陽の時間がやってきた。昨日とは違い、海の上から見る夕陽は格別だった。太陽が水平線に近づくにつれ、空全体が黄金に染まり、海面に反射した光が無数の宝石のように輝く。船上の全員が静寂に包まれ、自然の偉大さに心を奪われていた。
夜はガヤストリートの夜市を散策した。金曜日の夜ということもあり、街全体が活気に溢れている。屋台では焼き鳥のサテ、チキンライス、そして甘いデザートのチェンドルが並んでいる。地元の家族連れが楽しそうに食事をしている光景を見ていると、旅行者である自分も温かい気持ちになった。
チェンドルを食べながら歩いていると、ストリートミュージシャンがギターを弾いて歌っている。マレー語の歌詞は理解できないが、メロディーは心に響く。小さな子供たちが周りで踊っており、その無邪気な笑顔に思わず微笑んでしまった。硬貨を帽子に入れると、ミュージシャンの青年が「テリマカシ (ありがとう) 」と言って笑いかけてくれた。
ホテルに戻る前に、もう一度海岸線を歩いた。夜の海は昼間とは全く違う表情を見せ、街の明かりが水面に映っている。波の音を聞きながら歩いていると、一日の出来事が心の中で整理されていく。自然の美しさ、人々の温かさ、そして異文化との出会い。これらすべてが心に深く刻まれた一日だった。
3日目: 文化との出会いと別れの朝
最終日の朝は、少し感傷的な気持ちで迎えた。わずか3日間の滞在だが、この街と人々に深い愛着を感じている自分がいる。今日は午後のフライトまで時間があるので、まだ訪れていない場所を巡ることにした。
朝食後、まずサバ州立博物館を訪れた。ここではサバ州の歴史と文化について詳しく学ぶことができる。特に印象的だったのは、カダザンドゥスン族をはじめとする先住民の展示だった。彼らの伝統的な家屋、手工芸品、そして米の収穫祭「カアマタン」の写真や説明を見ていると、この土地に根ざした豊かな文化の深さを感じた。
博物館のガイドのサラさんは、「私たちカダザンドゥスン族にとって、米は神聖なものなんです。収穫祭では、米の精霊に感謝を捧げます」と教えてくれた。現代的な街の中に、こうした伝統的な信仰が息づいていることに驚くとともに、文化の多様性の美しさを実感した。
その後、街の中心部にあるシティモスクを訪れた。イスラム教の礼拝所であるこのモスクは、現代的なデザインと伝統的な要素が融合した美しい建築だった。非イスラム教徒でも見学可能で、靴を脱いで内部に入ると、静寂と神聖な雰囲気に包まれた。高い天井と美しい装飾に見とれていると、礼拝の時間が始まり、信者の方々の祈りの声が響いた。その荘厳な雰囲気に、宗教の枠を超えて心が洗われるような感覚を覚えた。
昼食は、地元の人に教わったコーヒーショップで伝統的な「コピ・オー (ブラックコーヒー) 」と「カヤトースト」をいただいた。コピ・オーは濃厚で少し苦みがあるが、後味がすっきりしている。カヤトーストは、ココナッツと卵で作ったカヤジャムをトーストに塗ったもので、甘くて香ばしい。シンプルな組み合わせだが、これが実に美味しく、地元の人々の日常の一部を垣間見ることができた。
隣のテーブルで新聞を読んでいた年配の中華系マレーシア人の男性と、片言の英語で会話を交わした。「この街はどうですか？」と尋ねられ、「とても美しく、人々が親切です」と答えると、「それは良かった。また来てくださいね」と笑顔で言ってくれた。こうした何気ない交流が、旅の思い出を特別なものにしてくれる。
午後、空港に向かう前に最後の散策をした。ハンディクラフトマーケットで、お土産を選びながら、この3日間を振り返った。購入したのは、地元で作られた木彫りの置物と、サバ州産のコーヒー豆。木彫りの置物を選んでいると、職人のおじさんが「これは幸運を呼ぶ鳥なんですよ」と説明してくれた。コーヒー豆は、試飲させてもらった中で最も香り高いものを選んだ。
空港へのタクシーの中で、運転手のラジャさんが「楽しい滞在でしたか？」と尋ねてくれた。「はい、本当に素晴らしかったです。人々の優しさに感動しました」と答えると、「それが私たちマレーシア人の誇りです。また必ず帰ってきてくださいね」と言ってくれた。その言葉に、目頭が熱くなった。
空港で搭乗手続きを済ませ、待合室から滑走路を眺めていると、背景にキナバル山がそびえているのが見えた。3日前に初めて見たあの山が、今では親しい友人のように感じられる。
搭乗時間が近づき、最後にもう一度、この美しい土地を目に焼き付けておこうと思った。ボルネオの緑、南シナ海の青、そして何よりも人々の笑顔。これらすべてが心の奥深くに刻まれている。
機内から見る夕暮れのコタキナバルは、まるで宝石箱のように美しかった。街の明かりが点々と輝き、海面に月の光が銀の帯を描いている。窓に手を当てながら、「いつか必ず戻ってくる」と心の中で約束した。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この旅は空想の中での出来事だった。しかし、不思議なことに、すべてが確かにあったことのように心に残っている。マヌカン島の透明な海、タンジュン・アル・ビーチの夕陽、夜市の賑わい、そして出会った人々の温かい笑顔。それらは想像の産物でありながら、確かな記憶として心に宿っている。
旅の意味は、新しい場所に足を運ぶことだけではない。心を開いて異なる文化に触れ、自然の美しさに感動し、人との出会いを大切にすること。そして何より、日常から離れた時間の中で、自分自身と向き合うこと。これらすべてが、空想の旅であっても十分に体験できるのかもしれない。
コタキナバルという街は、自然の雄大さと人々の温かさが融合した特別な場所として、私の心の中に永遠に残るだろう。キナバル山の紫の稜線、海に沈む夕陽の輝き、屋台で食べた海南鶏飯の味、そしてすべての人が言ってくれた「また来てくださいね」という言葉。
空想の旅でありながら、確かにそこにあった感情、体験、出会い。それらは今この瞬間も心の中で輝き続けている。もしかすると、本当の旅とは、心が動いた瞬間にすでに始まっているのかもしれない。そして、その旅は、想像の中でも、現実の中でも、同じように美しく、同じように価値があるのだろう。
コタキナバルへの空想旅行は終わったが、心の中の旅はこれからも続いていく。いつの日か、本当にこの地を訪れたとき、きっとデジャヴのような懐かしさを感じることだろう。その日まで、この美しい記憶を大切に胸に抱いて歩んでいこう。
