はじめに: 預言者の都に寄り添う時間
メディナ——正式にはマディーナ・アン=ナビー (預言者の都) と呼ばれるこの都市は、イスラム教第二の聖地として、世界中のムスリムの心の拠り所となっている。サウジアラビア西部、ヘジャーズ地方の中心部に位置し、赤い砂漠と緑のオアシスが織りなす独特の風景を持つ。
預言者ムハンマドが西暦622年にメッカから移住 (ヒジュラ) した地として、イスラム史において極めて重要な意味を持つメディナ。預言者のモスクを中心に発展したこの都市は、現代でも信仰の中心地としての役割を果たしながら、同時に約150万人が暮らす現代都市でもある。
ハラマイン高速鉄道の開通により、メッカとの往来も便利になり、巡礼者だけでなく、イスラム文化に興味を持つ訪問者も増えている。古いナツメヤシの木々が立ち並ぶオアシスの風景と、白い大理石で美しく装飾された現代的な建築物が調和する、この都市独特の魅力に触れる旅が始まる。
1日目: 聖なる光に包まれた到着
プリンス・モハメド・ビン・アブドゥルアジーズ国際空港に到着したのは、砂漠の朝日が地平線を染め始める頃だった。空港から市街地へ向かうタクシーの窓から見える風景は、想像していたよりもずっと緑豊かで、ナツメヤシの並木道が続いている。運転手のアブドゥッラーさんは流暢な英語で、「メディナは神の恵みを受けた土地だ」と教えてくれた。
ホテルにチェックインを済ませた後、午前中は預言者のモスク (マスジド・アン=ナバウィー) へ向かった。巨大な白い大理石の建造物は、青空に映える美しい緑のドームを頂いている。このドームの下に預言者ムハンマドが眠っていることを思うと、静寂の中に特別な重みを感じる。
モスクの中庭は、世界中から訪れた巡礼者たちで静かに満たされていた。さまざまな国籍、さまざまな年齢の人々が、同じ方向を向いて祈りを捧げている光景は圧巻だった。大理石の床は足元でひんやりと心地よく、巨大な日除けが砂漠の強い日差しから参拝者を守っている。
昼食は、モスク近くの老舗レストラン「アル・バイト・アル・ヒジャーズィー」で、伝統的なヒジャーズ料理をいただいた。「マンディ」という羊肉とバスマティライスの炊き込みご飯は、スパイスの香りが複雑に絡み合い、口の中で優しく溶けていく。店主のハリドさんは、「この料理は祖母から受け継いだレシピで、70年間変わらない味だ」と誇らしげに語ってくれた。
午後は、旧市街の散策に出かけた。古い石造りの建物が立ち並ぶ狭い路地には、香辛料や香木、手工芸品を売る小さな店が軒を連ねている。特に印象的だったのは、ウード (沈香) を扱う香木店で、店主が焚いてくれた香りは、甘く深い森のような匂いがした。「これは瞑想のための香りだ」と説明されながら、確かに心が落ち着くのを感じた。
夕方になると、アザーン (礼拝の呼びかけ) の美しい調べが街全体に響き渡る。モスクのミナレットから流れる詠唱は、砂漠の風に運ばれて、魂の奥深くまで染み入ってくる。この瞬間、メディナという都市の持つ精神的な力を強く感じた。
夜は、ホテルの屋上テラスで、ナツメヤシのデーツとアラビアコーヒー (カフワ) をいただきながら、星空を眺めた。砂漠地帯の澄んだ空気のおかげで、星々がまるで手が届きそうなほど近くに見える。遠くからは夜の礼拝を告げるアザーンが聞こえ、1400年前からこの地で続いてきた信仰の営みに思いを馳せながら、最初の夜は静かに更けていった。
2日目: オアシスと伝統に触れる一日
朝の礼拝の時間に合わせて早起きし、ファジュルの祈りをモスクで体験した。夜明け前の静寂の中、世界中の信者と共に祈りを捧げる体験は、宗教的背景を問わず心を打つものがあった。祈りの後、中庭でいただいた朝食は、新鮮なナツメヤシの実、フールマダンマス (そら豆のペースト) 、温かいフラットブレッドというシンプルなものだったが、清らかな朝の空気の中で味わうと格別だった。
午前中は、クバ・モスクへ向かった。これは預言者ムハンマドがメディナに到着後、最初に建設したモスクとして知られている。現在の建物は美しく修復されているが、その歴史の重みは変わらない。白い石造りの建物は、周囲のナツメヤシの木々と調和し、静寂に包まれている。地元のガイド、オマルさんが、「ここは イスラム教徒にとって特別な場所で、土曜日にここで祈ることは特に意味がある」と教えてくれた。
昼食前に立ち寄ったのは、メディナ博物館だった。ここではヘジャーズ地方の歴史と文化を学ぶことができる。特に興味深かったのは、古代のキャラバン・ルートの展示で、メディナがシルクロードの重要な中継地点だったことがよく分かった。古い貿易用の天秤や、さまざまな国から持ち込まれた陶器、香辛料の容器などが、この地の国際的な歴史を物語っている。
昼食は、地元の家庭に招かれるという貴重な体験をした。アブー・アリーさん一家は、観光客と地元住民の交流を促進する市の取り組みに参加している。奥様のファーティマさんが作ってくれた「カブサ」は、鶏肉とスパイスを使った炊き込みご飯で、家庭ごとに少しずつ異なるレシピがあるという。食事をしながら、メディナでの生活について多くのことを教えていただいた。特に印象的だったのは、「メディナに住むということは、毎日が巡礼のようなものだ」という言葉だった。
午後は、市の南西部にあるウフド山への小旅行を企画した。この山は、預言者時代の重要な戦場でもあり、現在は自然保護区として整備されている。山の麓から頂上まで、約1時間のハイキングコースが整備されており、途中で見る砂漠とオアシスの景色は息をのむ美しさだった。赤い岩肌と緑のナツメヤシが作り出すコントラストは、この地域独特のものだ。
山頂からは、メディナの街が一望できる。白い建物群の中心に、預言者のモスクの緑のドームが見え、その周りに現代的な高層ビルが立ち並んでいる。古代と現代が共存するこの風景こそが、現在のメディナの姿なのだと実感した。
夕方は、伝統工芸の体験教室に参加した。地元の職人、アフマドさんの指導の下、アラビア書道に挑戦した。アラビア文字の美しい曲線を描くのは思っていた以上に難しく、筆の使い方から文字のバランスまで、すべてが新鮮な発見だった。「アラビア書道は瞑想のようなものだ」とアフマドさんは説明し、確かに文字を書いているうちに心が静まっていくのを感じた。
夜は、旧市街のカフェで地元の人々との交流を楽しんだ。水タバコ (シーシャ) を囲みながら、さまざまな国から来た巡礼者や地元の若者たちと語り合った。言葉の壁はあっても、笑顔と身振り手振りで十分にコミュニケーションは取れる。夜が更けるにつれ、人々の話は家族のこと、夢のこと、信仰のことへと深くなっていき、国籍や文化を超えた人と人とのつながりを感じることができた。
3日目: 別れと新たな始まり
最終日の朝は、もう一度預言者のモスクを訪れることから始まった。3日間過ごしたメディナとの別れを惜しみながら、静かに祈りの時間を過ごした。この時間は、単なる観光の終わりではなく、自分自身の内面と向き合う貴重な機会でもあった。モスクの静寂の中で、日常生活で忘れがちな精神的な平安を思い出すことができた。
午前中は、最後の買い物のために伝統市場 (スーク) を再び訪れた。前日に知り合った香木店の店主が、特別にブレンドしてくれた香木を購入した。「これはメディナの思い出として、家で焚くといい」と言われ、小さな袋に包まれた香木は、この旅の最も大切な記念品となった。また、地元産のデーツや、手織りの絨毯、銀細工のアクセサリーなども購入し、一つ一つに店主との会話の思い出が詰まっている。
昼食は、初日に訪れたレストランに再び足を向けた。店主のハリドさんは私のことを覚えていてくれて、「今日はマクルーベを試してみてください」と勧めてくれた。このパレスチナ系の料理は、野菜と肉を層状に重ねて炊いたもので、テーブルの上でひっくり返して盛り付けるのが特徴的だった。味は複雑でありながら調和が取れており、中東料理の奥深さを改めて感じた。
食事の後、ハリドさんと少し長い話をする機会があった。彼は30年前にレバノンからメディナに移住してきたそうで、「この街の持つ包容力に魅力を感じた」と語ってくれた。「メディナは世界中の人々を受け入れ、同時に彼らに平安を与える場所だ」という彼の言葉は、この3日間で私が感じたことそのものだった。
午後は、メディヤナツメヤシ農園を訪問した。メディナの名産であるアジュワデーツの栽培現場を見学することができた。農園主のサアドさんは、「これらのナツメヤシの木々は、何世代にもわたって家族で守り続けてきた」と説明してくれた。樹齢100年を超える古木から、甘く濃厚な果実が実るのを見て、時間をかけて育まれるものの価値について考えさせられた。
農園で採れたてのデーツをいただきながら、ナツメヤシの木陰で午後のひとときを過ごした。砂漠の強い日差しの中で、木陰の涼しさは格別だった。遠くに見える街の建物群、近くに見える赤い砂丘、そして頭上に広がる青い空。このコントラストこそが、メディナの自然の美しさなのだと感じた。
夕方の飛行機で帰路に就く前に、最後にもう一度旧市街を歩いた。3日前に初めて足を踏み入れた時とは全く違う親しみを感じる。すれ違う人々に挨拶を交わし、何人かは私のことを覚えていてくれた。短い滞在だったが、確かにこの街とのつながりを感じることができた。
空港へ向かうタクシーの中で、運転手のアブドゥッラーさんが「また戻ってきてください」と言ってくれた。車窓から見える夕暮れのメディナの街並みは、到着時とは違って、もはや未知の場所ではなく、一時的に離れる「もう一つの故郷」のように感じられた。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
この旅は空想の中で行われたものでありながら、心の中には確かな記憶として残っている。メディナという街の持つ独特の魅力——深い歴史と現代の調和、多様な文化の融合、そして何より人々の温かさは、実際に体験したかのように鮮明だ。
預言者のモスクの静寂、旧市街の活気、ナツメヤシ農園の緑陰、ウフド山からの眺望、そして出会った人々との会話。これらすべてが、単なる想像を超えて、心の奥深くに刻まれている。特に印象深いのは、宗教や文化の違いを超えて感じることができた人間同士のつながりだった。
香木の香り、デーツの甘さ、アラビア書道の筆触、砂漠の風の感触。五感で感じたすべてが、この架空の旅をリアルなものにしてくれた。そして何より、メディナという街が持つ包容力と平安は、日常生活に戻ってからも心の支えとなっている。
旅の終わりは、新たな始まりでもある。この空想の旅で得た経験と感動は、実際の旅への憧れを強くし、異文化への理解を深めてくれた。メディナという街が、世界中の人々にとって精神的な故郷となり得ることを、心から理解できた気がする。
空想でありながら、確かにそこにあった風景と人々との出会い。それは想像力が持つ力の証明でもあり、人間の心が求める真の豊かさを教えてくれる体験でもあった。