はじめに
トングインライス (Tongwynlais) は、ウェールズの首都カーディフから北へわずか10キロほどの小さな村である。タフ川 (River Taff) 沿いに佇むこの村は、19世紀の産業革命時代に鉄工業で栄えた歴史を持ちながら、今もなお緑豊かな自然に抱かれている。村の名前は「白い草地」を意味するウェールズ語に由来し、その名の通り、なだらかな丘陵地帯に点在する白い羊たちと石造りの家々が織りなす風景は、まさに絵画のような美しさだ。
最も有名なのは、おとぎ話から抜け出したようなカスティル・コッホ (Castell Coch) だろう。赤い円錐屋根が印象的なこの城は、19世紀に中世の城跡を復元したもので、森に囲まれた小高い丘の上に立つ姿は幻想的でありながらも威厳に満ちている。村にはウェールズ語を日常的に話す人々も多く、古いケルトの伝統が今なお息づいている土地でもある。産業遺産と自然、そして生きた文化が調和するこの小さな村で、私は静寂と歴史の重なりを感じる旅を始めようとしていた。
1日目: 赤い城と石の記憶
カーディフ中央駅から電車に揺られること約20分、タフ・ウェル (Taff’s Well) 駅で降りると、既に空気が変わっていることに気づく。都市部の喧騒から一転、鳥のさえずりと風の音だけが耳に届く静寂がそこにあった。駅からトングインライスまでは徒歩で30分ほど。タフ川に沿って歩く道のりは、左手に緩やかに流れる川と、右手に緑の丘陵という、ウェールズらしい牧歌的な風景が続く。
午前中の光が川面に踊る中、ゆっくりと歩を進めると、森の向こうに赤い屋根が見えてきた。カスティル・コッホである。まずは宿となるB&B「Tŷ Gwyn」 (白い家) にチェックインを済ませる。19世紀建築の石造りの家で、オーナーのグウィンさんは流暢な英語とウェールズ語を織り交ぜながら温かく迎えてくれた。「Croeso i Gymru」 (ウェールズへようこそ) という彼女の言葉に、この土地の人々の誇りを感じる。
午後、いよいよカスティル・コッホへ向かう。城への道は森の中を縫うように続き、足元には落ち葉が厚く積もっている。歩くたびにカサカサと乾いた音が響き、時折リスが木々の間を駆け抜けていく。城が見えてくると、その美しさに思わず足を止めた。まるでおとぎ話の世界から抜け出したような赤い円錐屋根と白い壁。しかし近づくにつれ、その石積みの重厚さと、窓から感じられる中世の雰囲気に、これが単なるファンタジーではなく、確かな歴史の重みを持つ建造物であることを実感する。
城内は、ヴィクトリア朝時代の豪華絢爛な装飾で彩られている。特に印象的だったのは、円形の図書室だった。天井まで続く本棚と、その中央に置かれた机。午後の光が色とりどりのステンドグラスを通して差し込み、部屋全体が宝石箱のように輝いている。ここでどれほど多くの人が思索にふけったのだろうかと想像すると、時の流れを超えた何かとのつながりを感じずにはいられない。
夕刻、城を後にして村に戻ると、パブ「The Lewis Arms」で夕食をとることにした。18世紀から続くこのパブは、地元の人々の憩いの場でもある。カウンターでは初老の男性たちがウェールズ語で談笑しており、時折英語が混じる会話からは、彼らの日常の一部を垣間見ることができた。私が注文したのは、伝統的なウェールズ料理「Cawl」。ラムと野菜をじっくり煮込んだスープで、パンと一緒にいただく。素朴だが滋味深い味わいに、この土地の人々の暮らしぶりが現れているように感じられた。
夜、B&Bの窓から見える星空は、都市部では決して見ることのできない美しさだった。グウィンさんが入れてくれたウェールズ紅茶を飲みながら、今日一日の出来事を振り返る。赤い城の幻想的な美しさと、パブで感じた地域コミュニティの温かさ。歴史と現在が自然に溶け合うこの村の魅力を、早くも感じ始めていた。
2日目: 森の径と炭鉱の面影
朝食はグウィンさん手作りのフル・ウェルシュ・ブレックファスト。ラヴァーブレッド (海苔のペースト) 、コックルス (ザルガイ) 、そして地元産のベーコンとソーセージ。初めて口にするラヴァーブレッドは、海の香りが強く独特な味だったが、これもウェールズの伝統の一部だと思うと愛おしく感じられた。「昔から漁師や炭鉱夫の朝食だったのよ」とグウィンさんが教えてくれる。
午前中は、タフ・トレイル (Taff Trail) をハイキングすることにした。このトレイルは、かつて石炭を運んでいた鉄道跡を歩道として整備したもので、産業遺産でありながら自然散策路としても親しまれている。川沿いの道は平坦で歩きやすく、所々に残る古い橋脚や線路の痕跡が、この地域の産業史を物語っている。
歩いていると、地元の老人に出会った。毎朝の散歩が日課だというデイヴィッドさんは、かつてこの地域の炭鉱で働いていたという。「あの頃は、この川も真っ黒だった」と苦笑いを浮かべながら語る彼の言葉に、産業革命がもたらした光と影の両面を感じる。今は清らかに流れるタフ川の水面を見つめながら、時代の変遷と自然の回復力について思いを巡らせた。
午後は、フォレスト・ファーム・カントリーパークへ足を向けた。かつての製鉄所跡地を公園として整備したこの場所は、産業遺産と自然が見事に調和している。古い煙突や水車の跡を残しながら、周囲には木々が生い茂り、野鳥のさえずりが響く。特に印象的だったのは、森の中に突然現れる巨大な水車だった。苔むした石組みと錆びた鉄の歯車が、産業時代の記憶を今に伝えている。
公園内のビジターセンターでは、地域の自然史と産業史を学ぶことができた。ウェールズの森に生息する動植物の展示から、19世紀の製鉄業の様子まで、この土地の多層的な歴史が丁寧に説明されている。特に興味深かったのは、ウェールズ語での動植物の名前の展示だった。「Draig Goch」 (赤いドラゴン、てんとう虫のこと) 、「Blodyn yr Haul」 (太陽の花、ひまわりのこと) など、詩的で美しい名前の数々に、この土地の人々の自然に対する愛情深い眼差しを感じた。
夕方、村の中心部を散策していると、小さな教会セント・マイケル教会に出会った。12世紀に建てられたというこの教会は、素朴な石造りで、内部は質素だが温かみがある。夕日が色とりどりのステンドグラスを通して差し込み、祭壇を柔らかく照らしている。誰もいない静寂の中で、しばし瞑想のような時間を過ごした。
夜は再び「The Lewis Arms」へ。昨日とは違うメニューで、今度は「Faggots and Mash」を注文した。豚肉のミートボールにマッシュポテトを添えた料理で、グレイビーソースの濃厚な味わいが身にしみる。カウンターでは昨日と同じ顔ぶれの常連客が集い、私の存在にも慣れた様子で軽く挨拶を交わしてくれた。こうした何気ない交流こそが、旅の真の醍醐味なのかもしれない。
B&Bに戻ると、グウィンさんが暖炉に火を入れてくれていた。薪のパチパチという音と温かな光に包まれながら、今日歩いた森の径と、出会った人々のことを思い返す。産業遺産と自然の共存、そして地域の人々の暮らしに息づく歴史。この村の魅力は、単なる観光地の美しさではなく、生きた文化と記憶の重なりにあるのだと実感した一日だった。
3日目: 別れの朝と心に刻まれた風景
最後の朝は、早起きしてもう一度カスティル・コッホを訪れることにした。朝霧に包まれた森の中を歩くと、城はより一層神秘的な姿を見せていた。観光客が来る前の静寂の中で、城の周りをゆっくりと一周する。昨日の午後とは全く違う表情を見せる城に、建物もまた生きているのだということを感じる。朝露に濡れた石壁は、何世紀もの風雨に耐えてきた歴史の重みを静かに語りかけているようだった。
朝食後、グウィンさんに別れの挨拶をする前に、村の高台にある展望台へ向かった。そこからは、タフ川の蛇行、緑の丘陵、そして遠くにカーディフの街並みを一望できる。手前には赤い屋根のカスティル・コッホ、足元には石造りの家々が点在するトングインライスの村。この風景を目に焼き付けながら、わずか3日間という短い滞在だったが、この土地との深いつながりを感じていることに気づく。
午前中最後の時間は、村の小さな土産物店「Siop Fach」 (小さな店) で過ごした。ウェールズ語の本や地元の手工芸品、そしてカスティル・コッホの絵葉書などが並ぶ小さな店で、店主のマリアンさんとウェールズの文化について語り合った。彼女が勧めてくれたウェールズ語の詩集を手に取ると、その音の美しさに魅了される。意味は分からなくても、言葉の持つ音楽性がこの土地の精神性を表現しているように感じられた。
正午前、ついにB&Bを後にする時がやってきた。グウィンさんは手作りのウェルシュケーキを包んでくれ、「また必ず戻っておいで」と温かい言葉をかけてくれた。彼女の優しさと、この3日間で出会った全ての人々の温かさが胸に深く刻まれる。
駅へ向かう道のりは、来た時と同じタフ川沿いの径だったが、今度は振り返りながら歩いた。赤い城の屋根、森の緑、川の流れ、そして村の石造りの家々。一つ一つの風景が、もはや単なる景色ではなく、思い出と感情の宿った特別な場所となっていた。
電車が駅に到着し、車窓から最後にトングインライスの村を眺める。小さな駅のホームに立つ間も、この村との別れがたい思いが募る。電車が動き出すと、緑の丘陵と赤い城が徐々に遠ざかっていく。しかし、心の中では既にこの風景が永遠に刻まれていることを確信していた。
カーディフへ向かう車窓の風景を眺めながら、この3日間で体験したことを反芻する。歴史と現在が自然に共存する村の佇まい、地域コミュニティの温かさ、産業遺産と自然の調和、そしてウェールズ文化の生命力。短い滞在だったからこそ、全ての瞬間が凝縮された濃密な体験となった。
最後に
この旅は空想の産物である。しかし、ウェールズ・トングインライスという実在の村の魅力と、そこに息づく文化や歴史、人々の営みを通じて、私は確かに心の旅を体験した。赤い城の幻想的な美しさ、タフ川沿いの静かな径、パブで交わした温かな会話、そして朝霧に包まれた森の神秘。これらの風景と体験は、想像の中でありながら、今も鮮明に心に残り続けている。
空想でありながら確かにあったように感じられる旅。それは、その土地への憧れと敬意、そして人と自然と歴史への深い愛情から生まれるものなのかもしれない。実際にその地を踏むことがなくても、心はすでにトングインライスの石畳を歩き、カスティル・コッホの城壁に触れ、タフ川のせせらぎを聞いている。旅とは、物理的な移動以上に、心の動きなのだということを、この空想の旅を通じて改めて実感した。
いつの日か、本当にこの村を訪れることがあったなら、きっとこの空想の記憶が現実と重なり合い、より深い体験となることだろう。そんな希望を胸に、私はこの心の旅を終える。