はじめに
ノルウェー中部に位置するトロンハイム。この古都は、1000年以上前にヴァイキングの王によって築かれた歴史ある街だ。かつてはニダロスと呼ばれ、ノルウェー王国の首都として栄えていた。今でも街の中心部には、壮麗なニダロス大聖堂がそびえ立ち、石畳の街並みがその歴史を物語っている。
トロンハイム・フィヨルドに面したこの街は、色とりどりの木造建築が水辺に映える美しい港町でもある。旧市街バッククラーンダでは、赤や黄色、青に塗られた木造の倉庫群が川沿いに並び、まるで絵本の世界に迷い込んだかのような風景を作り出している。現代では学術都市としても知られ、ノルウェー工科大学を中心とした若い活気と、深い歴史が調和した独特の雰囲気を持つ。
北欧の短い夏の終わりか、それとも長い冬の始まりか。そんな季節の境目に、私はこの街を訪れることにした。
1日目: 石畳に響く足音と、時間の重なり
オスロからの飛行機でトロンハイム・ヴァルネス空港に降り立ったのは、午前10時過ぎのことだった。空港バスに揺られながら街へ向かう道中、車窓に広がるのはどこまでも続く針葉樹の森と、点在する赤い屋根の家々。ノルウェーらしい風景が心を静かに落ち着かせる。
街の中心部に到着すると、まず目に飛び込んできたのはニダロス大聖堂の威厳ある姿だった。午前の陽光を受けて、石造りの尖塔が空に向かって伸びている。荷物をホテルに預けてから、足は自然とその大聖堂へ向かった。
11世紀に建設が始まったというこの大聖堂は、ノルウェー最大の中世建築物だ。ゴシック様式の美しいファサードには、聖人たちの彫刻が丁寧に刻まれている。内部に足を踏み入れると、高い天井から差し込む光が色とりどりのステンドグラスを通して、幻想的な模様を床に描いていた。祭壇の前で、地元の人々が静かに祈りを捧げている姿に、この場所が今なお人々の心の支えであることを感じた。
午後は旧市街のバッククラーンダを散策した。ニドエルヴァ川沿いに建つカラフルな木造建築群は、かつて商人たちの倉庫として使われていたものだ。現在はレストランやカフェ、ショップに改装されているが、その歴史的な佇まいは変わらない。赤い建物の前で写真を撮る観光客の姿もあったが、平日の午後ということもあって、全体的に静かで落ち着いた雰囲気だった。
川に架かる古い木造の橋、ガムラ・ビューブロから眺めるバッククラーンダの景色は息を呑むほど美しい。水面に映る建物の色彩が、まるで絵画のようだった。橋の上で立ち止まり、しばらくその風景に見入っていると、地元の老人が話しかけてきた。
「美しいでしょう?私は70年間この街に住んでいますが、この景色を見ると今でも心が躍るんです」
彼の英語には少しノルウェー語なまりがあったが、故郷への愛が伝わってくる温かい口調だった。彼は子供の頃からこの川で泳いだこと、倉庫で働く大人たちを眺めていたことなど、街の記憶を語ってくれた。
夕方には、地元の人に勧められたレストラン「Fagn」で夕食をとった。モダンノルディック料理の店で、地元の食材を活かした創作料理が評判だという。前菜は北極海で獲れたホタテのカルパッチョ。新鮮な貝の甘みと、ディルの爽やかな香りが口の中で調和する。メインディッシュには、ノルウェー産の鹿肉を選んだ。ジューシーな肉質と、ジュニパーベリーのソースの組み合わせが絶妙で、まさに北欧の森の恵みを味わっているような気分になった。
レストランの窓からは、夕暮れ時の街並みが見えた。石畳の道を歩く人々の姿、オレンジ色の街灯の明かり。1000年前からこの街に住む人々も、きっと同じような夕暮れを眺めていたのだろうか。そんなことを考えながら、ゆっくりと時間が過ぎていく。
ホテルに戻る道すがら、大聖堂の前を再び通った。夜にライトアップされた建物は、昼間とはまた違った神秘的な美しさを見せていた。明日はどんな発見があるだろうか。期待を胸に、静かな夜の街を後にした。
2日目: 自然の調べと、人々の営み
朝7時に目を覚ますと、ホテルの窓の外はまだ薄暗かった。北欧の秋は日の出が遅い。ゆっくりと身支度を整えてから、ホテルの朝食会場へ向かった。
典型的なノルウェーの朝食が並んでいる。まずは定番のオープンサンドイッチから。ライ麦パンの上に、スモークサーモン、クリームチーズ、ディルをのせたもの。素材それぞれの味が調和して、北欧らしい上品な味わいだ。温かいコーヒーと一緒にいただくと、体の芯から温まってくる。
午前9時過ぎ、今日の目的地であるクリスティアンステン要塞へ向かった。市内中心部から徒歩15分ほどの丘の上にある、17世紀に建てられた星型の要塞だ。坂道を上りながら振り返ると、トロンハイムの街並みが一望できる。カラフルな屋根が織りなす景色は、まるでパッチワークのようだ。
要塞に到着すると、地元のガイドさんが歴史について説明してくれた。この要塞は、スウェーデンからの侵攻に備えて建設されたもので、実際に何度かの戦いを経験しているという。石造りの厚い城壁の中に立つと、当時の緊張感が伝わってくるようだった。
要塞から見下ろすトロンハイム・フィヨルドの景色は格別だった。穏やかな水面に、遠くの山々が映り込んでいる。時折、小さな漁船が静かに行き交う姿が見える。ここで30分ほど景色を楽しんでから、街へ戻ることにした。
午後は、ロッキーアイランド (Rockheim) という音楽博物館を訪れた。ここはノルウェーのポピュラー音楽の歴史を展示している現代的な博物館だ。建物自体も特徴的で、トロンハイム・フィヨルドに突き出すように建てられている。
館内では、1950年代から現在までのノルウェーの音楽シーンを体験できる。a-haやKings of Convenienceなど、国際的に知られるアーティストから、地元で愛される伝統音楽まで、幅広い展示がある。特に印象的だったのは、サーミ族の伝統音楽「ヨイク」のコーナー。自然の音を声で表現する古い歌唱法で、聞いているだけで北欧の大自然が目に浮かぶようだった。
音楽博物館のカフェで遅い昼食をとった。ノルウェー名物のフィッシュスープが温かくて美味しい。新鮮な白身魚と根菜類がたっぷり入っていて、クリーミーなスープが体を芯から温めてくれる。パンにつけて食べると、さらに満足感が増した。
夕方には、地元の市場「トルヴェット」を散策した。新鮮な魚介類、地元産の野菜、手作りのチーズなどが並んでいる。市場の店主たちは皆フレンドリーで、商品について詳しく説明してくれる。チーズ屋さんでは、ノルウェー特産のブルーチーズを試食させてもらった。濃厚でコクがあり、少し塩気の強いチーズだった。
「これは祖父の代から作り続けているレシピなんです」と店主が誇らしげに語ってくれた。「ノルウェーの山で育った牛のミルクを使って、昔ながらの方法で熟成させています」
そのチーズを少し購入して、近くの公園のベンチで夕日を見ながらいただいた。西の空がオレンジ色に染まり、その光がトロンハイム・フィヨルドの水面をきらきらと照らしている。平日の夕方とあって、公園には仕事帰りの人々が散歩したり、ベンチで休憩したりしている。穏やかな日常の一コマに、自分も自然に溶け込んでいるような気分になった。
夜は、地元のパブ「Mikrobryggeriet」でクラフトビールを楽しんだ。ここは自家製ビールを醸造している小さなブルワリーで、地元の人々に愛されている店だ。IPAを注文すると、ホップの苦みと香りが程よく効いた、飲みやすいビールだった。
隣に座っていた地元の若者と話をする機会があった。彼はトロンハイムの大学で工学を学んでいるという。
「トロンハイムは小さな街だけど、とても住みやすいんです。自然が近くて、人々は親切で、それでいて国際的な雰囲気もある。きっと気に入ると思いますよ」
彼の言葉通り、この街には確かに特別な魅力があった。歴史と現代が調和し、自然と文化が共存している。そんな街の夜は、静かでありながら温かい活気に満ちていた。
3日目: 別れの朝と、心に残るもの
最終日の朝は、早起きして街の朝の表情を見に行くことにした。午前7時、まだ人通りの少ない石畳の道を歩いていると、パン屋からは焼きたてのパンの香りが漂ってくる。早朝から開いているカフェで、地元の人たちが新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる姿が見えた。
ニドエルヴァ川沿いを歩きながら、もう一度バッククラーンダの景色を目に焼き付けた。朝の光を受けて、カラフルな建物群がより一層鮮やかに見える。川面には薄い霧がかかっていて、幻想的な雰囲気を醸し出していた。橋の上で立ち止まり、深呼吸をしてこの瞬間を記憶に刻み込んだ。
ホテルに戻って朝食をとった後、最後の観光地として王宮跡 (Erkebispegården) を訪れた。中世のノルウェー大司教の邸宅跡で、現在は博物館として公開されている。ここでは、中世の生活用品や宗教的な美術品が展示されており、当時の人々の暮らしぶりを垣間見ることができる。
特に印象深かったのは、12世紀の美しい彫刻群だった。石に刻まれた聖人たちの表情は、数百年の時を経てもなお生き生きとしている。ガイドさんによると、これらの彫刻は当時の最高水準の技術で作られたもので、ヨーロッパ各地から職人が集まって制作したという。
「中世のトロンハイムは、北欧の文化的中心地だったんです。ここに来れば最新の芸術や技術に触れることができました」
そんな話を聞きながら、この街が持つ文化的な深さを改めて感じた。
昼食は、最後に地元の家庭料理を味わいたくて、「Sjøbua」という伝統的なレストランを選んだ。ここの名物は「ラクスェフィッシュ」という、ノルウェー北部の伝統的な発酵魚料理だ。独特の風味があるため好き嫌いが分かれるというが、せっかくなので挑戦してみることにした。
運ばれてきた料理は、見た目は普通の魚料理だったが、口に入れると確かに独特の味がした。発酵による複雑な旨味があり、最初は戸惑ったが、だんだんクセになる味だった。地元の人が代々受け継いできた味なのだと思うと、何だか特別な体験をしているような気分になった。
午後2時、ついに空港へ向かう時間がやってきた。バッククラーンダを最後にもう一度見てから、空港バスに乗り込んだ。車窓から見える風景は、3日前に到着した時と同じはずなのに、なぜか全く違って見えた。見慣れた針葉樹の森も、赤い屋根の家々も、すべてが愛おしく感じられた。
空港で搭乗手続きを済ませながら、この3日間を振り返った。ニダロス大聖堂の荘厳さ、バッククラーンダの美しい景色、要塞から見下ろしたフィヨルドの風景。そして何より、出会った人々の温かさ。チーズ屋の店主の誇らしげな笑顔、学生の青年の率直な言葉、橋の上で街への愛を語ってくれた老人。
飛行機の窓から見下ろすトロンハイムの街は、小さく見えたが、確かにそこに存在していた。きっとあの街では今も、石畳の道を人々が歩き、川沿いのカフェで誰かがコーヒーを飲み、大聖堂では静かに祈りが捧げられているのだろう。
最後に
この旅は空想の産物である。実際にトロンハイムの石畳を歩いたわけでも、ニダロス大聖堂の中で祈りを捧げたわけでもない。バッククラーンダのカラフルな建物を目にしたわけでも、地元の人々と言葉を交わしたわけでもない。
それでも、この旅は確かに私の心の中で起こった。北欧の短い秋の日差し、川面に映る古い建物の色彩、発酵魚料理の独特な味わい、そして何より、この古い港町が持つ穏やかで温かい雰囲気。それらすべてが、今も心の中で生き続けている。
空想でありながら、確かにあったように感じられる旅。それは、その土地への憧れと想像力が織りなす、もう一つの現実なのかもしれない。いつか本当にトロンハイムを訪れる日が来たら、この空想の記憶と現実が重なり合って、さらに豊かな体験になることだろう。
人は物理的に移動することだけが旅ではない。心が動き、想像が広がり、新しい世界に触れることもまた、確かな旅の一つの形なのだから。