はじめに: 紺碧の海と太陽の街
コート・ダジュールの真珠と呼ばれるニース。地中海の青い海と空が溶け合うように広がる景色の中で、この街は何世紀にもわたって人々を魅了し続けてきた。19世紀にはイギリスの貴族たちが避寒地として愛し、20世紀にはマティスやシャガールといった芸術家たちがこの光に満ちた街でインスピレーションを得た。
ニースの魅力は、その地理的な恵みにある。背後にはアルプス山脈の山々が連なり、目の前には地中海が広がる。この絶妙な地形が生み出す微気候は、一年を通じて温暖で過ごしやすく、街角には南仏特有のゆったりとした時間が流れている。旧市街のヴィエイユ・ヴィルでは、オクル色の建物が迷路のような路地に並び、プロヴァンサル・マーケットでは色とりどりの野菜や花が並ぶ。そして何より、この街の人々の温かさが、訪れる者の心を深く包み込んでくれる。
1日目: 陽だまりの中の第一歩
パリからTGVで約5時間半。窓の外の景色が次第に南仏らしい丘陵地帯に変わっていく様子を眺めながら、私の心は既にニースの青い海を思い描いていた。ニース・ヴィル駅に降り立った瞬間、南仏の乾いた空気と穏やかな陽射しが頬を包む。10月下旬というのに、パリよりもずっと暖かく、薄手のカーディガン一枚で十分だった。
駅から路面電車に揺られてマセナ広場へ向かう間、車窓から見える街並みに心が躍る。赤茶色の瓦屋根と淡いピンクやクリーム色の外壁を持つ建物が整然と並び、その間を縫うように椰子の木が立っている。この時点で既に、ニースという街の持つ独特の魅力に引き込まれていた。
宿泊先のホテルは旧市街の一角にある小さなブティックホテル。チェックインを済ませ、荷物を置いて街歩きに出かけた。午後2時頃、まずは腹ごしらえということで、地元の人に教えてもらったクルス・ド・マルブルという小さなビストロへ足を向けた。石畳の路地を抜けた先にある、まさに隠れ家のような店構え。
店内は地元の人たちで賑わっており、フランス語の会話が心地よく響いている。メニューを見ても分からない料理名が多かったが、店主らしき男性が片言の英語で「ピサラディエール」を勧めてくれた。ニース名物のタマネギとアンチョビのタルトで、薄いパン生地の上にじっくりと炒めたタマネギとアンチョビ、ブラックオリーブがのったシンプルな一品。一口食べると、タマネギの甘みとアンチョビの塩気が絶妙に調和し、この土地の素朴な美味しさが口いっぱいに広がった。
食事を終えて旧市街を散策する。サレヤ広場の花市場では、ミモザやカーネーション、薔薇などが色鮮やかに並んでいる。花売りのマダムが「ボンジュール」と声をかけてくれ、私の拙いフランス語での会話を辛抱強く聞いてくれた。彼女が選んでくれた小さなミモザの花束は、部屋に飾るにはちょうど良いサイズで、その黄色い小さな花が旅の始まりを祝福してくれているようだった。
夕方になると、プロムナード・デ・ザングレへ向かった。この海岸沿いの遊歩道は、ニースの象徴とも言える場所だ。地中海に面した約7キロの美しい散歩道で、19世紀にイギリス人居住者たちによって作られたことから「イギリス人の散歩道」とも呼ばれている。小石の浜辺に寄せる波の音を聞きながら歩いていると、日常の喧騒から解放されていく自分を感じた。
夕陽が海に沈む頃、プロムナード沿いのカフェでアペリティフを楽しんだ。地元のロゼワインとオリーブのタプナードを塗ったバゲットをつまみながら、オレンジ色に染まる空と海を眺める。隣のテーブルにいた老夫婦が、おそらく50年以上も連れ添っているであろう自然な仕草でワインを分け合う姿に、なんとも言えない温かさを感じた。
夜は旧市街のレストランで郷土料理のブイヤベースを注文した。魚介の旨みが凝縮されたスープに、ルイユというガーリックマヨネーズのようなソースを混ぜて食べる伝統的な食べ方を、ウェイターが丁寧に教えてくれた。一日の終わりに相応しい、心も体も温まる一品だった。
ホテルに戻る道すがら、石畳の路地に響く自分の足音だけが聞こえる静寂の中で、この街がもう既に私にとって特別な場所になり始めていることを実感した。
2日目: 色彩と香りに包まれて
朝の光に誘われて早起きした。ホテルの小さなバルコニーから見える旧市街の屋根越しに、地中海の青が輝いている。朝食は近くのパン屋で買ったクロワッサンとカフェオレ。パン屋のマダムは私が外国人だと分かると、特に丁寧にクロワッサンを選んでくれた。その温かい心遣いが、異国での朝を特別なものにしてくれる。
午前中は、シャガール美術館を訪れることにした。路線バスに乗り、住宅街の中にある美術館へ向かう。バスの窓から見える日常の風景―洗濯物が干されたアパートのバルコニー、小さな商店、散歩する人々―が、観光地とは違うニースの素顔を見せてくれた。
シャガール美術館は、シャガールが晩年を過ごしたニースにある、彼の作品を専門に展示する美術館だ。特に「聖書のメッセージ」と呼ばれる連作は圧巻で、青を基調とした幻想的な色彩が展示室全体を包み込んでいる。シャガールがこの南仏の光の中で描いた作品たちは、どこか暖かく、希望に満ちている。美術館の庭園では、地中海性の植物が静かに風に揺れており、芸術と自然が調和した空間で、しばらく時を忘れて過ごした。
昼食は美術館近くの小さなクレープリーで。甘くないガレットという蕎麦粉のクレープに、ハムとチーズ、卵がのったシンプルな一品を注文した。ブルターニュ地方の郷土料理だが、ここニースでも美味しく食べることができる。添えられたシードルというリンゴのお酒が、ガレットの素朴な味わいを引き立ててくれた。
午後は再び旧市街に戻り、今度はより深く路地を探索してみた。迷路のような細い道を歩いていると、小さなアトリエや工房に出会う。陶器を作る職人さんの工房では、ろくろを回す手元を見せてもらった。言葉は通じなかったが、職人さんの集中した表情と、粘土が美しい形に変わっていく様子に、ものづくりの喜びを感じた。
サレヤ広場の市場では、午後になっても活気が残っている。プロヴァンス地方特産のハーブやスパイス、オリーブオイル、石鹸などが並ぶ店で、ラベンダーの石鹸を購入した。店主の女性が石鹸の香りを一つ一つ嗅がせてくれ、最も気に入ったものを選ぶことができた。その優しい香りは、この旅の記憶とともに持ち帰ることのできる宝物となった。
夕方、城跡公園 (コリーヌ・デュ・シャトー) への登り口を見つけた。かつて城があった丘の上にある公園で、ニース市街と地中海を一望できる絶景スポットだ。石段を登りながら息を切らしていると、途中で地元の人らしき男性が「もう少しで頂上ですよ」と英語で声をかけてくれた。こういった何気ない親切が、旅の思い出を温かいものにしてくれる。
頂上からの眺めは息を呑むほど美しかった。天使の湾 (ベ・デ・ザンジュ) と呼ばれるニースの海岸線が弧を描き、プロムナード・デ・ザングレが一本の線となって延びている。夕陽が街全体を金色に染め、地中海の青と空の青が溶け合っている。この瞬間の美しさは、写真には収めきれない心の奥深くに刻まれるものだった。
夜は、地元の人で賑わうビストロで夕食をとった。ラタトゥイユとローストチキンというシンプルな組み合わせだったが、野菜の一つ一つに太陽の恵みが感じられる味わい深い料理だった。隣のテーブルの家族が、子どもも交えて楽しそうに食事をしている光景を見ながら、南フランスの人々の生活に対する豊かな姿勢を感じた。
3日目: 別れの朝と永遠の記憶
最終日の朝は、いつもより早く目が覚めた。おそらく、この街との別れが近づいていることを心が感じ取っているのだろう。荷造りを済ませてチェックアウトし、駅のコインロッカーに荷物を預けて、最後の数時間を大切に過ごすことにした。
朝の散歩は、これまでとは違うルートを選んでみた。リベラシオン市場という地元の人たちが日常的に利用する市場へ足を向ける。観光客向けではない、この街の生活そのものが息づく場所だ。魚屋では新鮮な地中海の魚が並び、八百屋では色とりどりの野菜や果物が山積みになっている。チーズ屋のおじさんは、私が外国人だと分かると、小さなヤギのチーズを試食させてくれた。その濃厚で優しい味は、南フランスの大地の恵みそのものだった。
市場での買い物を終えて、最後にもう一度海を見ておこうとプロムナード・デ・ザングレを歩いた。朝の海は昨日までとはまた違った表情を見せている。静かな波が小石の浜に打ち寄せる音が、この街との別れを惜しんでいるかのように聞こえた。
プロムナード沿いのベンチに座り、持参していた文庫本を開いてみたが、文字よりも目の前の風景の方に心が向いてしまう。若いカップルが手をつないで散歩し、老人が犬の散歩をし、ジョギングする人々が通り過ぎていく。これらの日常的な光景が、なぜかとても貴重なもののように感じられた。
昼前には、お世話になった旧市街に最後の挨拶をしに行った。初日に入ったビストロの前を通りかかると、あの時の店主が店先で準備をしているのが見えた。目が合うと、手を振って挨拶してくれた。たった2日間の滞在でも、こうして覚えていてくれることが嬉しかった。
駅に向かう電車の時間が近づいてきた。コインロッカーから荷物を取り出し、TGVのホームへ向かう。車窓からニースの街並みが遠ざかっていく様子を見ながら、この3日間が心の中でゆっくりと整理されていく。
ニースで過ごした時間は、決して派手な出来事に満ちていたわけではない。しかし、朝の市場で交わした微笑み、美術館で感じた静寂、海岸で見た夕陽、路地で出会った職人さん、カフェで隣に座った老夫婦―これらすべてが、私にとってかけがえのない体験となった。
旅とは、新しい場所を訪れることだけではなく、その土地の空気を吸い、人々の温かさに触れ、日常とは違う時間の流れの中で自分自身と向き合うことなのかもしれない。ニースという街は、そんな旅の本質を静かに教えてくれた場所だった。
最後に: 空想でありながら確かに感じられたこと
パリへ向かうTGVの車窓から、再び変わりゆく風景を眺めながら、私は不思議な感覚に包まれていた。この3日間の旅路で出会った人々、味わった料理、感じた風、見た景色―それらすべてが、まるで本当に体験したかのように心に刻まれている。
ホテルの部屋に飾ったミモザの花束の香り、サレヤ市場で買ったラベンダー石鹸の匂い、ピサラディエールの素朴な味わい、城跡公園から見た夕陽の美しさ。これらの記憶は、実際にその場にいなくても、想像力によって心の中で確かな体験として生きている。
旅の魅力は、物理的な移動だけにあるのではない。心が新しい場所に向かい、未知の文化や人々との出会いを想像し、その土地の歴史や風土を感じることにも宿っている。空想の旅であっても、その土地への深い愛情と敬意を持って想いを馳せるとき、心の中では確かな旅が始まっているのかもしれない。
ニースの青い海と温かい人々、石畳の路地と色とりどりの市場、南仏の陽だまりのような優しい時間―これらはすべて私の心の中に確かに存在している。そして、いつかその記憶を胸に、本当にその地を訪れる日が来ることを願いながら、この空想の旅を大切な宝物として心にしまっておこう。
旅とは、足で歩くだけでなく、心で感じることでもある。この2泊3日のニースへの空想旅行は、そんなことを改めて気づかせてくれる、特別な時間となった。